第7話
十月の下旬、照義と岩谷との間にまたトラブルが起きた。現代文の時間だった。照義が教室に入ると、岩谷は机に伏しており、起立の号令にも立ち上がらず、始業の挨拶をしなかった。授業中俯せになる岩谷の悪癖は二学期半ばを迎えてその度合を増していた。しかし始業の礼もしないというのはやはり珍しかった。前の時間から寝ていたのかも知れないと照義は思った。注意すると押付けていて額の赤くなった顔を上げ、充血した目でうるさそうに照義を見たが、すぐまた俯せになった。照義はそれ以上構わず、漢字の豆テストの用紙を配った。週に二、三度やる熟語の書取りだった。照義が熟語の読みを言い、生徒がそれを漢字で書き記すのだ。十問出すのだが、三問目まで岩谷は俯したままで書く様子がなかった。照義が二度ほど名前を呼び、「書かんか」と言うと、俯したまま顔だけ横に上げてシャープペンシルを立て、書く様子をした。しかしそれも二、三問で、また目を閉じてしまった。十問目を言い終え、時間を見計らって照義は用紙の回収を指示した。列の一番後ろの者が集めるのだが、その位置に座っている岩谷は俯したまま動かない。彼の前の席のおとなしい生徒が仕方なく立ち上がって回収を始めた。回収された用紙を照義が繰ってみると、岩谷のものは含まれていない。これは注意しなければならないと彼は思った。岩谷の名前を呼んだが頭を上げない。二、三度呼んで、ようやく顔を上げたので、照義が「お前の紙はどうした、出さんか」と言うと、「書いてないから出しても同じ」とうるさそうに答えた。「いいから持ってこい。テストの時は出すもんだ」と照義が言うが、動こうとしない。「持ってこい! 」と照義が語気を強めると、「しつこいな」と嘯きながらも立ち上がって前に来た。岩谷は教壇の手前で止まらず、上に上がった。そして照義を睨み付けた。それは威嚇を意図した動作であり、また教壇の上の照義に見下ろされるのを避ける動作でもあった。岩谷の手から受けとった用紙には名前だけが乱雑に書かれていた。「テストの時は書けても書けなくても答案は出すものだ」と照義は岩谷の敵意に満ちた目を見ながら言った。さらに、「お前は一番後ろの席なのに、なぜ集めないんだ」と言うと、岩谷は目に精一杯凄味を効かせて、「ぶっ殺すぞ」と低く太い声で言った。照義が一瞬怪訝な顔をすると、「ぶっ殺すぞ」と繰り返した。「外に出ろ」と照義は反射的に応じていた。すると、「お前が外に出ろ」と、岩谷は照義の肩を突いた。照義は〈ほう〉と思った。岩谷は教師を教師とも思わずに突っかかってくる生徒だったが、何もされない先から手を出すというのは始めてだった。岩谷の態度の背後に生徒達の変化を照義は感じた。二学期になって教師達が体罰をしなくなったことが、生徒達を増長させることになっているのではないかと思われた。二人は廊下に出た。授業中の廊下は静かだった。そこで言い合うのはさすがに憚られた。照義が「職員室に来い」と言って歩き出すと、彼を睨んでいた岩谷は自分の視線の糸に引かれるように付いてきた。
職員室の端に設けられた応接室の一つに、照義は岩谷を入れた。椅子に座らせて向かい合う。岩谷は昂然と顔を上げ、照義の目を挑戦的に見返してきた。職員室に来るとおとなしくなるこれまでのパターンと少し違っていた。照義は授業の開始時からの岩谷の態度を順を追ってあげ、その非を指摘した。そして、「どう思うか」と反応を窺ったが、岩谷はそれがどうしたというような態度と物言いを続けた。言葉遣いも教室にいる時とさして変らなかった。しばらく話したが岩谷の態度に変化はなく、照義は始まったばかりで中断している授業が気になりだした。それで、岩谷に「よく考えておけ」と言って教室に戻った。自分が一人残されると知って岩谷の表情が少し強張った。
教室に戻ると生徒達がざわめいていた。照義は教壇に立って、「さぁ、授業に入るぞ」と声をかけた。しかしざわめきは静まらなかった。照義の目に映る生徒達の表情には薄ら笑いが浮かんでいた。うんざりした表情をする者もいた。照義は苦い気持を味わいながら教科書のページを指示した。最後まで落ち着かない雰囲気のまま授業が終り、照義は後味の悪さを覚えながら職員室に戻った。
応接室に入ると岩谷の姿が見えない。指示通りに動かない岩谷に戸惑いと不快を感じながら、照義は校内放送で岩谷を呼び出した。間もなく照義の席に来た岩谷は、「チャイムが鳴ったから教室に戻っていた」とケロッとした顔で答えた。「お前のしたことや言ったことをどう思っているか」と照義は改めて尋ねた。「何も思っていない」と岩谷は答えた。「何も思っていない」、オウム返しに照義は言い、「自分が悪かったとは思わないんだな」と訊くと、「悪かったのかなという気もする」と答えた。照義は岩谷を再び応接室に入れた。向き合って話をすると、岩谷は沈黙しがちになり、応接室に最初に入った時のような勢いはなくなっていた。やがて、照義の言葉に頷くようになった。しかし、照義が求めていた反省や謝罪の言葉は聞かれなかった。彼は岩谷にそれを求めるのは無理だと考え、とにかく自分の言葉に頷くようになったのだから許してやろうかと思った。だがただ許すのではこれまでの事もあり、甘すぎると思われたので、彼は今後こういうことがあった場合は許さないぞ、と岩谷に告げた。「許さない」の内容として彼が考えていたのは、親を呼び出して、親の前で叱ることか、問題を生徒部長に持ち出すことだった。喫煙や窃盗などのように明確な処罰の規定はないようだが、教師に対する暴言は十分処罰に値すると照義は考えていた。処罰を受けることにはならなくとも、生徒部長から注意を受けることは担任から言われるより一段重い処置となった。さらに照義は今日起きた事は親に連絡し、今後同じようなことが起きた場合は許さないということも伝える、と岩谷に告げた。親に連絡を取るというと岩谷の表情が少し歪んだ。彼がこうした事を親に知らされるのを嫌っていることは一学期に起きたある出来事から照義には分かっていた。
それは岩谷が無断早退をした時のことだった。帰りのホームルームをしに教室に行くと岩谷の姿が見えず、鞄も見当たらない。無断早退があった場合、照義は家庭に連絡を取ることにしていたので、岩谷が家に着く頃を見計らって電話を入れた。妹が出て、岩谷はまだ帰っていないと言った。照義は帰ってきたら自分の家に電話するよう伝言を頼んだ。その晩八時を過ぎても電話がないので、照義は再度岩谷の家に電話を入れた。今度は母親が出た。岩谷はまだ帰っていなかった。照義は母親に岩谷の無断早退を告げた。母親は驚いた様子で、「そうですか。ご迷惑をかけてすみません」と詫びを言った。照義は帰ってきたら電話をさせて下さいと言って切った。岩谷の母親とはそれが最初の接触だったが、子供から連想するイメージとは違って学校や担任を尊重する気配に照義は少し安堵を覚えた。しかし、その夜岩谷からの電話はなかった。翌日の朝のホームルームで、照義が岩谷に帰りのホームにいなかった理由を質すと、腹の具合が悪くて便所に行っていたと答えた。鞄はそのまま帰るかも知れなかったので友達がもってきてくれたと言う。帰る前になぜ連絡しなかったか、と訊くと、便所に行ってしばらくすると痛みが治まったので、教室に戻ったが、ホームルームはもう終っていたから帰ったと答えた。照義は岩谷の言葉を信じたものかどうか迷った。彼は帰りのホームの後、教室に残って掃除の監督をしたから、ホーム終了後十五分くらいは教室にいたのだが、岩谷の姿は見なかった。その後で教室に来たとすると、ホームの時間を加えて彼は二十分以上便所の中にいたことになる。そんなに長く、と疑えば疑える時間だ。照義はそのことには触れず、ホームルームが終っていても職員室に自分はいるのだから、連絡をしにくるのが筋だと言った。さらに、「お前、なぜ昨日の晩電話してこなかった」と訊くと、「なんであんたの家に電話せないけんの」と岩谷は鼻で笑うように言った。照義は怒りを覚えて、「お前、体の調子が悪いというのに八時までようウロウロできたの。お前の言うことは信用できん」と言うと、岩谷は照義の顔を睨んで沈黙した。帰りのホームルームまでが日課なのだから、それが受けられない時は必ず連絡するように、そうでなければ無断早退になる、とこれは全体に注意する形で照義は言った。彼はそれでこの問題を切り上げようと思ったのだが、「こんなことで家に電話をかけないでください。親が心配するから」と岩谷が文句を言った。照義は、何を言うんだこいつは、という気持で、「無断早退は電話するぞ」と語気を強めて答えた。「こっちは気を使って、お前が家に帰り着く頃まで待って電話を入れたし、家の人が出ても用件は言わないで、俺の家に電話するように連絡したんだ。八時過ぎまで帰ってこないお前が悪いんだ」と照義が一気に言うと、岩谷は不貞腐れた顔をして黙った。岩谷としては反撃の言葉のつもりだったのかもしれないが、照義には岩谷は家庭への連絡を嫌っているということが印象づけられた。
照義は岩谷を教室に戻した後、岩谷の家に電話を入れた。電話に出たのは成人の男の声だったので、彼はてっきり父親と思って事情を話し始めたが、途中で相手が岩谷の祖父だとわかった。岩谷の家は郡部にあったが、祖父と同居しているということで、田舎に多い造りの大きな家を照義は連想した。彼は両親どちらでもいいから学校に連絡してくれるよう伝言を頼んで電話を切った。三十分ほどして母親から電話が入った。ちょっと外出していましたが何事でしょうという言葉に、息子がまた何かをやったのだろうかという不安を照義は感じとった。彼は出来事を起きた順にありのままに話そうとした。「ぶっ殺すぞ」と言ったことや肩を突いたことも、自分の内部の抵抗を押し切ってそのまま話した。「申し訳ありません。何を考えているのか」と母親は詫びを言い、また慨嘆した。照義は浅黒い膚で目の大きい母親の表情を思い浮かべた。岩谷の目は明らかに母親似だった。
照義が岩谷の母親と初めて顔を合せたのは一学期終了時の保護者会の折だった。保護者会には担任と保護者だけの二者面談と、生徒本人を加えた三者面談の二つの形があったが、一学期の保護者会では生徒の家庭での状況を知るために、親が話しやすい二者面談の形をとる担任が多かった。照義も二者面談を行ったが、岩谷の場合は家庭での状況を聞くことより、学校での行状を伝えることに比重がかかった。照義は岩谷との三度の衝突を経ていたが、それをかなり抑えた表現で母親に伝えた。それでもどこかいい話を期待してきたような節のみえる彼女には衝撃のようだった。授業中、俯せになって寝ていることが多いと告げると、「毎日遠い所から一時間以上かけて通学しているのに、何にもなりませんね」と嘆息した。岩谷の反抗については、それが照義を最も悩ませており、母親にも伝えたいことだったにもかかわらず、明確に伝えることができなかった。「お前」呼ばわりをして、胸倉を掴んで来る、というような具体的な表現が、母親の手前を憚ってではなく、生徒からそんな行為をされる自分の恥をさらすように感じられて彼にはできなかったのだ。彼の表現は「注意すると時々反抗してきますね」とか、「自己主張が強いお子さんですね」とかいうものに止まったが、母親は「生意気でしょう」「不愉快な思いをされたでしょう」と恐縮する様子を見せた。面談に馴れている感じで、目をしっかりと見て、間をおかずに言葉を発してくる様子は勝気な活力を感じさせ、地域で何かの世話役をしているのか、と照義に思わせた。この母親がいるから岩谷は家に連絡されたくないんだなと照義は思った。母親と連携すれば岩谷をコントロールできそうな気もした。
保護者会の後、照義には岩谷の反抗の実情を率直な表現で伝えられなかった自分への不満が残った。それは結局自分の体面を保とうとする行為にすぎないと思われた。それで今度の電話では彼はできるだけ有りのままに語るよう努めた。母親は「漢字のテストで何も書かないというのはうちの子だけですか」と訊いてきた。照義はその言葉に、我が子だけが目をつけられているのではないか、という思いを感じとった。「勉強してなくて0点を取る生徒はもちろんいますが、岩谷君のように全くやる気がないという態度を示す生徒はいませんね」と照義は答えた。母親は一通り出来事の経過を聞いた後、「最後に先生に謝りましたか」と訊いた。「いや、それはありませんでしたね」と照義が答えると、「そうですか」と言って少し沈黙した。この母親なら〈私が謝らせます〉とでも言うのかなと照義が思っていると、「どうも本当にご迷惑をおかけして申し訳ありませんが、よろしくお願いします」と言った。照義は「ええ、もちろん。こちらこそ」と答えたが、受話器を置くと、自分の手に負えない重荷を母親に転嫁しようとして失敗したような後味の悪さが残った。学校であったことを一々親に言うのも教師としてあまり格好のいいものではないなと彼は思った。母親と提携して岩谷をコントロールしようかとも考えていた彼は、やはり連絡は最小限にしようと考え直した。
照義と岩谷とはその後目立った衝突はなかったが、岩谷の授業態度が特に改まったわけではなく、二人の緊張関係は持続していた。
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