第3話

 夏休みが近付いた七月の初旬だった。授業中俯せになって、そのまま眠りかけている岩谷を、照義が「顔を上げろ」と何度か注意したのに対し、「この方が楽」、「誰にも迷惑はかけてない」と抗弁し、そんな言い分を認めない照義に、「あんた真面目やね。固いね。だけど何かおかしいんやね」とからかうような言葉を返した。照義の内部的な葛藤は彼の岩谷に対する態度を中途半端なものにしていた。叱るかと思えば妥協する、許しているのかと思えばそうでもない、岩谷にはそう映ったはずだ。それが「どこかおかしいんやね」という言葉に表れていた。そこに岩谷が照義を理解できずに、不満、批判、反発が再生されていく根があった。岩谷は照義が「背筋を伸ばせ」と言うと、俯せたまま背中を伸ばすようにして、「伸びとるやん」などとも言った。照義が注意を重ねて、上半身は起き上がったのはいいが、頭を俯けて目は閉じているというふざけた態度を取った。しかし照義は姿勢は一応改まったので、それでよしとして授業を進めた。これ以上追及して衝突を起すことを彼は避けた。衝突すれば打撃はむしろ自分の方が大きいと思われた。また岩谷一人に拘らって授業時間を失うことは実際問題としていかにも愚かに思われた。

 その日の帰りのホームルームが済んで、照義は岩谷に声をかけた。授業中、岩谷が照義に「あんた」という言葉を使ったことを注意するためだった。教師に対する言葉遣いについてはこの前の衝突の時にも言い残したことだったので、今度は注意しておかなければならないと彼は思ったのだ。前に来た岩谷に照義は礼儀を守った言葉遣いをするように言ったが、岩谷は「はい」とは言わなかった。ムカつくからそんな言葉が出るという。教師と生徒の立場の違いを話すが納得しない。照義は岩谷が教師としての自分を嫌っていると思ったから、譲歩して、「少なくとも年長者だろう」と言ってみたが、頷かない。そしてそのまま帰ろうとした。「おい、話しはまだ終ってないぞ」と呼び止めるが廊下に出てしまった。照義は後を追って廊下に出て、岩谷の前に立った。「お前、そんな言葉遣いが学校で通用すると思うか」と照義が言うと、岩谷は「あんたはムカつくからそう言う。あんた以外の先生は別だ」と答えた。照義は怒りを抑えて、「しかしお前は俺からものを教えてもらってるだろう」と言った。岩谷は「あんたから教えてもらうつもりはない」と答えた。照義はさすがにカッとなって岩谷の頬を拳で殴った。岩谷は「殴ったな! 」と叫び、照義の胸倉を掴んで押しながら拳を振り上げた。一瞬、きたな、と照義は思い、無抵抗に押されながら、岩谷が拳を振り上げたので顔をそむけると、「あっ、びびっとら。びびるくらいなら注意などするな! 」と岩谷は勝ち誇ったように言った。それから急に気勢が落ちた。照義は自分が怯んだと相手に取られたことが心外であり、腹立たしく、また悔しくもあった。照義も岩谷の胸倉を掴んでいた。彼は手に力を込めて押した。自分が怯んでいないことを彼はそれで示そうとした。「放せ。放せっちゃ。何いきがりよん」と岩谷は言い、照義の手を払いのけようとした。「職員室に来い」と照義が言うと、「何で行かないけんの」と反発したので、照義は「このままではすまんぞ」と行って、片方の平手で岩谷の頭を叩いた。

 その日は土曜日で、放課後、校外模試が教室を使って行われることになっていた。廊下には受験する生徒達が集まってきていた。照義は岩谷の胸倉を掴んだまま職員室の方へ連れて行こうとしていた。岩谷は周囲の生徒を意識して、照義に「お前」という言葉を遣い反発を続けた。それで照義は岩谷の頬を二度ほど張った。すると、「ふざけんな、このう」と言って、岩谷は再び照義の胸倉を掴んで押してきた。照義は無抵抗に後ろに下がった。側にいた生徒が岩谷を止めに入った。「何で叩くんか」と岩谷が訊いた。「お前が注意されよる言葉遣いを続けるからだ」と照義は答えた。二人は既に廊下の端の、職員室の方へ上がっていく階段の近くに来ていた。その頃になると岩谷の態度に沈静化が認められた。照義も落着きを取り戻してきた。照義は胸倉を掴んでいた手を放し、職員室へ行け、と岩谷を促した。岩谷は素直に階段を上り始めた。上り切った所で彼は照義を振り返り、「職員室に入るん? 」と訊いてきた。その声や態度からは既に反抗の気勢は失せていた。「前の廊下に座っとけ」と照義は苦い表情で言った。

 前の衝突と同じ形の結末となった。今回は少し厳しいことを言わなければならないなと思いながら、照義は正座している岩谷の前にしゃがんだ。彼は改めて教師に対する言葉遣いについて諭した。岩谷は今度は素直に聞くようだった。照義は無用な反発心を植え込むだけだというためらいもあったが、そんな言葉を投げつけたい衝動を抑え切れずに、「お前と俺は相性が悪い」と言った。お前は俺が嫌いかも知れないが、それはお互い様だ、という意味を込めた言葉だった。「だから問題を起こさないように気をつけろ」と続けたが、それは、お前とはあまり関わりたくないんだ、という気持を含んでいた。岩谷は黙っていた。照義は前回が尻切れとんぼに終った感じがあったので、今度は十分時間を取って、言葉遣い以外の面についても反省させたかったのだが、ちょうどその日と翌日の休日が教科の慰安旅行に当っていて、バスの出発時刻が迫っていた。その為に彼は、言葉遣いについて岩谷が「分かりました」と答えたのを機に、十分反省させたという確信のないまま放免せざるを得なかった。

 慰安旅行の間中、照義はこの出来事を反芻し続けていた。〈あっ、びびっとら。びびるくらいなら注意などするな〉という岩谷の言葉が執拗にに脳裏に浮かんできた。俺はあの時びびったのかと考えると、そうかも知れないとも思えた。しかし更に考えれば、生徒と殴り合いはしないという気持が基本にあったから、押されて無抵抗に下がったし、顔を背けたのも、拳を振り上げたから打撃を避けようとした動作だったと整理できた。それは彼の気持には一番納得がいく解釈だった。しかし、それで気持がすっきりするというわけにはいかなかった。自分の弱さを晒して、岩谷になめられてしまったのではないかという懸念がいつまでも彼の気持を解放しなかった。彼は出来事の各場面における自分と岩谷の行動を思い返しては岩谷の心理を推測した。しかし懸念を払拭する明確な材料は見つからなかった。とにかくあいつは最後に〈分かりました〉と言ったんだと、照義は自分を宥めるように思った。しかしそれが本当に反省した言葉かと考えると、やはりそうは思えなかった。

 照義は生徒から〈びびっとら〉と言う言葉を投げられたことに大きな屈辱を感じていた。本人には明確な自覚はなかったが、彼のあれこれの思いはその屈辱感をいかにして払拭するかという一点に収斂するものだった。      岩谷の言動から自分が受けた衝撃の大きさに比して、彼に対して取った処置の甘さを照義は繰り返し思った。唇を噛む思いがあった。その落差の分だけ彼は岩谷を気持の上で許すことができなかった。

 こうして一学期の間に照義と岩谷の敵対的関係は出来上がってしまった。

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