第2話
年度始めの四月、照義は受持ちクラスの生徒三人の頬を平手で張った。理由は新クラスになってすぐに出すべき提出物を、再三の注意にもかかわらず、四月の終わり近くになっても出さなかったからだ。二年生は厳しくしていかなければならないと照義は考えていた
一年時の受持ちクラスは順調だった。問題行動で処分される生徒が一年間を通じて出なかったのは、彼がクラス担任として初めて経験することだった。照義はできるならそのクラスをそのまま二年に持ち上がりたかったが、それは不可能だった。二年から進学コース別にクラス編成が行われるからだ。コースは国公立文系・理系、私立文系・理系の四つに分けられていた。進路別のクラス編成が表に出ていたが、国公立と私立の間には所属する生徒に偏差値の格差があった。国公立コースは特進クラスであり、成績の上位の生徒しか入れなかった。さらに私立コースにも成績の良い者を集めた優秀クラスがつくられていた。国公立コース、私立コースの優秀クラス、私立コースの一般クラスの順に生徒の偏差値は下がっていった。私立理系の一般クラスはそれでもほとんどが大学進学を希望する生徒だったが、私立文系の一般クラスになると、私立大学の文科系学部を目指す生徒の他に、専門学校や就職希望の生徒も少なくなかった。概して、学習意欲に乏しく、それだけ問題を起こしやすい生徒が他のコースに比べて多くなりがちだった。照義が担任になったのはそういう私文の一般クラスだった。甘い対応をしていると生徒になめられてしまうという意識を彼は持った。また、一年時の担任クラスの生徒が従順だったことが、教師が威圧すれば生徒は従うという短絡的な思考に彼を導いたことも否めない。これらの背景が照義にビンタという手段を、自分でも時期尚早というためらいを覚えながら、それを押し切って取らせることになった。
ビンタを張られた三人の内の一人は、反抗的な目で照義を見た。照義は、「何だ、その目は。まだわからんのなら学校をやめろ! 」と怒鳴った。生徒は目を逸らしたが、それ以後その生徒は照義に対して不貞腐れた態度を示すようになった。岩谷俊二はその生徒と一年生の時同じクラスで仲がよかった。岩谷もその出来事以来、照義に反抗的な態度を取るようになり、この二人は照義にとってクラスの中で気になる最初の存在となった。
五月に入って岩谷との衝突が起きた。岩谷が連続して掃除をサボッたのだ。出席番号順に六人ずつが一週間交代で教室と建物の外周の掃除を分担することになっていた。照義は毎日放課後教室に残って掃除を監督していた。学校では教室の清掃状態は担任の生徒管理能力を測るバロメーターの一つとなっている。教室が汚れている担任は管理職から注意を受けるし、清掃担当の教師からも責められることになった。毎日掃除を監督していたので誰がサボッたかはすぐ分かった。掃除をサボッた者は翌日の朝のホームルームで名前をあげ、注意するのだが、注意を受けた岩谷が、放課後また掃除をせずに帰ろうとしたのだ。照義は教室を出ていこうとする岩谷を呼び止めた。聞こえているはずだが歩みを止めない。教室の後ろの出入口から出て、廊下を教壇の方向へ歩き始めた。照義は教壇に立って岩谷の動きを目で追っていたが、岩谷が前の出入口を通り過ぎようとした時、もう一度「岩谷! 」と声をかけた。が、岩谷は振り向きもせずに通り過ぎていく。照義はやむを得ず廊下に出て、「おい、岩谷、掃除をせんか! 」と背後から叫んだ。岩谷は立ち止まり、振り返った。うるさそうな顔をしていた。「掃除をせんか。朝言うたろうが」と照義はその顔にぶつけるように言った。岩谷は苦い顔をしながら戻ってきた。途中、隣のクラスの生徒が彼になにか話しかけた。岩谷が、「こいつ、うるさいっちゃ」と照義の方に顎をしゃくりながら答えるのを照義の目と耳が捉えた。岩谷の自分への侮りと挑戦を感じて、照義の心が硬化した。前まで戻ってきた岩谷に照義はそれでも気持を抑えて、「分担はちゃんと果たさんとつまらんぞ」と言った。岩谷はうるさそうに「はい、はい」と不貞腐れた返事をした。照義は「何だ、その態度は! 」と怒鳴ると同時に岩谷の頬を張った。岩谷の表情が電気ショックでも受けたように一瞬強張った。次の瞬間、彼は照義の胸倉を掴んで、「叩くな、この。犬や猫と違うんぞ」と目を剥いた。それは照義にとって予想外の反応だった。胸倉を掴んで反抗してくる生徒は初めてだった。驚きと戸惑いが照義を一瞬無力にした。それでも岩谷の手を振り払って、「お前がちゃんとせんからだ」と彼は言い返したが、言葉に力はなかった。
この出来事は照義に屈辱感を与えた。教師は生徒から教師を教師とも思わないような態度を取られた時屈辱を感じる。教師の怒りはこの屈辱感から発していることが多い。自分に屈辱を味わせた生徒を教師は許せないと思う。その気持が有る限り、教師はその生徒に対する自由さを失うことになる。常に怒りとその裏返しの恐れをもってその生徒に対さなければならなくなる。こうした関係が固定されるか、変化するかは教師の力量、教師と生徒の資質に関係する。とにかくこの出来事は照義に岩谷を反抗的な生徒として印象づけた。屈辱の意識とともに。一方、岩谷の照義に対する態度はそれ以後悪化した。授業中、机に俯せになるのが彼の年度当初からの悪癖だったが、その度合いが増した。また、注意してもはかばかしく態度を改めなくなった。
六月の初め頃だった。授業中、照義は岩谷が机の上に立てた教科書の陰で鏡を覗いているのに気がついた。照義は視界の端に岩谷を意識していたが、俯せていないから授業を聞いているのかと思っているとそんなことだった。彼は不快感と煩わしさを覚えた。また注意しなければならないのかと思った。注意しても素直に聞くとは思えなかった。しかし無視することもできなかった。彼は授業を進めながら注意する機会を窺った。あの出来事以来、照義の岩谷に対する対応にはある慎重さが加わっていた。教師が生徒を叱る場合、考慮する事柄が三点ほどある。一つは当の生徒の問題であり、その生徒の行為が叱らなければいけないことかどうかの判断、叱った場合どんな反応を示すかという予測などがこれに当る。二つ目は教師の側の問題で、叱る根拠や論理の確認である。三つ目は他の生徒達に対する配慮だ。授業中に行われる個々の生徒に対する注意は他の生徒達という観衆を前にしてのパフォーマンスの面がある。注意するからには教師は相手の生徒をきちんと従わせなければならない。相手に反抗され、その反抗を抑えられなかったりとすると、生徒達の前で教師としての面目を失うことになる。相手の生徒が従順な生徒ではない場合、この三番目の考慮の比重が高まることになる。三番目を思うがゆえに一、二番目をしっかり考えることにもなるし、また逆に放棄する、つまり叱らずに見過ごすということにもなる。観衆である生徒達のプレッシャーは常に教師に作用している。照義は担任クラスの生徒達の前で岩谷を相手に失敗したくはないのだ。それも彼の慎重さの一つの原因だった。一番望ましいのは照義の視線に気付いていると思われる岩谷が注意される前にその行為をやめることだったが、その様子はなかった。照義の気持ちとして無視することはやはりできなかった。追い詰められたような感じで、彼は口を開いた。強いられた戦闘開始だった。
「岩谷、教科書の陰にあるものを持ってこい」
岩谷は無表情に照義を見返した。照義が繰り返して言うと、立ててあった教科書を倒した。その陰に鏡はなかった。机の中に入れたなと照義は思った。「お前、鏡を見よったろうが」と言うと、打ち返すように冷ややかに、「見てない」と岩谷は答えた。「うそをつくな。お前が鏡を見ていたのはわかっとるんぞ」と言うと、「知らぁん」と照義をせせら笑うような表情をした。困惑を覚えながら照義はどうしたものかと思った。生徒達の目が一斉に自分に集中するのを彼は感じた。側に行って机の中から鏡を取り上げようかと思った。しかしそうすればこの前のような反抗をひき起こす事態になるかも知れない。岩谷に胸倉を掴まれた時のショックは照義の中でまだ尾を引いており、そうなった場合、うまく処理できる自信がなかった。と言ってここで引き下がることは生徒達の手前もあり、できにくかった。照義は策もなくもう一度「鏡を持ってこい」と言った。「知らんっちゃ」と岩谷は今度は明らかに笑いを含んだ声で答えた。照義は岩谷の余裕を見て反対に余裕を失った。どう対処すればよいか分からないまま、「ま、授業はちゃんと聞けよ」と言って、問題を終らせようとした。その照義の逃げを岩谷は見逃さなかった。「謝れ」と岩谷が言った。「何」と照義が聞き咎めると、「間違いだったのだから謝ってほしい」と改まった口調で言い直した。生徒から謝罪を求められるというのも彼にとって初めてのことであり、ここまで言ってくるかと彼は怒りよりもむしろ内心たじたじとなった。「謝る必要はない」とそれでも照義は反射的に答えた。「なぜですか」と岩谷は訊いてきた。殊更な敬語の使用は照義に対する侮りを逆に表していた。照義はどう答えたらよいか分からず、混乱を覚えていた。生徒達の目に映っている不様な自分を彼は強く意識した。「俺は見たんだ。お前が鏡を見ているのを」、照義はそれが拠り所だという気持で言った。「俺は見とらんちゃ」と、岩谷はさっきから言っているではないかという口調で返した。「見たから注意したんだ」と照義は急き込んで言った。「あんたがそう思っただけやろ。俺は見てないっちゃ」と岩谷は引き下がらない。照義は一呼吸黙った。「謝ってほしいな」と岩谷は再び言った。「謝る必要はない」、照義もまた反射的に答えた。この時、ふと照義の気持が定まった。見たという事実に立脚するほかはないのだった。「俺は見たんだ。それで十分だ」と照義は言った。「あんたがそう思ったら絶対なのか。納得いきませんね」と岩谷は精一杯皮肉な表情をしてみせた。少し落着きを取り戻した照義は、「俺はお前の言葉より自分の目を信じるよ」と言って岩谷の顔を覗きこむようにした。岩谷は言葉に詰まった。沈黙した岩谷に、照義が諭すように、「お前も少し素直になったらどうか」と言うと、「しゃぁしい。お前こそ素直に自分の間違いを認めろ」と岩谷は劣勢を挽回すべく憎々しげな表情で言い返した。「お前とは誰か! 」と照義が声を大きくすると、「お前ちゃお前よ」と岩谷も噛み付くような表情で応じた。照義は岩谷の側に行ってビンタを張りたい衝動を覚え、また生徒の手前叩くべきだとも思ったが、岩谷の反抗を考えるとやはり躊躇された。代りに彼の胸の中で岩谷に対する嫌悪感が膨れた。「お前は廊下に出ろ! 授業は聞かんでもいい! 」と照義は怒鳴った。「何で出らないけんか」と岩谷は口を尖らせて言い返した。その時チャイムが鳴った。放って置いたほかの生徒達が頭に甦り、照義は済まなく思った。「お前は職員室に来い」と照義は岩谷に言った。「なし行くか」という小さな声が返ってきた。全体で授業の終りの挨拶をした後、照義はもう一度「岩谷来い」と声をかけた。「しゃしい」という呟きが岩谷の口から洩れた。「来んかったら問題はすまんぞ」と言うと、照義の顔を黙って睨みつけた。照義は教壇を下りて、「早く来い」と岩谷を促した。岩谷は机をガンと叩くと立ち上がった。
照義は岩谷を職員室の前の廊下に正座させた。それは彼の勤める学校で、生徒を叱る時、あるいは罰としてよく行われている方法だった。岩谷は逆らわずに座った。照義の後について職員室まで来る間に、岩谷の反抗的気勢は急速に退いていった。職員室の前では、岩谷は照義の問い掛けに敬語を、今度は揶揄ではなく使って答えた。話をしていく中で、鏡を見ていたことを岩谷は認めた。しかし注意された時は見ていなかったと抗弁した。照義は注意された瞬間が問題なのではないこと、授業中にそういう行為をすることの非を述べた。「わかったか」という照義の問い掛けに、岩谷は「はい」と頷いた。照義はやれやれという思いで岩谷を放免した。教師に対する言葉遣いなど、他にも反省を迫らなければならない事柄があったのだが、照義にはそこまでで精一杯だった。岩谷が「はい」と自分の非を認めた時、どうなることかと思っていた緊張感がふっと崩れた。これで何とか落着したという安堵の思いが彼の踏ん張りを流してしまったのだ。
この出来事はしかし照義の心に更に屈辱を刻み付けるものとなった。それは彼の岩谷に対する怒りと嫌悪、その裏返しとしての警戒と恐れを増幅させた。一方で照義は岩谷に対する自分のそうした感情を教師としての立場からは是認できないものと意識していた。彼はできるならそんな感情を脱して岩谷と対したかった。そこに照義の内部的な葛藤、不統一があった。それは彼の岩谷に対する対応をぎこちないものにした。そして必然的に次の衝突が起きることになる。
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