第50話 夜更かし①
家に入るなり脈絡もなく抱きつかれたので、本当に曲作りだけで済むのかわからないと思い始めた。奏はまだ無言のまま僕の胸元に顔を埋めている。
押し戻すこともできず、そのまま一分くらいは同じ姿勢で固まっていた。
「あ……あの……そろそろ離れない?」
「そうだね。ごめんね急に」
奏はケロリとした顔で離れて玄関の段差を登る。「いらっしゃい」といつものように出迎えてくれるが、それでさっきの事が無かった事にはならない。
「何かあったの?」
「あー……うん。なんか家に帰るときね、後ろから誰かにつけられてる気がしてたんだけど。変な人がいてさ」
そう言うと奏はインターホンの方に僕を連れて行く。インターホンの機械を操作すると、奏の家に取り付けられている防犯カメラの映像が再生された。
画面には、制服を着た見慣れた姿の奏がロックを解除して家の中に入っていく様子が映っていた。その数分後、マスクとサングラスで顔を隠した人物が奏と同じ方向から現れる。家の方を見ながら、家の前を行ったり来たりしていた。奏のストーカーなのか、強盗の下見なのか分からないが、かなり不気味だ。
その不審者は肩まで髪の毛を伸ばしている。男ならかなりの長髪だし、女性なのだろうか。そういえば、初ライブの時もサングラスをかけた怪しい女の人がいたと誰かが言っていた。あれは確か、永久と彩音が見ていたはずだ。携帯でインターホンの画面を写真に収めて、二人にメッセージを送る。
二人共暇していたようですぐに返事が来た。二人の解答は『判別不能』。ただでさえ画質の悪いインターホンの画面を直撮りしているので当然といえば当然か。
「この人、私が帰って来てからずっと家の前をウロウロしてるよね。流石の奏ちゃんも怖くなっちゃった訳よ。奏吾くんが来てくれたから安心だね」
「僕じゃ何もできないし……警察に行ってみる?」
「ううん。実害もないんだし、多分真面目に取り合ってくれないよ……と検索したら出てきたんだ」
そんなものなのか。何か起こってからでは遅いのに。
「奏を狙ってるんだよね? 何が目的なんだろう」
「さぁね。強盗かもしれないし、女子高生が大好きな変態さんかもしれないし。一目惚れされちゃったかなぁ」
「脅迫犯……とかはないかな?」
ツアー中は鳴りを潜めていた脅迫犯だが、そもそもサクシに粘着するというよりは奏個人を狙っていた可能性もある。ライブハウスで僕と奏の写真を撮られていたので根拠もある。だが、肩まで伸びた髪に心当たりはない。少なくともトワイライトの女性陣は二人共髪の毛が長い。最近散髪していたら分からないが。
奏は顎に手を当てて考え込んでいるようだ。
「それもありえるね。あー。少年名探偵に解決してもらいたいなぁ! モヤモヤするよぉ」
「それだと大体人が死ぬけどね……」
奏はニヤリと笑って僕の方を見る。万が一の時は、僕を犠牲にしてやろうという魂胆かもしれない。さすがに友達とはいえ命までは差し出せないと思う。
「ま、とりあえずはこれで安心かなぁ」
そう言うと、奏はインターホンを操作してセキュリティモードをオンにした。
「それで大丈夫なの?」
「うん。庭にセンサーがあるから、誰かが壁を超えてきたらすぐに警備会社の人が飛んでくるんだ」
庭にセンサーがある。つまり、僕が帰る時も反応するということだ。
「あの……一応確認だけど、僕が帰る時は解除してくれるんだよね?」
「もちろんだよ」
そう言いながら、奏はインターホンに向いていた顔をゆっくりと僕の方に向けてくる。その顔はサイコな殺人鬼と見間違えるほど、口と目が猟奇的に笑っていた。
本当に僕はこの家を無事に脱出できるのだろうかと不安になる。
奏は「冗談だよ」と笑い、いつもの顔に戻って近づいてくる。
「じゃ、やろっか。楽しみだねぇ」
奏にとっては、自分の好きなように曲作りができる機会なので楽しさもひとしおなようだ。
僕の手を取って家の奥にある部屋まで誘導してくれる。
奏の家は、リビングと奏の部屋くらいしか入ったことがないので、ほとんどの部分が謎に包まれている。後は、物販用のグッズを置いている部屋くらいだろうか。そこも数回入った程度だ。小口の注文は奏にそのまま発送してもらう方が早いので、結局、大口の注文が入った時だけ梱包を手伝うくらいになっている。
他の部屋に比べて分厚い扉を奏が重たそうに両手で開く。しっかりとした防音室ということが扉の厚さからも容易に想像できる。
中は音楽室のような、穴が等間隔に空いた壁に覆われており、部屋の真ん中にはグランドピアノが置いてある。あまり使われてはいなさそうなアンプや机が壁沿いに並べられていた。埃っぽくはないので、青木さんがこまめに掃除しているのだろう。
奏がアンプを引っ張り出して手早く電源に繋ぐ。手慣れていると感心するが自分の家なので当たり前だった。
「よし、準備出来たよ! 早速やろっか! ちょっと音質悪いけど、なんとかなるよね」
奏が携帯をスピーカーに繋いで、部室で録音していた彩音のドラムを流す。
「Aメロはピアノだけで、Bメロからドラムとベースが入るイメージなんだ。それで、サビの前でジャーンとギターが入ってくるの」
どうやらデモ版からはかなり構成を変えるようだ。奏のやりたいように作るのが今回のテーマなので頷いてベースラインのイメージを固める。
三時間くらいかけてベースパートも奏が納得行く形にまとまった。ベースを置いて、思いっきり伸びをする。自分で思っていた以上に大きな声が出たので咄嗟に口を覆う。
「ここ、防音だよ。それに誰もいないから」
奏が機材を片付けながら笑う。
「あ、そうだったね。眠いからかな。うっかりしてたよ」
時計を見ると既に夜の十時を回っていた。親には遅くなると連絡したが返事はない。
「ウケるね。眠気覚ましに一曲弾いてあげるよ」
奏はそう言うとグランドピアノの前に座る。目を瞑り、大きく息を吸ってピアノを弾き始めた。今日何度も聞いた曲だ。文化祭バンドで演奏するオリジナル曲。タイトルは完成してからつけるらしい。
イントロの段階ではいい加減聞き飽きたと思っていたのだが、Aメロに入り奏が歌い始めるとその気持ちは吹き飛んだ。
歌がものすごく上手くなっている。千弦のように高音がガンガンと出る訳ではないが、普段の話し声とは違うスモーキーな声だ。歌い方も試行錯誤しているのだろう。
それに、これまで聞いた中でも一番と言えるくらい歌に気持ちがこもっている。この歌は誰に向けているのだろう。両親だろうか。でも、物理的には二人に届かない。届くのはこの部屋にいる僕だけだ。
いつものように奏がピアノを弾いて、歌っている。だけど、今日はいつもと何かが違う。奏が一音を鳴らす、一音を声に出す度に、奏の体が桃色に縁取られていくのだ。
やがて、奏の周りに花が咲き始めた。鍵盤を叩くたびに新たな花が茎を伸ばしては咲いていく。ここだけに春が訪れたみたいだ。
季節外れな春の訪れを感じていると、自分の胸が高鳴っていることに気づいた。まさか、恋なのか。奏に恋をしてしまったのだろうか。
曲はサビを終えてピアノのソロパートに入っていた。奏の指が忙しなく動いている。その一本一本を近くでじっと見つめていたい。ペダルを優しく踏む足も。
曲の盛り上がりに連動して気持ちが昂っていく。演奏が終わったら奏に告白したい。好きだと伝えたい。そんな風に心が突き動かされていく。
心の中で天使が答える。
「奏はバンド仲間だ。バンド内での恋愛なんてご法度だぞ。上手くいっても振られてもバンド活動に支障をきたす。サクシの活動を止めてもいいのか」
それはだめだ、と僕が答える。早くも結論は出た。だから、ここで話は終わるはずなのに、天使は悪魔のような追い打ちをかけてきた。
「奏には好きな人がいるじゃないか。横から滑り込んでも意味がないよ」
天使の言葉で蓮の顔がちらつく。そうだった。奏には好きな人がいるのだ。僕なんかが相手にされる訳がない。ただの友達として接してくれているだけなのだ。勘違いも甚だしい。
目の前で咲き誇っていた花が全て枯れ、ドロドロのヘドロに変わる。カラフルな花畑はモノクロの沼地になった。
絶望の中でモノクロの風景を眺めていると、いつの間にか奏の演奏が終わっていた。演奏が終わったことに気づいた途端、景色も普通の防音室に戻った。
ものの五分の演奏の間、感情がジェットコースターのように振り回されていた。
「どうだった?」
奏がピアノの椅子に座ったまま聞いてくる。
「あ……うん。すごく良かったよ。何ていうのかな……気持ちがこもってたというか、感情が揺さぶられるような歌い方だったね」
「でしょでしょ! 良かったぁ!」
奏は嬉しそうにはにかんで僕に近づいてくる。
「私なりに奏吾くんや永久に言われた、足りない『何か』っていうのを考えてみたの。やりたいように曲作りをするのも勿論だけど、やっぱ気持ちなのかなって思ったんだ」
「気持ち?」
「うん。サクシの活動は『成功したい』って思いがどうしても強くてさ。自分の感情よりも売れる事を優先して曲を書いてたの。文化祭だとそういうのが無いから、とにかく届けたい人に気持ちを届けることに専念できるんだ」
「今の演奏は両親に向けてたの?」
「ううん。ここにいる、奏吾くんだよ。永久にいじられてムスッとした時の顔、彩音に怒鳴られて驚いてる顔、千弦と話してヘラヘラしてる顔。色んな場面を思い出しながら歌ってたんだ」
奏は僕に何かを届けたい一心で歌ったようだ。僕の感情がジェットコースターのように動いたのはそれが原因だったのだろう。奏の歌と演奏は、しっかりと僕に響いた。
「本当に、これでもかってくらい気持ちが揺さぶられたんだ。初めての経験だったよ」
奏は僕の感想を聞いてニッコリと笑う。だが、すぐに不安そうな顔になってしまった。いちいち何を気にしているのか考えてしまう。奏の心が読めたらどんなに楽だろうか。
「それでも、やっぱり言葉にしないとなんだよね。あのね、私ね……」
奏が下を向いて息継ぎをする。ここまでまくし立てていたので酸素が少なくなっていたらしい。何となくだけど、大事な事を言いそうな気配だ。
下を向いたまま数秒の間が空く。
「お……お風呂に入ってきまぁす! 今日泊まるよね? リビングで待っててね!」
奏が伝えたかったことは、今日の泊まりの件らしい。ストーカーの件もあって心配なのでそのつもりだったけど、奏がその前提で話を進めるのは違う気がする。確かに奏に言われなかったら、こっちから提案するのも気持ち悪いので家に帰っていたと思うが。
全く重要ではない話をして、奏は防音室から出ていってしまった。少しでも期待してしまった自分が恥ずかしい。僕は、奏の事が好きなのかもしれない。自分の奥底に眠っていた思いに気づいてしまった。そして、それは今この瞬間は報われる事は無いし、これからも報われないかもしれない。
無音の空間に一人取り残される。奏は指摘しなかったけど、僕は泣いていたようだ。服の襟が濡れている。
奏の歌の余韻に浸りながら、涙の理由探しを一人で続けるのだった。
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