新九郎 共に歩む

失わなかった少女


 徳乃新九郎とくのしんくろう――――真名、徳川𠮷乃とくがわよしのに母はいない。彼女がまだ四歳と数ヶ月の頃、江戸城を襲った大位の鬼によって彼女の母は殺害された。


 それはしくも、神代神社が黒曜の四位冠の一人によって襲われ、壊滅の憂き目を見たのと同日のこと。



 吉乃は甘え上手な少女だった。



 生母である家晴いえはるの妻に対しては勿論。乳母や女中、果ては老中や大目付など、その二つの大きな目の中に僅かでも入った者には誰彼構わず甘え、まるで猫のようにニコニコと笑みを浮かべてすり寄っていった。



 怒られれば大声で泣き、優しくされれば満開の笑みを浮かべる。

 そういう少女だった――――。



「かあさま……? どこにいるの……?」


 あの日。新九郎は珍しく真夜中に目を覚ました。

 いや、珍しくというのは正確ではない。


 新九郎は普段から常々母の寝所で共に眠りについていた。しかし人肌のぬくもりに人一倍敏感だった新九郎は、寝ている間に僅かでも母が寝所から離れると、すぐさま目を覚ましてしまうという困った癖があった。


 その夜もそうだった。新九郎は母が隣から消えたのを感じ取り、寂しさと不安に震える声できょろきょろと辺りを見回すと、ただ空から降り注ぐ月の光だけがぼんやりと輝く障子しょうじの向こうへと歩みを進めようとした。しかし――――。


「あら――――吉乃ったら、またすぐに起きてしまったのね」


「かあさま……?」


 意外にも、探し求めた母の声はその障子戸のすぐ向こうから聞こえた。

 それはいつもと何も変わらぬ、穏やかで優しい母の声だった。


 新九郎はすぐに障子戸を開けようと小さな両足で駆け寄っていった。だがその気配を察した母は新九郎に言った。


「その戸を開けてはいけません――――吉乃はおばけが怖いでしょう? 母は今、この場に迷い込んでしまった可哀想なおばけのお話を聞いてあげているのです。それが終われば、すぐに戻りますから――――吉乃はそこでお利口に、じっとしているのですよ」


「お、おばけっ? おばけ……こわいの……」


 母のその言葉だけで足がすくみ、障子戸に片手をかけていた新九郎の手が止まる。


 そしてそんな新九郎を励ますように、落ち着かせるように。母は段々と弱々しくなる声に我が子への想いを乗せ、語りかけ続けた。


「ふふ……大丈夫。こうして戸を隔ててはいますが、母はちゃんとここにいますから。何も怖い事なんてありません――――それに、ここにはあなたのお父さん――――とても強くて男前で――――母が心から愛する我が君、家晴様もいます――――何も――――吉乃が怖がることなんてないのですよ――――」


「はい……かあさま……」


「吉乃――――あなたはとても優しい子です。きっとその優しさだけで……いつか誰かの力になれる子――――――――本当に、良い子――――」


 どこか消え入るような母の声を聞きながら、まだ四歳の新九郎は怖さと眠気、そして母の語る穏やかな声音に誘われるように再び眠りについていた。


 遠くなっていく景色の向こう。新九郎はを見た気がした。母の声は、いつしか聞こえなくなっていた。



 そしてその翌朝――――。


 新九郎が目を覚ました時、母はもうこの世にいなかった――――。


 障子戸にもたれるようにして寝ていた新九郎の小さな体には、彼女が風邪をひかぬようにと気遣ったのか、僅かに血で汚れた厚手の布地がかけられていた。


 新九郎が感じた母のぬくもりは、それが最後だった。


 江戸城内――――それも将軍やその家族が無防備となる殿中でんちゅうまで侵入され、あまつさえ正室であった新九郎の母が鬼によって殺害されたという事実は、幕府内に凄まじい衝撃を与えた。


 短期間で軍備が増強され、まだ年若く健康であった将軍家晴の世継ぎの問題についても、決して座視できぬ状態となったのだ。


「かあさまー……? どこにいるのー?」


 目の前で母を失い、何が起こったのかも理解出来ぬまま。殿中で母の名を呼び彷徨さまよい続ける吉乃の姿は、多くの幕臣の心を痛め、悲しみを深めた。そして――――。


「吉乃――――」


「――――とう、さま?」


 そんな小さな新九郎を、父家晴は沈痛な面持ちで抱きしめ、無念に肩を震わせた。

 まだ幼すぎる新九郎には、父の無念と悔恨の意味の全てを理解することはできなかった。


 しかし、自分を包む父の大きな腕のぬくもりから伝わってくる父の悲しみと苦しみを受け、新九郎は――――。


「――――とうさま、だいじょうぶ?」


「……っ」


 新九郎は自身もまたその小さな腕を父の背中に回すと、そうして父の心情を案じるようにその背をさすった。


「すまん……! すまん吉乃……っ。すまん……っ!」


 ――――いつしか家晴は、新九郎を強く抱きながら涙を流していた。新九郎が見た父の涙は、後にも先にもその時だけだった――――。



 その後――――新九郎は周囲の心配を余所に健やかに、実に健やかに育った。


 幼いことが幸いしたのか。母の喪失という新九郎を襲った大きな傷も次第に癒え、五歳、六歳にもなる頃には、また元通り誰もが舌を巻く甘えん坊へと逆戻りしていた。


 後継問題から新九郎を男児と偽って育てることが決まり、父の元で剣術に励むこととなった際も、新九郎は驚きはしたものの素直に従った。


 両親から譲り受けた可憐な容姿。父から受け継いだ類い希なる剣才。母の願いを受けた通りの優しさ。周囲への気遣いや、理知的な洞察力。


 そしてそれら恵まれた多才を持ちながらも、どこか危なっかしく、ほうっておけない頼りなさと臆病さ。


 母を失いはしたものの、新九郎は大勢の人々に見守られ、愛されて育つことができた。新九郎もまたそんな自分の境遇に感謝し、できる限り応えようと何事にも必死で取り組んできた。


 父が――――徳川幕府が男児としての自分を必要としているのであれば、その願いに全力で応える。それこそが自分を健やかに育ててくれた大好きな人々への恩返しになると信じていた。




 あの日。奏汰かなたと出会い、初めて共に闘った時――――なんだろうと思った。


 新九郎から見て、奏汰がその心になにか大きな歪みを抱えていることはすぐにわかった。


 奏汰の剣を見れば、その手を見れば。戦いの最中、まるで相手を消し去ることしか考えていないような鬼気迫る動きを見ていれば――――新九郎には、ことは手に取るようにわかった。


 治してあげたいと思った。

 否、自分なら奏汰の歪みをなんとかできると思ったのだ。


 奏汰と共にその背を合わせて死線をくぐり抜け、師匠になって欲しいと頼まれれば一も二もなく引き受けた。師匠として、寝食も仕事も忘れて奏汰の成長を促した。



 気付けば、いつのまにか新九郎は奏汰のことばかり考えるようになっていた。

 しかし新九郎には、それがどういう感情によるものかがよくわからなかった。



 だが――――。



 その日、なぎが自分の目の前でその想いを奏汰に告げたのを見た新九郎は、ほとんど反射的に自分も動いていた――――。


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