第佰参拾肆話:新時代の気配
これで信濃の趨勢はしばらく停滞し、今川としても最近大荒れの三河、そしてその先にある尾張へ本格的に着手することが出来る。
万事つつがなく、手抜かりはなかった。
だが、
「……と、殿!」
「そんなに慌ててどうしましたか?」
信濃からの帰路、義元の下へ早馬を飛ばしてきた伝令が現れたことで、
「雪斎様が突然倒れられ、そのまま帰らぬ人と、なりました!」
「……なん、だと?」
完璧だった男にひびが入る。一瞬、そんなはずはない。と声を荒げそうになったがそれを飲み込み、様々な感情が去来する中、
「亡骸は長慶寺ですか?」
「は、はい」
「……死に目に会えなかったのは残念ですが、雪斎も齢六十、この時代では充分に生きた方でしょう。駿府に戻り次第、私も手を合わせに参ります」
「はは!」
いつもの今川義元が、落ち着いて言葉を紡ぐ。揺らぎはある。三つか四つの頃より教育係としてあらゆることを彼に教わって来たのだ。充分な格を備えた兄が二人もおり、四歳で仏門に出された時から京の建仁寺、妙心寺、ずっと一緒だった。
義元にとっては父であり、師でもあったのだ。
元々家督を継ぐ予定の無かった義元にとって、今川の家臣と言うのは絶対的に信頼を寄せられるものではなかった。血生臭い家督継承は二十年近く経った今でも尾を引いている。そんな家臣の中で雪斎だけは無条件で信頼出来たのだ。
彼にとっては大きい。とても、大きな喪失である。
それに、
(……元服したばかりの竹千代、松平元康をいずれは彼の代わりに、と思っていたのですが……さすがに今は早計が過ぎる)
今川軍の中で雪斎が果たしていた役割はとても大きなものであった。今川家臣の中にも実力者はいる。剣の腕、弓の腕、嫡男の氏真も含めてそれらを十全に備えている者は腐るほどいた。だが、それらをまとめる役割を担える者は、いなかったのだ。
義元の持論だが、大規模の群れを統率する者は生まれ持った『素質』が必要なのだと彼は考える。どれだけ武功を上げても、どれだけ実力を磨いても、それを持たぬ者に大きな群れを率いることは出来ないし、させるべきではない。
残念ながら、彼の見立てでは氏真は武人として十二分な実力を持ち、幼き頃よりの教育により教養も備えているが、雪斎や自分の代わりにはならない。だからこそ、全力で松平の後継者を取りに行ったのだ。三河へ遠征していた雪斎の見立てで、足る器であると聞き及んでいたから。
彼を保護と言う形で今川家に縛り、年齢を重ね実力を付けたところで三河を与え恩を押し付ける。そんな彼を先鋒として尾張を討つ。
氏真は象徴として機能させ、実働を元康が担えば盤石、だった。あと少し、今しばらくの猶予があれば、その体制を整えることが出来たのに。
(私が雪斎の役割を果たす必要が出て来る、か)
故人を悼む余裕すらない。版図が広ければ広いほど、その制御には途方もない労力が必要になってくるのだ。しかも相手は三河武士、昔から気性が荒く簡単に躾けられる相手ではなかった。今も身勝手に今川と織田を行ったり来たりしている。
毅然と、いつも通りの笑みは浮かべているが、
「…………」
その胸中は決して穏やかではなかった。
ほのかにそよぐ、逆風が義元の頬を軽く――圧す。
○
雪斎が亡くなる少し前、清州城下にとある男が現れる。身長も小さく、体形も華奢、およそ武芸を嗜むようには見えない男であった。
しかしこの男、れっきとした武家に使えた経歴を持つ。遠江国の今川家に仕える飯尾氏の寄子であった松下氏に仕えていたのだ。その際、同じ年齢である松下家嫡男、松下之綱と懇意に成り、彼の下で武士のよろずを学んだ。
敵国とは言えきちんとした武家に仕えていた者であれば、多少は信頼されることだろう。実際に之綱からは信頼厚く、何度も引き留められたほどである。しかし、嫡男に見込まれた男を妬んだ者が彼を家中から追いやった。
「ふん、ふふん、ふーん」
と、成るように彼が仕組んだのだ。男にはわかっていた。少し前の自分の立場で成り上がるのは不可能であることを。何せ之綱に拾われる前、彼は姓を持たなかったのだ。父は代々行商として国を渡り歩く根無し草、銭はあるが名も格も無い、そんな血統に彼は生まれた。彼もまた行商を継ぐはずだった。
しかし、父が早くに亡くなり、彼が後を継ぐには若過ぎたが故、行商を続けることが困難となった。母は郷里である尾張へ戻り、彼もまた一度はそちらへ行った。手元には父が残した銭があり、母方の家でも悪いようにはされなかった。畑仕事も悪くはない。ただ、モノを売り買いし、銭を稼ぐような、熱がなかったのだ。
彼は勝負がしたかったのだ。胸が熱くなるような、それと同時に肝が冷えるような、そんな真剣勝負を、彼は望んだ。
彼は年頃となると父の遺産を一部手に、国を出た。一度しかない人生、とにかく面白いことをしてやろう、と彼は勝負を仕掛けたのだ。
勝負のお題目は、何処まで成り上がれるか、である。
手札は父の遺産、それ以外は名すら持たない。それが良かった。それで良かった。これで自分の力を存分に試せる、というもの。
彼は各地を転々としながら、美味い寄生先を探した。手札は銭と、幼き頃父から学んだ口八丁手八丁、要はハッタリである。そしてたまたま旅先で之綱と出会い、意気投合したのだ。ちなみに彼と同年齢と言うのは嘘である。
本当は一つ上。だけど、運命的な出会いを演出するために嘘をついた。
それからの人生、その嘘を突き通した。
松下家にせっせと仕えた。口が上手く、気が回る部下を好まぬ上司はいない。之綱には烏帽子親となってもらい元服し、彼は早速名を得ることが出来た。之綱があまりに贔屓するものだから、周りからは当然疎まれる。
されど、それすら男の思惑の内。彼は人生を面白おかしくするため、立身出世を目論んでいたのだ。ならば、層が分厚い今川家など端から長居する意味はない。欲しいのは名前、そして彼らに見込まれていたという証拠。
加えて、敵国で冷遇されたという事実。
男は飄々と、鼻歌交じりに清州の通りを歩く。
嫉妬から周りに迫害され始め、之綱に家を出て行く旨を伝えた。嫡男ではあるがまだ家を継いでいない若造では家中の反発を抑え切れず、泣く泣く彼を手放すことを承知した。その際、哀れに思ったのだろう事の経緯をしたためた書状と銭まで用意してくれたのだ。本当にいい人だった。とても、都合がいい人だった。
「さァて」
彼は銭と名、そして経歴を手に入れた。流浪の行商人ではなく、武家に仕えていた男として、末端も末端であるが武士としての経歴を得ていたのだ。
他国で自身をロンダリングし、彼は母の郷里へ戻って来た。
「出たとこ勝負と行きますかぁ」
尾張、清州城。つまりは織田信長のお膝元へ。
彼の名は木下藤吉郎秀吉、『武士』である。
ちなみにこの男の前半生、様々な文献こそ残っているがどれも内容は一致せず、出自不明となっているのが実態である。
誰も本当の彼を――知らない。
○
また、同じく前半生が不祥な男が美濃にもいた。
「十兵衛、父か私か、どちらにつく?」
「面白き方に」
「……おい」
「ふふ、冗談です。私は勝つ方につくとしましょう」
「仕舞いには切腹させるぞ」
「恐ろしや。折角殿の御傍で力を尽くそうと思ったのに、無念です」
「……ぬしはまこと、掴み所のない男よのぉ」
「よく顔に出ると言われますが」
「ほざけ」
先ほどから無礼極まる態度で主君を翻弄する男。されど、主君は彼を罰することなど出来ない。彼もそれがわかっているからこうしてへらへらしているのだ。
ここより先、仕掛けるつもりの大一番、父であり二代で美濃の王へと成り上がった怪物と戦いがある、いや、自らが起こす。
その時に彼は絶対に必要なのだ。
「私だな?」
「愚問です」
この、掴み所のない傑物が。
「つまり、私が勝つと言うことだな」
「それもまた、愚問かと」
「ぬしの一族は父につくぞ」
「とても残念ですが、それが皆の選択なれば尊重いたしますよ。両陣営に明智が分かたれるなら、家の存続を考えればお得ですし」
「くく、得と来たか。……明智城、焼けるか?」
「愚問」
「ふは、怪物め。期待しておるぞ、十兵衛」
「ご期待に沿えますよう、最善を尽くしまする」
明智荘を束ねる明智一族の異端、明智十兵衛光秀は静かに微笑む。
この男の経歴も謎が多い。のちの世に連なる史書からは父母共に読み取れず、本当に明智城を治めていた明智氏の系譜なのかも定かではない。明智一族はこの翌年行われる長良川の戦いで道三につき敗れ、道三の息子である義龍の前に城を滅ぼされ一族も散り散りとなるのだが、美濃明細記などには義龍軍の中に明智十兵衛なる者の名があった。一族の方向性とは異なるのだが、これもまた謎である。
この後、越前の朝倉氏、将軍近侍の細川氏に仕えた経緯もまた、謎。
そして彼はこの先、戦国史最大の謎を残すことになる。
彼の、彼らの飛躍の時は、まだ先の話。
されどすでに星は、大きな星々の影でひっそりと輝きを放ちつつあった。
○
そんなことなど露知らず、
「帰ったぞ、ぶはは!」
「お帰りなさいませ、御実城様」
春日山城内の自らの館へ帰還した景虎。出迎えにようやく見られるぐらいに髪が伸びてくれた伊勢姫こと千葉梅がいた。
「お、最近巷で流行っておる呼び方よな、くるしゅうない」
「ごはんにしますか、湯あみにしますか、それとも――」
「メシと酒!」
「合点承知」
どうせそうなるだろうと、帰還の報せを受けた段階で家人ら総出の飯炊きをしていた。酒もたんまりと用意してある。
長尾景虎は戦の前後、食べて飲まねば気が済まないのだ。
絶対に早死にする、と言っているが聞かない。俺は死なん、の一点張りである。かつての世話係であった直江文の苦労がしのばれると言うもの。
「肉、肉、肉、肉!」
「箸でお皿を叩かないでください」
「馬鹿もん、これは催促である。御実城様の命令ぞ!」
「はいはい」
気づけばすっかりと景虎を世話する役目となっていた梅。これで負けなしの武将だと言うのだから世の中わからないものである。
館にいる時の彼はその辺の童と変わらなかった。
「むむ、雉か!」
「昨日虎太郎と取って来た」
「見事。だがの、何度も言うがあの鷹は雌だぞ。太郎はどうかと思うのだが」
「本人は気に入っている。口出し無用」
「……そ、そうか。お、この魚も美味いのぉ」
「上杉殿が釣った奴」
「ぶっ⁉」
関東管領山内上杉が当主、上杉憲当はのんびり越後でのスローライフを満喫しているようであった。それにしてもハマり過ぎな気もするが――
「まあいっか。おかわり!」
「はい」
だが、今は食事時。細かいことは気にせずに食べて飲もう、と景虎はガハハと笑った。信濃も関東も、空腹時の食事の前では霞むのだ。
そんな感じで越後は今日も暢気であった。
まあ、水面下ではそんなこと――微塵もなかったのだが。
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