第佰拾伍話:龍虎対極

 四月、越後からの増援を率いた村上義清が北へと攻め寄せる八幡にて急襲、これを撃破する。この時それなりの戦果を挙げ、武田晴信が甲斐まで退いていく隙に、かつての居城であった葛尾城の奪還にも成功した。さらにいくつかの城を落とす。

 迅速果断、お手本のような戦であった。

 これぞ村上義清、信濃が誇る最強の武将である。伊達に強力無比な甲斐武田の軍勢を二度、大敗させたわけではないのだ。

 しかし、

「お久しぶり」

 七月、甲斐より態勢を整えた武田晴信が襲来。しかも初手夜襲と言う奇策、信濃守護小笠原長時を塩尻峠で破った時も夜襲、と言うよりも朝懸けだが、こちらが刺さり圧勝していた。とは言え、いきなりとはさすがの村上も想定していなかった。

 戦力に勝るような相手がする戦術ではなかったから。

「……やはり俺ではもう、手に負えぬ、か」

「村上殿!」

「平子殿、庄田殿、ここは退きますぞ」

「どちらまで、ですか?」

「八幡まで」

 村上の判断はこれまた迅速かつ場合によっては臆病と誹られかねないものであった。ほぼ目と鼻の先とは言え、八幡まで下がれば葛尾城を捨てることとなる。折角取り戻した城、しかも居城をあっさりと捨てられる辺り、やはり普通の将ではない。

 固執すればあの怪物に喰われる。そう見たのだろう。

「頼みますぞ」

「「承知」」

 彼らの判断、やるべきことの共有は早かった。いきなり夜襲を選んできた相手に対し、彼らはより多くの将兵の生存と態勢の立て直しを最大目標としたのだ。

 例え、城を捨ててでも。

「御屋形様、村上方が退き始めました」

「見りゃわかる」

「ただ、退き先が――」

「さすがは村上義清だな。判断が早いわ」

 武田晴信は彼の選択を素直に称賛した。ここで城に固執するのは二流のすること。奪い返してからさほど時も経っていない城、兵糧もさほどないだろう。そこに五千の兵を詰めれば、皆で飢え死するようなもの。兵を分けて城に詰めても、各個撃破されて自らの戦力を削るだけ。ならば思い切って城とは別方向に全力で退く。

 潔く、損得のみで弾き出したドライな決断である。

「こちらはどういたしますか?」

「ここからは王道。城を落としつつ、攻め上がるのみだ」

「兵糧を城へ運び入れますか?」

「無駄な手間だ。運び入れるのは塩田城までにしておけ。そこから先は取ったり取られたりになるだろうさ。あの男が出てきているのなら」

 武田晴信の眼は、遠くを見据えていた。最近、家臣の彼らでも理解出来ぬほど、深く遠くを読むようになってきた。全盛期の父信虎を知る者は思う。

 すでに彼は父を超えてしまったのではないか、と。

「心得ました」

「頼むぜ。この日のために、俺はぬしらを引っ張り上げたんだからな」

「「「「はっ」」」」

 馬場信房、飯富昌景、工藤祐長、春日虎綱、出自から何一つ共通点のない彼らだが、武田晴信が手ずから声をかけ、自らの側近として引っ張り上げた経歴だけは共通している。名門の武家から百姓まで、出自に限定せず才人を引き立てた。

 彼らもまたそれぞれ期待に応え、皆が百騎以上を束ねる将にまでなった。

「久しぶりの揃い踏みだ。勝つぞ!」

「「「「応ッ!」」」」

 のちに武田四天王と呼ばれる彼ら全てを率い、ことに臨む。予感があったのだ、この戦が、これからの戦が、遠い明日己の命運を決めるほど重要になる、と。

 本当なら信繁も引き込みたかったが、さすがに甲斐ががら空きになるので、そこはまたも留守居を頼んでいた。本人は来たがっていたが。

「…………」

 じわり、と手に滲む汗を握り締め、晴信は先を見据える。

 ここからが始まりである。


     ○


 八幡まで退いた村上たちは待ち構えていたのは、上田長尾当主、長尾政景であった。彼が言う。この先で御屋形様がお待ちです、と。

「この先とは?」

「布施にて迎え撃つ、と」

「布施? 何故だ。地の利はこちらにあると思うが……いや、何も言うまい。俺は従うのみだ。心得た」

「感謝いたします。お二人もよろしいか?」

「「愚問」」

「でしょうな」

 平子は今回の人選、正直納得していなかった。庄田はその辺り言われた通りにするだけなので何も考えていないが、そもそも反旗を翻したばかりの彼らを許すのは良いとして、今回の戦の副将に抜擢するのは如何なものか、と思うのが普通であろう。越後には使える将などいくらでもいる。それこそ平子らでも良いはずなのだ。

 それなのに景虎は政景を、上田衆を重用した。

(姉への情……などと言う御方ではあるまい。そも、それがあるならあそこまで徹底した打ち破ったりはしない。噛み合わぬな。まあ、そこがあの御方の強さか)

 読めない。わからない。枠に収まらない。

 それが景虎の強さと思えば、庄田が通り飲み込んで従うのみ、か。


     ○


「何処まで退いてんだ?」

「先の戦いでこちらを破った八幡に布陣していると思ったのですが」

 各城を落とし、制圧することもなく兵を進めた晴信であったが、がら空きとなった八幡を見て、顔を歪めていた。決戦に臨むならここだろう、と踏んでいたのだ。確かにこの先、武田方には若干地理に疎い所はある。

 この先に足を進めたことは未だないから。

 だが、実際に軍を進めずとも情報を集める手段などいくらでもある。晴信手ずから春日山にまで向かうほど、最近の彼は情報を貴ぶようになっていたのだ。ならば、当然の如く北信濃に関しては網羅している。頭の中にも入っている。

 抜けはない。やるならここだったはず。

 それよりも好立地となれば、さらに戦線を下げる必要があるだろう。こちらの補給線を立てに伸ばしたいがための、とも考えられるが――

「不穏ですな」

「……そう思わせるのが、狙いかもな」

「まさか」

「気の持ちようってのは馬鹿にならねえもんさ」

 ここでやる、と思っていれば気合も入る。実際に兵のケツを叩いてきた。しかし、それを上手く空かされた形。力いっぱい振りかぶった拳が、空ぶる。

「御屋形様、斥候より報告が。越後勢は少し先の、布施です」

「布施? 何、考えていやがる」

「……毘沙門天の旗も掲げられていた、と。おそらく、来ております」

「ッ⁉」

 晴信の顔に笑みが浮かぶ。身震いが、止まらない。これが武者震いなのだろう。あの日、最大の戦果はあの天狗と出会えたこと。

 それが――

「布陣は?」

「ただの横陣、小細工無しに見えたそうです」

「……くく、誘われてんなァ」

 真正面からぶつかるのが御望みのようである。そしてそれは、人材を選りすぐり原石を鍛え上げた甲斐も得意とするところ。

「数の上では?」

「ほぼ互角」

「なら、お誘いを受けないわけにゃ、いかねえわな」

「はっ」

 馬場の報告を聞き、晴信は決断する。おそらく、来ているのであろうあの男との初戦は、布施の地で行う、と。

「征くぞォ!」

「応ッ!」

 自らが鍛え上げた精鋭を信じ、ぶつかるのみよ。

 甲斐武田、さらに進軍す。


     ○


 広いだけの有利も不利も無い戦場に長尾と武田が相対する。

「…………」

 長尾景虎は将兵を微塵も信じていなかった。人は愚かで、間抜けで、損得勘定もろくに出来ぬ馬鹿ばかり、そう思っていたから。だからこそ、入念に準備していたのだ。愚かな彼らを上手く使うために、強く動かすために。

 信心深い、馬鹿な話である。生まれてこの方会ったこともない神仏とやらにほだされるほど、この景虎安くない。神仏が救いとなるのなら、何故あの箱根で出会った女のような不幸な者を救わない。暴利を貪り、教義に反してでも富み、太る寺社共を征伐しない。彼らに囲われる女を救おうともしない。

 何を以て信じろと言うのか。

「……南無阿弥陀仏と唱えて、腹が膨れるのなら苦労はせぬよ」

 祈り、縋り、それで何が変わった。何が変わる。

 何も変わらない。

 縋るのは弱さだ。自ら立てぬ者に何が出来る。何も出来ん。それは今の世を見て回り、理解出来た。信ずる者は救われない。

 信ずる者は常に、搾取されるだけ。

「さて、演るかァ」

 それでも人は信じ、縋ることをやめられないのであれば、その愚かな行為をやめるまで信じ、縋らせてやろう。

 この『俺』に。

 その無為を悟るまで、精々磨り減ればいい。

 死なねばわからぬのであれば、死ね。馬鹿が減れば、少しは世も良くなるだろう。あの日決めたのだ。腐った世をぶち壊したい、と。

 その衝動が、今の彼を突き動かす。

「我が名は長尾弾正少弼であるッ! 上意により、この地へ推参した! 治罰せよ、と朝廷よりお言葉を賜ったのだ! 正義は我らにあり! あそこにいるは朝敵、日の本が国を荒らす輩であるッ! 全て駆逐せよ、天下静謐がためにッ!」

 越後勢も、信濃勢も、どちらも変わらぬほどの大歓声を上げた。大気が振動する。あまりの大声、相対する甲斐武田にもその声は届く。

「……朝廷からの、か。上杉か、小笠原か、その両方か、太い伝手とかなりの銭を積んで得たのだろうな、その大義を」

 いわゆる『治罰の綸旨』を、景虎は今年の四月に朝廷から賜っていた。伝手と銭、それらを総動員してお言葉を引き出したのだ。

 長尾が正義で、武田が悪だ、と。

「……あの野郎」

 ことここに至り、晴信は気づく。

「我が旗の下へ集え、正義の同胞よ! 我が道には常、毘沙門天の加護ぞあるッ!」

 異常な士気。尋常ならざる様相の敵と、それに気圧される兵士たち。自分が選りすぐった者たちは大丈夫でも、その手足まで大丈夫とは、限らない。

 初めから初戦は、こうするつもりだったのだ。

 あの男には見えていた。

 己には見えていなかった。

「……そこまでやるのか、そこまで、やっていたのか」

 勝つために、全てを利用する。景虎の情報を集めさせている時、確かに引っかかりはあったのだ。あの男が、これほど信心深い理由は何だ、と。林泉寺で育ち、寺社へ寄付をし、自らの城に毘沙門堂を築く信心深さ。

 そこで晴信は読み切るべきであった。あの男は信じない、父がそうであったように、己がそうであったように、今川が、おそらく北条もそうであったように、利用するためだけに信心深さを世に知らしめていたのだ。

 対象は、自らが使う民、兵、将。

 彼らを騙し、強く使うためだけに――

「我に続けェ!」

「ウォォォォオオオオオオオオオオアアアアアア!」

 絶叫が迸る。見る者が見ればわかる異質さ。端々から伝わってくる。先頭を歩む者は背後で彼を信じ、付き従う者たちの事など微塵も信じていないことが。

 むしろ馬鹿にしている。そうでなければ思い付かない。こんな悪辣極まるやり口など。神仏を上手く利用するのは誰もがやっている。大和政権が神道と言う物語を作ったのも、仏教を輸入したのも、この時代の後に徳川が儒教を輸入したのも、自分たちが上手く世を治めるため、であった。それが統治者の、宗教の使い方。

 それを統治するためではなく、破壊のために使う。

「御屋形様!」

「……巻き返せるか?」

「無論!」

「おし、一丁やるか。俺は信ずるのみだ。俺の集めた人材を、な」

「迎え撃てェ!」

「ウォォォオオオオオ!」

 甲斐武田もまた動き出した。彼は信じている。自らが集め、鍛えた者たちのことを。人こそが城であり、石垣であるのだと。

 それが甲斐武田の強さである、と。

「ぶは、良い将だなァ。だが、手遅れだ! 始まる前から、俺が勝っておるわ!」

 慄いた兵を叱咤し、統制を取り戻した武田の軍勢を見て景虎は嗤う。よく鍛えてある。よく実っている。苦労しただろう、ここまでの人材を作るのは。

 ならば、手折る。人材を摘む。それが武田の滅ぼし方と心得た。

「中央は我らが押さえる。二人は両翼を頼むぞ!」

「「応ッ!」」

 総大将、長尾景虎を先頭とした現代戦では早々見られない中央突破に対し、武田は中央に晴信や四天王二人を置き、突破を食い止めている間に両翼から包み、包囲せんとする鶴翼の陣形を取った。農兵中心の軍勢でも、統制の取れた動きが出来るのは優秀な将がいるから。彼らが日頃百姓も交え練兵を欠かさぬから、これが出来る。

「蹴散らせェ!」

「討ち取れェ!」

 信じぬ戦、長尾景虎。

 信じる戦、武田晴信。

 天文二十二年九月、対極の二人が北信濃の布施にて『初めて』邂逅した。

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