第弐拾弐話:『龍』対『獅子』
囲碁における先手の有利は現代囲碁に課せられた六目半のコミ(ハンデ)を見ても明らかであろう。ゆえに先手後手を決めるニギリ、実力が近ければ近いほどにこの差は大きくなる。絶対勝ちたい勝負であれば、神に祈ってでも先手が欲しい。
そして、それを決めるニギリとは白が複数の石を握り、その中にある石の数を黒が奇数と思えば一個、偶数と思えば二個、選択する。そして白の数を調べ、当たりならば先手、外れならば後手、となる。通常、白を握る方が上座の者、つまり年長者、席次が上の者になり、この場合は北条氏康が握ることとなる。
とらに扮する虎千代は静かに黒石を一つ、示す。
「白、七個。そちらの先手だ、おとら殿」
悠然と先手を差し出す氏康。それで意気消沈する者などこの場にはいない。先手の有利などは実力が拮抗した場合の話。実力に開きがあれば先手の差など吹けば飛ぶ。何よりもこれより始まるのは戦と構えた以上、弱みは見せない。
(よし、この先手は大きい!)
だが、虎千代の力量を知る覚明は大きく勝利に近づいたことに拳を握る。自分が天下一の打ち手であったわけではないが、畿内でも有数の打ち手であったのは事実。如何に彼らが武家の嗜みとして学んでいたとしても、己よりも強いとは考えられまい。ならば、先手さえ取れば虎千代ならば勝てる。
だからこそ、笑みを溢しかけたのだが――
黒を握る虎千代は少し考えこみ、静かな一手目を放つ。
「……なっ」
この場全員が、驚愕する。その一手は奇手、打たれぬわけではないし、囲碁と言う遊戯を知った者ならば最初に考えつくであろう一手。
初手天元。
(と、虎千代ォ!)
覚明は腹を押さえ、うずくまりたく成る想いであった。自分との打ち合いの日々でも、たった一度しか打ち込まなかった一手である。そして、あの時に示したはず。その手は容易ではなく、現状の研究内では一手捨てるに等しい、と。
実際にあの時、覚明がコテンパンに打ち倒すことで理解したはずなのに――
「……あまり碁を知らぬのか、それとも我らを軽んじておられるのか」
氏康の目が鋭さを増す。
囲碁とは地を得る遊戯である。その性質上、中央を抑えるよりも隅を抑えた方が効率的なのだ。同じ地を囲うにも隅と中央では手数が違う。だからこそ、囲碁の定石とは四方の星を中心に存在するのだ。確かに、石が中央に座すことでシチョウが有利となったり、打ち辛さはある。だが、それでも緩手なのだ。
初手天元、碁盤の中心に根差すそれは――
「さて、どちらでしょうか」
くすくすと微笑む虎千代。その妖艶な笑みを見れば、
「なるほど。少々、買い被りだったのかもしれませんな」
後者であることは明白、と氏康らは取った。無礼な、と喉元まで出かかったそれを全員が飲み込む。驕りとあらば、付け入り切り崩すのみ。
これは戦、ならばそこを躊躇いなく突く。自分たちは、北条は、関東勢の驕りを切り崩し今この地に立つのだ。それは、お家芸である。
「ですが、価値を貶めたところで、我らは手を緩めませぬよ」
パチン、と力強く彼から見て左上隅の小目に打ち込む。戯言に付き合う気はない。奇手はどこまで行っても奇手でしかなく、王道こそが強いのだと示す。
虎千代は微笑みを絶やさずに、
「それでこそ、です」
虎千代から見て右上隅の星に打ち込む。しなやかな手つき、素人には見えず相当打ち込んでいるようにも見える。
「星が好きなのだね」
「ええ。美しいですから」
現代でこそ定石は四隅の星とされているが、この時代はもちろんずっと先の時代まで小目(3.4あるいは4.3)こそが王道とされていた。当然、それは碁を嗜む者であれば知っていること。虎千代も重々承知している。
(だが、虎千代は星を好む。それに、私も決してそれが悪い手とは思わん。高目までいけば隅を軽視し過ぎな気もするが、地を広くは見られるからな。……ただ、天元は正直擁護し辛い。通常の進行であれば一手損でしかないだろう)
中央への空中戦に引きずり込む。それに応じる相手とも思えないが――
覚明は序盤、天元以外に代わり映えのしない進行を見つめていた。このままであれば先手をくれてやっただけ。もしかすると、そういう意図があるのかもしれない。だとすれば危うい。この驕りが旅を終わらせる可能性も十分ある。
そこまで虎千代が愚かとも思えないが。
○
基本的に五色備えに序列はない。家格も五家老衆、北条の名を与えられた者が二人と早雲の代から共に轡を並べた三家であり、三家老衆に次ぐ格である。
ほぼ全員横並び一線、ただ年齢による差は多少存在する。最年長は白備えを率いる笠原信為、次は三つ違いでほぼ同期の赤備えの北条綱高と青備え富永直勝が並び、その下に黄備えの北条綱成、さらに下がって黒備えの多米元忠、となる。
と言うのは、あまり今は関係なく――
「……ふむ」
笠原康勝に対し並々ならぬ愛情と笠原小という言い方にこだわりを持つ富永直勝は、二十手目を過ぎた辺りで息を吐いた。序盤戦、北条方の左上隅へちょっかいをかけてきた辺りは軽々といなしたのだが、
(参ったな。初手天元、これは難しいぞ。本来であれば中央に追いやった形だが、天元に石があることで嫌でも気になってしまう。これは追いやったのか、それとも伸ばされたのか、まだ序盤戦だと言うのに、随分考えさせてくれる)
もはや富永の目に『彼女』は可愛らしくなど映らない。天元を差し引いても序盤の打ち回しは見事の一言。北条方から見て上辺の差し合いはあちらに軍配が上がった。全体で見れば、ほぼ互角と言ったところか。
その上で『彼女』には天元がある。
(さらにイヤらしいのは――)
皆で相談の後、次の手を打ち込んだ瞬間、
「…………」
笑顔で即打ち返してくる。こちらが考えている時間で次の手を考えているのだろうが、そのやり口がまたイヤらしい。こちらの手に対し、すぐに打ち返していると言うことは、真偽はともかく全て読んでいる、と案に言っているようなもの。
そちらの手は読んでいる。この流れは想定通り。
だからこそ、すぐに打ち返すことが出来る。
(今のところは精々が互いの領土決め、かつ、築城と言ったところ。難しい手は打っていないし、読むのはさして難しくはない。ただ――)
あの天元が妖しく輝く。虎千代の笑みと同様に、気づけば視線が吸い込まれていく。富永の目にはこの『女人』、囲碁が巧い、と言うよりも戦が巧い、と見えた。
(若様、思った以上にこの娘、難儀ですぞ)
水軍衆も率いる男の眼にはこの盤面、時化を予感させる凪に映っていた。
○
長尾虎千代は天元に揺らぐことなく、きっちりと盤面を進める北条方に対し、かつてない歯応えを感じていた。もちろん、囲碁は覚明の方が上手であろう。それは虎千代にとっても同じこと。だが、世は戦国時代。現代に比べて研究が進んでいない時代である。思考の遊戯とはいえ、その深淵に対しまるで積み重ねが足りていない。
ならば、勝負の綾は決して思考力だけに限らない。閃き、感性、そして気合。あとは感情、と言ったところだが、その部分に関しては大いに揺さぶっても、ここまでの進行にさしたる変化はなかった。その揺らがなさが心地よい。
賭けの釣り合い、初手天元、さらに自分から見て右下隅の茶々入れなど、常人ならば怒りや動揺で揺れてしまうところを、しっかりと締めて動いている。後ろの六人もそう。決して頭に血を上らせたりはしない。
優秀である。場慣れもしている。戦の、匂いがする。
(俺は幸運だな。元服前に、こんな連中とやり合えるのだから)
所詮は碁、模擬戦にすらならない。
だけど彼らは知っている。勝負事には共通するものがある、と。
彼らは今、自分たちの領土を選定し、基盤を固めている。ゆえに急がずに、ああでもないこうでもないと相談しながら、ゆるりとこちらに考えさせているのだ。六人が様々な意見を出し合い、それらを氏康が精査する中で。
打ち込むまではどれを採用するのか読めない。しかもこの氏康と言う男、色がまるで読めない。他の六人はそれぞれいくつかの重なりはあれど、得手としている部分は皆少しずつ異なり、その者の色、癖が見えてくるのだが、氏康にそれはない。偏りなく、皆の意見をとりまとめつつ色を示さない。
個性豊かな面々をまとめる無色、と言ったところか。
今度は綱成の策を取り、虎千代から見て下辺の接続を遮るために白を一手仕込む。緩手のように見えるが、こちらが次の手で打ちたかった一手でもある。両断する攻撃の手でもあり、中央への睨みも利く良い手であろう。
やはりこの中に在っても異彩を放つ黄備え、北条綱成。攻撃が絡まぬとめっきり影が薄いのだが、逆に攻撃に寄った瞬間、鋭い意見が放たれる。先ほどから幾度か腹の底を冷やしてくれたのは、この男である。虎千代の読みの中では最悪の手。翻って彼らにとっては最善手、であろうか。
ゆえに――
「では、失礼いたしますわ」
長尾虎千代が最も明確に描いていた絵図となった。
○
北条方から見て下辺、どちらかと言えば北条寄りだった領土に虎千代の牙が食い込む。即座に、涼やかに放たれた一手は、彼らの顔を曇らせた。
「……気の強い女ですねえ」
現五色備えの中では最年少、黒備えを率いる多米元忠は頭をかく。さすがに綱成の一手は考え込むと思っていたのだが、逆に本日最速の斬り返しが待っていた。下辺の攻防を睨む一手であり、広く取っていた北条方の右下隅、領土を一気に絞る手でもある。その応手速度も含めたあまりの斬れ味に、若き将は顔を歪ませる。
もう少し、この地に手を加えておくべきだったか。後悔後先絶たず。
じわり、多米の額に脂汗が浮かぶ。
「笠原小」
「富永殿の真似はやめてくださいよ、多米殿」
「気合を入れろよ」
「……わかっていますよ」
「いや、わかってない。そっちが思っている以上に、ここから一気に跳ね上がる。この私ですら、置いてけぼりを喰らうかもしれん」
「……まさか」
「振り落とされるなよォ。若様、こちら、下辺に手を加えるのはどうでしょう?」
「ふむ」
年長者たちが活発に意見を述べる。負けじと笠原康勝も食らいつく。ここは守り所と見たのか、綱成は沈黙を守っていたが――
幾度も意見を重ねた。氏康も間違った意見を取り入れたとは思えない。
だが、結果として――
(……怪物め)
北条方、絶句。味方である覚明すら怖気が走るほどの斬れ味で、北条方が確保していた彼らの隅を、全て撫で斬り、簒奪してのけた。
一気に、盤面は傾いた。
「そ、そんな、馬鹿な」
笠原康勝が、
「……くそ」
多米元忠が、
「「「…………」」」
五色備えが、言葉を失ってしまう。下手な手を放ったわけではない。しっかりと守ろうとしたのに、喰い破られたのだ。何たる剛力、何たる豪腕、五色備えを従えた北条氏康が歯噛みした。完全な力負けである。
この攻めの強さ、本当に眼前の相手は見た目通りの女人なのか、と疑いたくなってしまう。氏康は初陣で戦った怪物、扇谷上杉当主を思い出す。紙一重で勝利こそできたが、その後、城を奪還されるなど勝った気がしなかった。小弓公方、里見、父と共に戦ってきた宿敵たち、関東における重鎮たち、それが重なる。
そしてそれ以上に、北条氏綱が、父が、重なって見えた。
この女人の姿をした、化け物に。
彼らは、彼は、睥睨する『彼女』を通して、それぞれの『龍』を見た。
「飲まれるな。ぬしは新九郎だぞ!」
偉大なる父の幻影に、乗り越えてきたはずの怪物たちの残滓に、『龍』に飲まれかけていた氏康をすくい上げたのは、同い年の綱成であった。
「わかっている!」
「ならば、勝つぞ」
ずっ、綱成が重く、されど素早く指し示す。
「俺たちの右下隅を奪われたなら、あちらの隅を頂くまで」
ぎょろり、虎千代を覗き込むように綱成が顔を近づける。
「美しい眼だな。最初から、ずっと、ぬしからは血の色が揺らいでいた。戦の色だ。それはきっと生まれ持ったモノなのだろう。俺たちは後天的に備えたが、ぬしは生まれついての戦人。羨ましくもあり、嬉しくもある」
「嬉しい、ですか」
「ああ。これは神が与えたもうた試練、八幡様に感謝せねばなァ!」
迷うことなく、氏康は綱成の策を取った。
「その程度、予期していないと思いましたか?」
虎千代はそれに対し、北条方の下辺への影響を強める手を放った。ここで戦を畳んでしまおう。勝てる時に大きく勝つのが戦の常道である。
実際に打たれ、苦しい手でもあった。
だが――
「中央へ伸ばすぞ、新九郎」
「ああ」
二人は阿吽の呼吸で、いつものように時間をかけることなく、中央に食指を伸ばした。その手は、虎千代の想定にはなかった。何故ならば、天元には自身の黒石が座すのだ。中央での攻防は自分が有利。その思考が――
(北条、綱成。こいつ、俺を……隅を頂くと嘯き、嵌めやがった。そして、言わずともそれを酌んだ、三代目。こい、つらァ)
利用されてしまった。
「勝った! 勝った!」
ばちん、ばちん、綱成の言葉に呼応するように強く氏康は石を打ち付ける。攻めに転じた途端、応手が加速する。彼らは知っている。囲碁において早打ちは決して美徳ではないが、戦場においての早さは、まさに勝敗を分ける綾、である。
彼らの眼が言う。彼らの口が語る。
『さあ、戦をしよう』
(やらいでか!)
虎千代もまたそれを受けるように、互いに中央へ伸びていく。ただ、あの一手が重い。あそこに差し込まれたからこそ、意に反した連なりでの伸びを強要されたのだ。だが、ここで天元が活きる。これがなければ、引っ繰り返されていた可能性すらあった。まあ、その場合は虎千代も絶対に見逃さなかっただろうが。
そうでなかったからこその見逃しである。
「勝ったァ!」
「随分と、気が早いのですね」
天元に接続、多少嫌な形ではあるが、まだまだ優位は虎千代にある。
「攻めの切れ味は見事。だがァ――」
人差し指が同時に四つ、盤面を指し示す。北条の名を冠した綱成、綱高、最年長の笠原、富永、である。
「「「「守りは如何かな?」」」」
これまた迷うことなく、氏康は虎千代の地に踏み込んだ。背後には中央に伸びる白い壁、その内側で北条方から見て左下隅から左辺にかけての領土で、争いが巻き起こる。虎千代の優位は三手目に打っていた石と、少し前に添え木として置いてあった石の二個だけ。そこを白い壁を背にして戦わねばならない。
逃げ場はない。今度は、
「くっ」
虎千代の応手に、
「やろうか、おとら殿」
ずん、と重く鋭く、何よりも早く、氏康本人が誰よりも先んじて切り返した。献策を選択するだけではない。そもそもこの男もまた父と共に関東の曲者を、重鎮を相手に戦って、今ここにいるのだ。場慣れしている。
当たり前であるが、彼らからは戦の匂いがした。
(これが、北条、これが、五色備え、これが、三代目か)
ずん、飯沼氏の亡霊と戦った時に負った傷が、開いたような気がした。いや、それ以上に深く、何かが突き立ったような、爪のような、何かが。
(怪物どもがよォ)
長尾虎千代は彼に、彼らに、『獅子』を見た。
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