□ 未来
この箱庭は、美しいものだけでは作られていない。
青空を飛んでいく数羽の青い鳥。
微風に揺れる新緑の木々。
雲ひとつない快晴。
元気が一番の太陽。
開けた窓に入り込む空気。
黴ひとつない本棚。
色のない真白い壁。
毎日磨かれる鏡。
汚れひとつない柔らかなベッド。
髪の毛もかさぶたも埃さえ落ちていないワックス掛けの床。
私の中を流れる見えない血液。
穴の空いた心を過ぎ去る風。
電灯がなくともまばゆい部屋。
息を肺いっぱいに吸った時の太陽の匂い。
それから——。
ほどよい閉塞感と開放感、とびきりの清潔感に包まれた、純白の病室。
窓の外で、子どもたちが萌葱色の芝生を駆けていった。彼らの表情には太陽に似た笑顔が浮かび、ほとばしる汗のしぶきは星々のきらめきだった。
濁りのない空の色と、遥か遠くの入道雲。
緩やかな風が前髪を揺らした。
今年も暑い夏がやってきた。
私は書きかけの日記を閉じた。
季節を肌で感じるようになったのは、いつからだろう?
記憶は忘れやすい、とても。
いつしか見た夢は簡単に思い出せない。
それが悲しくて、日記を書き始めた。
忘れてしまう、それでも。
どこに書いたか、何を書いたか、いつ書いたか、誰へ書いたか。
忘れてはならないことも、忘れたいことも、平等に、すべて。
忘れるものか、絶対に。
その決意も無駄だった。躍起になる意志に反し、脳は機械的に記憶の処理を行うだけ。人間は前に進むようにできているのだから、過去に縋り続けてはならない——そういうことだろう。
病室に黄色の蝶が入り込んだ。
私の目の前、白いベッドの上に、蝶の影が揺れている。
影に意識を移す。私は黒い手で、蝶の影に触れる。直接触れていないのに、現実の手のひらがむずむずとする。黒い蝶は黒い手から抜け出した。見上げると、黄色の蝶はひらひらと飛び去っていった。
昔もこんなことがあったっけ——思い出そうとした時、ノックの音が鳴り響いた。コンコン、と二回。その叩き方を私は知っている。遠慮がちに、しかし喜びを隠しきれない、といったような音を。
扉が音もなく開く。
そこには、ひとりの女性が立っていた。
大きな麦わら帽子を被り、そこから溢れる長い金髪。顔は帽子のつばで見えなかったが、純白のワンピースから露出した手足は細長く、なめらかな乳白色だった。
女性は看護師にお辞儀をして、部屋に入った。
風が部屋を通り抜けていく。
ゆったりとした歩調が靴音を奏でる。女性はベッド脇のスツールに腰を掛け、メイズバスケットと色とりどりの薔薇の花束をミニテーブルに置いた。
女性は静かに帽子を脱いだ。
黄金の海が波を作った。
「まさか、ここにいるとは思わなかったよ」
凛とした、張りのある声だった。
「あはは。私も」
私は彼女を見つめた。
藍色の瞳は静かに燃えていた。
「さっきね、アイリとムウの子どもがお見舞いに来てくれたよ」
「まあ、そうなの。ふたりとも元気だった?」
「それはもう。アイリの子は本が大好きで、ムウの子はよく笑う子だった。ふたりとも、すごく似てた。まるでアイリとムウが来てくれたみたいだった」
へえ、と女性は相槌を打った。
その表情には、淡い憐憫が浮かんでいた。
「あれから、十年経ったのね」
その言葉だけで、私たちの現状と彼女の感情を語るには十分だった。
言葉で表せない、捉えようのない思いは、風のように胸の中を通り過ぎていく。
消えていく記憶の中にひっそりと息づいた、確かな思い出。
それらは砂に埋もれた砂金のように、時に太陽の光を浴びようとして地上に顔を出しては、また砂に隠れてゆく——記憶とは、そういうものだ。
「もうそんなに、経ったんだね」
ふたりで話していると、まるであの頃から私たちがタイムスリップしてきたような感覚がした。今、この瞬間が現実ではなく、子どもの頃の私たちが見ている幻想なのではないか、と。大人になった彼女の姿が、そんな私を現実に連れ戻した。今は夢ではない、と断言するように。
「果物、いる?」
私は頷くと、女性は目の前でりんごを剥いてくれた。
彼女のナイフ捌きは見事なもので、あっという間にりんごは脱皮した。途切れなかった一本の皮は、運命のリボンやら蛇の抜け殻やらを彷彿とさせた。彼女は手のひらでクリーム色の果実を切り分け、種をくり抜いて私に差し出した。
りんごをかじると、甘酸っぱさが口の中に広がった。思わずあごの付け根がキュッとなる。しゃりしゃりと噛むたびに、果汁が口の中で弾けた。
「あなたは本当においしそうに食べるよね」
女性は柔らかな眼差しを私に向けている。
「あの頃だって、一緒に何かするとき、いつもまっすぐだった」
「そうかな。単純なだけじゃない?」
「単純、かぁ……というより、純粋だったよね。すごく、純粋だった」
私は依然として、昔のことをはっきりと思い描けずにいた。
みんなで、四人で一緒にいたことは事実であり、それは確かな記憶として残っている。しかし、具体的に何をしていたのか、どうやって生きていたのか、何を話していたのか、何を夢見ていたのか——あの頃を詳細に思い描こうとしても、雨の雑音にかき消されてしまう。
思い出したいことを思い出せない、そんな歯痒さがあった。
会話が途切れても、私たちは沈黙と仲が良かった。
私たちの間を吹く風は心地が良かった。
時の流れとともに、りんごは食べ終わった。
「私ね、あれから世界を旅したの」
脈略がなくても気にせず、私は口を開いた。
「旅?」
女性はナイフやりんごのヘタをバスケットにしまい込んでそう訊いた。
「そう、旅。自分の目で、この広い世界を見に行ってきたんだ」
「へえ。そうだったの。どうだった?」
「そりゃあもう、すごかったよ!」
私は両手を広げて世界の広さを表現した。
「これよりもずっと広かった。身体でも、言葉でも、表せないくらいにね」
女性は口元を押さえて笑顔を見せた。
懐かしくも、何かが違う、今の彼女だけが作る笑顔。
「そりゃあ時には危ない目にもあったし、酷い場所もあった。お金にはずっと困っててさ、知らないおじさんと一緒にお金になりそうな物を拾いに行ったりもした」
「まあ……旅、というより冒険ね」
「そうそう。大冒険だよ。何度命を落としかけたことか」
私は自然と口の端が吊り上がっているのを感じた。
久しぶりに湧き上がった喜びに、頬が痛くなった。
「それでもさ。世界っていうのは、やっぱり綺麗だったんだなって思った」
形のないものを言葉で表すことは難しい。
それでも、この想いを彼女に伝えたい。
彼女ならわかってくれる。
私はそう信じている。
「ほんとうの箱庭はね、広くて、醜くて——そして、ずっと美しいんだ」
子どもたちの笑い声が聞こえた。
窓の外を覗くと、4人の女の子たちがベンチに座っていた。
暑い日差しの中で、彼女たちは身体を寄せ合い、話に花を咲かせていた。
あの子たちも、過ぎ去る今を全力で生きている。
私の目に、その姿は眩しく映った。
その光景を、女性も見つめていた。
風が前髪を揺らし、目元を隠している。
「ねぇ……」
私は彼女の手に触れた。
細くて白く、冷たくも、温かい手に。
「リタは今、幸せ?」
私の言葉に、リタは言葉で返さなかった。
頬を伝う一筋の雫が、光を放った。
それを手の甲で拭うと、彼女は小さくもはっきりと頷いた。
私はすっかり嬉しくなり、ベッドの上から腕を伸ばしてリタを抱きしめた。
彼女はあの頃から大きく変わった。
背の高さ、顔の大きさ、手足の長さ、肩の広さ、肌の柔らかさ、唇の形、鎖骨の影、耳たぶの上で光を放つ赤いピアス、シャンプーの甘い匂いがする真っ直ぐ伸びた金髪、その合間から見えるうなじ、左手の薬指につけられた指輪、純白のきれいなワンピース、膨らんだお腹、時の流れ、彼女の見つめるもの、希望、夢、未来。
あの頃のリタとは全く違うリタ。
当然、時間の流れには逆らえる者はいない。
人は容姿も思想も何もかもが変わる。
私も身体が大きくなったし、あれほど大好きだった絵本は読まなくなった。
全ては変わる、当然だ。
それでも、目の前にいるリタは、あのリタだった。
私の手を握る手が大きくなっていても、指が長くなっていても、あの雨の夜に離さないと決めた、リタの手だった。
リタがリタであること。過ぎ去ったはずの時の先でも、リタがリタでいてくれたこと——そんな当たり前のことが、とても幸せなことだと、そう思う。
リタは鼻をすすり、私を強く抱きしめた。
彼女からは、やはり花と太陽の香りがした。
「幸せだよ。私、あなたに会えてほんとうに良かった。あなたは私を救ってくれた。私の憧れで、私の光だった」
彼女は鈴を転がしたような涙声になっていた。
私はそれが嬉しくて、たまらない。
「私もだよ、リタ。あなたが私を箱庭から出してくれたんだもの。ほんとうに、ありがとう」
私たちは頬と頬を合わせた。
彼女のなめらかで柔らかい肌とその温かさに、懐かしい思いがこみ上げてくる。それは記憶として完全に思い出せなくとも、確かにあった日々の存在を証明していた。私は静かに涙を流した。頬と頬が、涙と涙で濡れる。風さえも入り込む余地はない。ただ、私たちの温度だけが繋がっていた。
西日は遠い山際に沈みかけていた。
夏の夕陽が全てを赤橙色に染めている。
外にいた子どもたちはいつの間にかいなくなっていた。
鈴虫たちが一斉に夜の声を上げはじめる。
「会いに来てくれてありがとう、リタ。リタが来てくれて、嬉しかった」
「私もだよ。ありがとう」
「なんだか、恥ずかしいね。あの頃はたくさん言ってたはずのにさ」
「たしかにね。私たちも大きくなったもの。しかたないよ」
「そっか。うん、そうだよね」
私たちは笑みを見せあった。
この贅沢なひと時に満足したのか、私の身体は脱力していった。
そろそろ、別れの時間がやってきたようだ。
私はリタから頬を離した。
代わりに、手を握った。
「少し、はしゃぎすぎたみたい……もう、休むね」
自然とまぶたが閉じていく。
私は最後まで、リタを見つめることにした。
リタの透き通ったラピスラズリの瞳。
それは、黄昏時の紺色に染まるあの空と同じ色をしていた。
その美しさに、また少しだけ涙が溢れる。
霞んでいく視界。
消えていく輪郭。
赤橙が染め上げた黄金の髪が眩しい。
彼女のたおやかな金糸は、夜ではなく、朝でもなく、夕陽の光と同調し、この世界のどんなものよりも美しくなることを初めて知った。
私は満足した。
まぶたが閉じた。
暗闇はもうどこにもない。
そこに広がるのは、あの頃の私たちの笑顔だった。
「ありがとう。リタ、アイリ、ムウ」
私はあることを願うことにした。
それは、最後の『メメの魔法』だった。
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