未来の黒板

とものけい

未来の黒板

「あんた、3組になったんだってね」


 寝起きの目を擦りながらキッチンへ向かうと、姉がグラスに牛乳を注ぎながら話しかけてきた。

 私と同じセーラー服ではなく私服。

 ひとつ歳上の姉はこの春に大学生になったのだ。


「おはよ。お母さんは?仕事?」


 春とはいえ朝はまだ少し肌寒い。私は制服のスカートのフックを留めると椅子に座ってタイツを履く。


「そうよ。私ももう出るけどね。高校と比べると遠すぎてもう嫌になりそう」

「まだ始まったばっかじゃん」


 姉はごくごくとグラスに注いだ牛乳を飲み干した。

 この春休みの間に姉はずいぶん大人になった気がする。なんて表現はこういうときに使うのかな。


「あたしも3年3組だったのよ」


 思いに耽っていた私を姉の声が引き戻した。

 姉が眉を下げていじわるく笑っている。姉のこの仕草は話をしたくて仕方がない印だ。


「そうなんだ」

「今日、始業式でしょ。教室の黒板。ようく注意して見てごらん」

「黒板? なんで?」


 黒板なんて毎日見るじゃないか。私が要領を得ないでいると姉の眉が一層下がった。


「そ。あれ、七不思議のひとつだから」


 そう言う姉の顔はなんとも得意げだった。

 ああ、姉のこの話は長くなるかもしれない。私はコーヒーをいれようと食器棚のマグカップに手を伸ばす。


 七不思議。私の高校にはそう呼ばれる噂がある。

 どこの学校にもそういうものはあるもの。そう思っていたけど、塾なんかで違う学校の友だちと話しているとそんなことはないらしい。

 七不思議といっても私は七つ全てを知らないし、実際にそんなにもあるのかはわからない。

 ただ、姉だけでなく友だちや先輩もみんな揃って知っている共通の噂話。


「今度は黒板? 前は何だっけ。『喋らないカーテン』だっけ?」

「それじゃ普通のカーテンじゃない。『開かないカーテン』よ」


 それだってただの不良品じゃないかと思ったが機嫌を損ねた姉の面倒臭さを思い出して私は口をつぐんだ。


「まぁ、あれはねぇ。あたしも自分で見たわけじゃ無かったから。『青い花壇』と『二つめの音楽室』もそうなの。友だち伝いに聞いただけ」


そのわりに自分が見てきたように話したじゃないかとも思ったが口には出さない。


「けど、『未来の黒板』は実際に私も見たんだから、これは本物よ」


 言いながら姉は牛乳をグラスにもう一杯。饒舌に話して喉が渇いたのだろう。

 私もインスタントコーヒーにお湯を注いでスプーンでかき混ぜる。


「『未来の』ってなに? すごい最先端機能でもついてるの?」

「違うわ。もっとすごいの、あの黒板はね」


 姉は私の目を覗き込みながら続けた。


「未来を映すの」

「……え?」


 創造していなかった言葉にスプーンをかき混ぜる手が止まった。


「ふふふ、驚いた?」

「いや、驚いたっていうか……未来を映すって……。なんか今までのと比べて雰囲気違ったから」

「あたしも噂に聞いたときは何それって思ったけどね。けど、この目で見たんだから間違いない。あれは2学期の期末試験のとき」


 私はコーヒーに牛乳を足してカフェオレにする。

 姉のこの手の話に食いつくのは少し悔しいので平静を装ってみるが、話が気になっているのを自覚した。


「そう、世界史のテストだったわ。知らないかもしれないけどあたしはそれまでほとんどの試験を一夜漬けで乗り切ってきた」

「知ってる」


 私は姉が自宅で勉強しているところをほとんど見たことがない。

 唯一の例外はテストの前日だ。

 大学に受かったのもいまだに信じられない。まさか、それも一夜漬けではないだろうが。


「そのときもしっかり一夜漬けをして挑んだわ。けど、調子が悪いときってあるのね。大半の問題の答えが思い出せなかった」


 悲しそうな顔で牛乳を一口飲む姉。今までがラッキーだっただけの様な気もするが、そこはどうでもいい。


「このままじゃ赤点になっちゃう。絶体絶命だった、そのときよ!」


 姉がビシッとこちらを指さす。鼻の下に牛乳のひげがついていてどうにも格好がつかない。


「黒板に映ったのよ、答えが」

「答え?」

「正確にいうと過去の授業の板書ね。テスト範囲の授業の板書が浮かび上がってきてそこにはテストの答えがたくさん。おかげであたしは赤点を免れたってわけ」

「え、ちょっとまって、『未来の』黒板なんじゃないの?」


 私は思わず前のめりになって姉に尋ねる。


「ああ、過去も未来も移すらしいのよ。友だちは未来の黒板を見た子もいたし。

 あたしが見たのはたまたま過去だったってわけ。ラッキーよね。普段の行いかしら」

「いや、でもそれだと『未来の黒板』っていうより『タイムスリップする板書』って感じじゃない?」


 私としては至極当然のつっこみを入れたつもりだったが、姉はやれやれといった様子だ。


「こういうのは語感が大事なのよ。浸透しないと噂として成り立たないでしょ」


 噂を流す側も大変なんだなと呆れるが同時に興味もわいてきた。


「私も見れるかな?」

「運が良ければみれるんじゃない。あたしのクラスの中だけ5人くらいはいたから」


 ひとクラス三十人前後だろうからだいたい六分の一くらいの確率かと、私はぼんやり考えた。


「ふふ。そろそろ行くわ。あ~あ、大学でもこういう面白い話ないかなぁ」


 話したい事を話すと姉は「いってきまーす」と出かけて行った。

 気まぐれに未来や過去を映す黒板。

 今日からの一年間を過ごす教室にそんなものがあるのかと思うと不思議だったが、


「あ、時間やばっ!」


 時計の針を見た途端に私の思考は現実に上書きされたのだった。



   ***



「おはよう、3年連続おんなじクラスだね」


 教室に入ると既に見知った顔がいくつもあった。


「おはよう。クラス替えだってのに顔ぶれは代わり映えしないね」


 自分の机へと荷物を置くと友人たちの輪に加わった。


「文系クラスはひとつだけだしね」

「でも今年は修学旅行とかもあるし、このメンバーで一緒に回れてラッキーじゃん」


 いつも通りの友だちといつも通りの会話。

 けれどこうやって過ごすのもあと一年なんだなとふと感じて少し寂しくもなった。

 ふと、今朝の姉との会話を思い出して教室の前を見やった。

 未来の黒板。

期待とは裏腹にその見た目はいたって普通だった。


「……誰よ、あんなの書いたの」


 黒板には『祝・卒業』とでかでかと書かれている。


「今日はまだ始業式だっての」

「なに、どうしたの?」


 友人が気がついて私の顔を覗き込んできた。


「いや、黒板のアレ、誰が書いたのかなって」


 黒板の『おめでとう』『卒業してもまた会おうね』『30人みんな合わせて3組だ』『思い出いっぱいできたね』などなど、色とりどりのチョークで書かれたメッセージを指さした。

 私たちひとりひとりの名前も書かれていて、まったく手の込んだいたずらだ。

 しかし、友人はしばらく黒板を見てから、


「え、うーん……先生じゃない?」


 ぽかんとしている。


 はっとした。

 黒板を振りやったそこには白いチョークで『9:30 始業式 体育館』とだけ書かれていた。

 今がそのときだったか。

 何が書かれていたか思い出そうとしたが、具体的な内容は思い出せない。


「そういえば、知ってる? この教室って例の七不思議があるらしいよ」

「え、あんたそんなの信じてんの?」


 友人たちの交わす軽口に心の中でだけ応えた。「私、見たことあるよ」と。

 けど、声には出さなかった。

 扉から担任の先生が入ってきた。


「ほら、席に着け」


 ガヤガヤとそれぞれの席へと座る。


「29人みんな揃ってるか? 初日から遅刻なんていないよな」


 ああ、きっとこれからの一年間いろんなことがあるんだ。

 けれど知らなくったていい。今はまだそれを楽しみに思うだけでいい。黒板はそれを教えてくれたんだと思った。

 期待に胸を膨らませて私たちは黒板に向う。



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