第69話 vs.凶霊・乾きゆく哀傷 前編
セトは沈んでいく。
綿毛のようにゆっくり落ちていく身体に、一切の光を遮る暗黒が優しく包んでいた。
視界は閉じているときのように暗く、臭いをかいでも嗅覚はなにもとらえない。
だが、この下になにかあるのだという確信が、セトの正気を崩さないでいた。
もうすぐ地面らしい場所に降り立てる。
セトにそう直感めいたものがよぎるや、彼の足が地面の感触を捉えた。
衝撃やわらかにその場に立ち、しばらく待ってみると、だんだんと周りが明るくなっていくのを感じる。
眩しそうに目を細めながら確かめると、『荒廃した世界』が広がっていた。
不穏な色をした空から照りつける太陽によって、辺り一面に広がる荒野はジリジリと暑い。
人間を含む動物の骨や、ボロボロになった剣やら槍やらが無数に転がっており、如何に過酷な環境であるかを物語っていた。
この光景にセトは思わず目を疑う。
魔術の知識は皆無に等しいため、これが幻術の類であるかどうかは判別できない。
だが今感じるこの熱は確かに本物だ。
服の中が蒸れるような感じがして気持ちが悪かった。
なによりこの場にいるだけで口の中が渇く。
一刻も早くこの空間から逃げ出したかったが、その糸口が見つからない。
なによりここで待っているであろう"凶霊"が見当たらないのだ。
セトはまずこの世界を歩いてみる。
歩くたびに目に映るかつての生命の残滓は、まるでセトに滅亡という深い悲しみを語り掛けてくるような気がした。
ユラユラと揺らめく陽炎の中に、そんな彼らの呻き声と咽び泣く声が聞こえてくる。
まともな世界じゃない。
戦場を駆け抜けたセトでさえも、これには眉をひそめた。
そんなときだった。
「────繰り返される艱難辛苦によって、心は徐々に乾いていく」
どこからともなく謎の声が響き渡る。
深い闇の中から聞こえてくるような薄気味悪い男の声だ。
「それはやがて心に無限の荒野を生み出すのだ。心に無慈悲を植え付けるのだ!」
セトは周りを見渡す。
ふと背後から気配を感じた。
勢いよく振り返るとそこには、黒ずくめの男が立っていた。
全身を包む黒いマントに貴族がかぶる三角帽子、右手には髑髏のようなデザインのカンテラを持っている。
顔は恐ろしいメイクを施したピエロのような仮面で覆っていた。
仮面の中からくぐもった声を出す。
「
それはまるで呪詛のように紡がれて、この荒廃した世界に響いていく。
セトもこれには嫌な感じがした。
目の前に立つ男の言葉が、まるで心を蝕んでいくような。
だが、この程度のことでセトは怯みはしない。
無言で魔剣を空間から引き抜き、正眼に構える。
重心は低く、身体に余計な力みを加えない。
そうするとバランスがよい。
瞬時に力を放出でき、あらゆる攻撃に対応できるからだ。
この距離ならば、一気に距離を詰めて首に一撃を与えることができるだろうと、セトは静かにチャンスを待つ。
そんなセトの戦意に呼応するかのように、男のマントが熱風にあおられ揺らめく。
まるで戯曲に出てくる魔王のように、荘厳なオーラを醸し出していた。
紡ぐ言葉にも憎悪が篭ってきている。
「荒野にうるおいがもたらされることはない。流れるはずの涙は流れず、
男は勢いよくマントを広げ右手を掲げると、赤紫色をした熱風がカンテラに集束する。
「我が名は『乾きゆく
セトはただならぬ気配を感じ取り、すかさずバックステップで大きく距離を開ける。
熱風が凶霊を守るように砂嵐の渦を引き起こし、さっきまでセトがいた場所まで覆いつくした。
半径は5mほど。
熱された風が、セトの体力を蝕んでいく。
今立っている場所でも十分に暑さを感じているので、中に入ればもっと熱いはずだ。
あの凶霊を討つには、砂嵐の中へと突っ込んで斬りに行かなければならない。
流れ出る汗と乱れてくる呼吸が、セトをジワジワと追い詰めていく。
(なるほど。この空間に入った地点ですでに俺は攻撃を受けていた。そして、奴が俺に勝つのは実に簡単だ。────ただ待っていればいい。体力の消耗を待って、動けなくなったところを刈れば、簡単に勝利が得られる)
渦の中で不気味な笑い声を漏らす凶霊を見据えながら、セトは再び魔剣を構えた。
過酷な環境下での戦闘は初めてではない。
何度も死にかけながらも敵を討った戦場での感覚はまだ残っている。
サティスとのあのささやかながらも充実した日々。
通常、平穏の日々の中でいれば大抵身体は鈍り、戦場での感覚も鈍くなってしまうだろう。
いざ戦闘ともなれば思うように身体が動かないという事態がしばしば起こってしまうものだ。
だがセトは違った。
セトの頭の中で戦闘に関するあらゆるスイッチが入る。
その電気信号がすべての神経を通り、肉体は『破壊』に特化した動きができるよう切り替わった。
魔剣使いとしての能力か、それともセト本人の先天性か。
どちらかは不明であるが、セトは今魔剣の力を以て、眼前の敵を破壊せんと意識を集中していた。
これまでの戦闘とは違う雰囲気がセトの身体から滲み出る。
初めてセベクと戦ったとき以上のものだ。
(あのカンテラ、熱風を操るだけじゃなく周囲の水分まで吸い取っているのか。長期戦は圧倒的に不利だな)
セトは冷静に敵の動きや特徴を読み取る。
渦巻く砂嵐の内部はきっとさらに暑い。
その中をまるで重い甲冑を着ているかのようにゆっくりとした足取りで、セトのほうへと進んでいる。
(走ったり飛んだりすればもっと脅威になったろうに。なるほど、あのカンテラで風や水分を操っているときはそこまで自由には動けないらしいな)
しかしそれだけで、あの砂と熱風の要塞を崩せるとは思えない。
熱されて随分を徐々に奪われる世界においても、セトの頭は冷静だった。
「死に魅入られし子よ。お前の乾いた心で、我が
「乾いた心ってのはご挨拶だな。これでも大分マシになったんだぞ? ……乗り越えてやるさ。アンタをなぁ!!」
セトは姿勢を低く保ちながら高速で前進する。
脇構えにした魔剣の切っ先による鋭い空気の切れ目がカラカラと地面を抉る中、凶霊はその場で立ち止まり、カンテラを大きく掲げた。
「オオオオオオオッ!」
凶霊が叫ぶと、火のよう熱い風が砂をまとって不気味に唸りながら舞い上がりセトの行く手を阻む。
大地の荒波か、それとも巨大な熱のカーテンか。
その熱と砂で鼻や口の中がやられぬようセトは服の余った部分を破り口と鼻を覆った。
砂嵐の中を突っ込むのは、戦場で少年兵として大人たちに無謀な命令を受けたとき以来だ。
身体が焼けそうに熱い。
噴き出る汗が瞬時に乾いてなくなっていく中、セトは凶霊へと全速前進。
短期戦と決めたその瞬間から、セトの中ではきっと無事ではすまないだろうという覚悟もできていた。
少年兵だったとは思えない、その常人離れした迷いなきドス黒い戦意は、凶霊にとっても異質に見えた。
精神的にも肉体的にもダメージを受けている中で、セトは凶霊に刃を突き立てようとする意志を貫こうとする。
「……面白い。我が
黒いマントを左手で巻き取るようにして勢いよくはためかせながらひるがえす。
それはセトが阻んでいた風を突っ切って、もう少しで凶霊へと辿り着くだろうとしていた直後だった。
凶霊を包む砂嵐とともに、瞬時に姿を消したのだ。
「なに!?」
時間が凍り付いたかのような感覚がセトの動きを止めた。
なにごともなかったかのように広がる荒野。
その中にひとり残されたセトは、失った水分によって身体の渇きを覚えながらも周辺に注意する。
「
ふと声が聞こえた。
心に直接響いてくるような声だ。
近くにいる、そう確信したセトの直感が視線を空に向けさせた。
太陽が巨大ななにかに覆われ、セトに降り注いでくる。
────砂と熱風による嵐だ。
その中心にはマントを翼のように広げたあの凶霊がいる。
右手にはカンテラを左手には斧を持っており、自然の猛威とともに襲い掛かってきたのだ。
「やっべマジかアイツ!?」
「オオオオオオオッ!!」
砂嵐とともに振るわれる斧の威力は絶大で、荒野の乾いた空気を大きく振動させ、それが衝撃波となって辺りに響き渡る。
その衝撃で砂嵐が晴れると、ふたりは刃を交え互いに火花を散らしていた。
セトはジリジリと焼ける大地の中、魔剣を振るいながら凶霊と戦う。
接近戦においてはこちらに分があることがわかると、セトは自分の体をさらに鞭打って剣を振るい続けた。
「グォオオッ!?」
魔剣の切っ先が凶霊の身体を少し抉った。
凶霊は呻き声を上げながら後方へ飛び退くと、またしても砂嵐を召喚し、身を守る。
あろうことか、今度は砂嵐ごと分身までし始めた。
さらなる熱気がセトを朦朧とさせる。
かなり動いたせいで、身体中の水分の大部分が喪失していたため、セトはしんどそうに片膝をついた。
「
最早勝利を確信しただろう凶霊は、セトに優しく告げると、砂と熱風を操るカンテラから真っ赤な光が漏れ始めた。
それがセトを包む無数の星々のように、死へと導いている。
生命が生きる環境ではなくなったこの世界でたったひとり苦しむセトは……。
「な、なに?」
自分の意識をしっかりさせるよう首を振りながら立ち上がる。
しっかりと足を地面に踏み込ませ、魔剣を両手で握り正眼の構えをとった。
────彼はまだなにひとつとして諦めてはいない。
過酷な状況でも道を切り開くという意志をその闘気の中に滲ませていた。
「悪いが、アンタの
魔剣が赤い輝きを宿すと同時に、セトの目から真っ赤な光が眼光となって漏れ出る。
そして、セトは旅に出て初めて、魔剣の『名』を口にした。
「魔剣解放。……────いくぞ、『
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