第19話 夏川神拳

「くそっ! くそっ! くそっ! ああぁああぁぁあぁぁぁぁッ!」


 真の怒りや憤りは、言葉では表現できない。そして声でも表現できない。


 自宅へ帰ってきた心音。応接間から救急箱を持ち出すと、自分の部屋へ戻る。ベッドへ浅く腰掛け、苛立ちを剥き出しにする。


 完膚なきまでに叩きのめされた。心音が逆転できる要素など、毛ほどにもないほど負かされた。だが、それを受け入れられるほど、心音は敗北にも挫折にも慣れてはいなかった。


「はあ、はあ……つぅッ!」


 太股に巻かれたハンカチを外す。酷い有様だ。まさか、笑顔のまま刺してくるとは思わなかった。しかも、年頃の女性の柔肌をだ。


「たしか縫合キットがあったはず……傷、残らないといいけど……」


 これほどの傷なら、病院に行くべきなのだろうが、心音にも事情があるのだ。


 心音の家はそこそこの金持ち。父は大企業の役員で、娘が極普通の可憐で優秀な女子高生だと信じて、甘やかしてくれる。自由にもさせてもらっている。もし、病院にでも行って、おおごとにされたら事情を事細かに追求されるだろう。そういうのは面倒だ。


 麻酔はなし。丁寧に縫合して、あとは包帯を巻いて終了。両手はオペでもしたかのように紅く染まっていた。事実、オペのようなモノでもある。


「許しません……。絶対に、和奏先輩諸共消してやる……殺してやります……」


 この程度であきらめるのは愛ではない。これは心音の京史郎に対する愛と、穂織の和奏に対する愛の戦争なのである。恐ろしい相手だが、こうして生きている以上、殺すチャンスはある。


 この時代、金さえあれば、どれだけでも戦力は集まる。ネットの掲示板には、数万円で殺しを受けてくれるような奴らが大勢いる。


 手段は選ばなくてもいい。毒だろうが、寝込みを襲おうが、家に火を着けようが、やり方はいくらでもある。確実に殺してくれる悪党を集めて、あの女を確実に殺す。


 心音は、足を引きずりながらデスクへと向かう。ノートパソコンを開いた。そこでフリーズ。パソコンではなく、心音がフリーズした。


「な……」


 キーボードの上に一枚の手紙が挟まれていた。書かれているのは、たった一行。


『約束だよ?』


 約束とは一体? と、思い巡らすも『穂織との約束』以外思いつかない。両親との約束? そんなものは特にないし、このような演出をするような親でもない。


 穂織しかいない。その結論に至るにつれて、全身から汗が滲み出てくる。


 心音は戸惑い、周囲を見渡す。どうやって侵入したのかわからないが、あの女なら可能ではないかと思ってしまう。夏川穂織はストーカー以上にストーカーなのだから。


 しん、と、静寂が落ちたその時。


 ――コン、コン。


「ひっ!」


 思わず、ノックに怯んでしまう心音。


『心音、何かあったの? 廊下に血が落ちてたんだけど』


 血痕。足の怪我のせいか。注意していたつもりだが、落としてしまっていたか。


「なにもないよ? お母さんじゃないの?」


 問いかけるが返事はない。とりあえず適当にごまかしておく。


「あ、私かも。転んじゃった時に、膝をすりむいちゃってたみたい。血が出てるー」


 返事がない。救急箱を取りに行った? いや、救急箱はここにある。まあ、いろいろと関わられると面倒なので、安心させた方がいいか。心音は仕方なく顔だけでも見せることにした。


 縫合したばかりの脚の痛みを堪え、ドアを開けてみる心音。だが、そこには誰もいなかった。


「あれ……。……お母さん? ……救急箱とかいらないからねー。お母さーん?」


 声を飛ばすも、反応がなかった。まあいいかと、心音はドアを締める。そして、振り返ったその時――心音は心の中で悲鳴を上げた。


「ッッッッ!」


「――どうしたの、心音。廊下に血が落ちてたわよ?」


 そこにいたのは夏川穂織。足を組むようにしてベッドへと腰掛けていた。その声は、母親とまったく一緒だった。完全なる声帯模写。気持ち悪いぐらいだった。


 窓が開いている。どうやら、そこから侵入したようだ。


「悲鳴、噛み殺したね。家族に心配をかけたくないんだね。偉いね」


「ほ、穂織先輩……!」


「復讐とか…………考えてないよね?」


「まさか。や、約束したじゃないですか。これからは仲良くするって!」


「そだよね。いやあ、こういうタイミングでね。復讐を考える人っているからさ。念を押した方がいいかなって、心配になっちゃったんだ。ごめんね」


 ――っていうか、どうやって入ってきたんだよ!


 パソコンに置き手紙を挟み、母親の声色の真似してドアを開けさせる。その間に、回り込んでベッドに着席? 窓から? いったい何者なのだ!


「もう、酷いですよぅ。信じてもらえないなんて」


 にこやかに応対する心音。


「ごめんね。そうだよね。友達を信用しないなんて、いけないことだよね」


「いえ、無理もないことですよね……酷いこといっぱいしちゃったし。――でも、安心してください。穂織先輩は、怒らせたら駄目な人だって、ちゃんと理解しましたから」


「うん。じゃ、明日からのレッスンがんばろうね。京史郎さんとも仲良くなれるといいね」


「はい! ふふっ、こんな私を気遣ってくれるなんて、穂織先輩って、ちょっと変わってますね。――けど、先輩のこと好きになりました」


「あはは、それはちょっと嬉しいかな」


 後頭部を掻きながら照れる穂織。


「じゃ、それだけだから。またね」


 別れの挨拶をすると、穂織は窓を開けて、ひょいと飛び降りる。二階にもかかわらず。


 ――心音が、窓の外を覗き込むと、すでに穂織の姿はなかった。


「……やっと消えた……」


 脱力する心音。穂織の行動力とストーキング能力は思い知った。だが、まだまだ甘い。


 窓の鍵を閉め、カーテンで覆う穂織。キーボードの上の警告文をくしゃりと丸めてゴミ箱へ。狂気の笑みを浮かべながら、穂織はパソコンに向かう。


「甘い。甘いですよ、穂織先輩! 私を改心させたと思っているようですけど、これで終わりになんてしませんから! 自宅はすでにわかってるんですよぉ。世の中には暇な悪人がいっぱいいるんです。地獄、見せてあげますからねぇ!」



 ――今日は久しぶりに身体を動かしたなぁ。


 自宅に帰った穂織は、まずお風呂。汗をきちっと流す。その後、シャンプーの香りを漂わせながら自分の部屋へ向かう。ちょうど、父親が帰ってきたようだ。廊下ですれ違う。


「あ、お父さん。おかえり」


「ただいま。あれ? 穂織、もしかして誰か殺してきた?」


「え? 匂う?」


「血の匂いがね。普通の人なら、気づかないからとは思うけど」


「むう、もう一回入り直そうかな」


「ちゃんと死体は始末してきた?」


「へ? いやいやいや、殺しなんてしてないよ! そんなことしたら捕まっちゃうよ! ちょっと喧嘩してきただけ! だいたい、そんな時代じゃないから。今時流行らないよ、忍者なんてさ」


 夏川家は、先祖代々忍者を営んでいる。桃山時代から大名に仕え、裏から歴史を支えてきた。その技術は、現代でも衰えることなく、二十代目である夏川穂織にまで、脈々と受け継がれていた。


 とはいえ時代に馴染むわけもなく、父も母も現代人らしく生きている。もっとも、それは表面上の話で、裏では何をしているのかはわからない。穂織ですら、こうして友達の危機となれば、培った実力の片鱗を見せることがあるのだ。


 ちなみに、正確には忍者というよりもクノイチである。父も忍者だが婿養子。歴史があるのは母の方だ。


「私は、和奏ちゃんと一緒にアイドルやるんだから」


 穂織自身も忍者であることを口外するつもりはなく、平凡な人生を送りたいと願っている。和奏だって彼女の正体を知らない。


 親子の会話をしていると、ふと玄関が開いた。


「――ただいまぁ。あら、どうしたの、ふたりとも……。廊下で」


 今度は夏川流忍術十九代目継承者、夏川瑞穂様のご帰宅である。


「はは、穂織から血の匂いがしたものでね。ちょっと親子の会話」


「血の匂い……? ああ、自分ので気づかなかったわ」


「お母さん血まみれ……何かあったの?」


「家の前に物騒な連中がいてね。チーマーとか、外国人とか、暴走族とか。迷惑だったから、追い払ってたのよ」


「そうだったんだ。シャワーの音で気がつかなかったよ」


「さっきから騒がしいと思ってたんだけど、そんなことになってたのか」



 夜の麻思馬市。心音は、少し離れたところで報告を待つ。


 先程、金と人脈を駆使して揃えた戦力を、夏川穂織の自宅へと送り込んだ。その数は百にも上る。連中には『容赦はしなくていい』と言っておいた。


 家に火を点けようが、トラックを突っ込ませようが、一族郎党皆殺しにしようが構わない。心音は、ただただ結果報告を受け取るだけ。


 夏川穂織が死ぬか、あるいはボコボコになって連行されてくるか――。


 襲撃に向かって五分ぐらいだろうか。連中のひとりが、息を切らせながら戻ってきた。


「心音さんっ、心音さんッ!」


「終わりましたか?」


「伝言っす!」


「は? そんなのラインで済むことじゃないですか」


「その……家の前におばさんがいて、いや、おばさんっていってもめちゃめちゃ美人なんですけどね。そいつが強いのなんのって……はは、全滅です」


「ぜ、全滅……?」


「スマホも壊されちゃって、んで、ボスに伝えろって」


「私にですか?」


「え、ええ……つ、次、くだらないこと考えたら、ぶ、ぶぶぶっ殺すって、ごふっ、えぐ?」


 突如として痙攣し始めるチンピラ。


「あ、が、がががふぁッ、ぼぐでびびっぐふぉッ!」


 そして、口から噴水のように血液を噴き出し、白目を剥いて倒れるのだった。まるで指先ひとつでなんでもできる、あの神拳のようだ。


「ひっ!」と、さすがの心音も悲鳴をもらす。


 うつぶせに倒れたチンピラの背中には張り紙があった。書いてある言葉は――。


『この命知らず』だ。


「あ、あ……あの家族……人間じゃないの……?」


 その日、唯坂心音は、初めて心が折れるという経験をしたのであった。

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