>>5 start of practice




 私は今、真っ暗闇の中にいる。

 ここが何処かは分からない。

 だが、自分が今何かに追われているという事だけは分かった。私はそれから逃げなければいけない。だから走った。暗闇の中を。


 光はまだ見えない。……だが、走るのを止めればその途端に私は何かに殺されてしまう。私は恐怖に脅えながら、ひたすら走っていた。


 ……しかし、こんなに走っているのにも関わらず何かは近づいてくる。そして、あっという間に私の真後ろまで来て、『何か』は、私の肩をぐっと掴んだ。そして──……。





「おはようございますっ!! ゆかり先輩」

「うわあああっ!?? ……ん? 」


 目を開けるとそこは、暗闇でも何でもない、菜々ちゃんの家の中だった。そして、目の前には驚いた顔を浮かべている菜々ちゃんがいる。


「……何だ、夢か……。びっくりした……」


 現実で無かったことに安心して、私はホッと息をついた。


 ……それにしても変な夢だ。

 なかなかリアルで、怖かった。


「驚いたのはあたしの方ですよー。何か嫌な夢でも見たんですか? 」

「うん、ちょっとね」


 夢というのは不思議だなとよく思う。

 どんなに有り得ない世界でも、夢を見ている間だけは現実だと本気で思ってしまうのだから。


「夢って見るものによっては結構怖いですからね……。まあでも、顔洗ってきてください。今からランニングに行くんですからっ」

「……え? 」


 あ、そうかっ!

 ランニングか……!! 忘れてた……。


「ほーらっ。早く顔洗ってきてください」


 ……夢で散々走ったので、流石にもう少し休んでから行きたいのだが。


「朝走るのって結構気持ちいいんですよ。勿論肺活量を鍛えるのが目的ではありますけど……、健康にも良いんですから」


 菜々ちゃんは『ほらほら』と布団を強引にとっては、私の腕を引っ張って立ち上がらせた。


 ……スパルタだ……。


 私はまだ眠たがっている目を擦って、顔を洗いに洗面所へ向かった。




♢




 最初は嫌々外に出てきたが、いざ走ってみると菜々ちゃんの言う通り、『なるほど』と思った。


 朝走るのはなんというか……、普段体育で走っている時とは違う、心地良さを感じた。朝特有の澄んだ空気というか……。それに、


「おはよ〜」

「おはようございます! 」

「こんな朝早くから走ってるの? 偉いねえ」

「ふふっ、ありがとうございます! 」


 私達と同じ様にランニングしてる人と、こうしてすれ違った時に交わす挨拶は、凄く幸せを感じる事が出来たんだ。不思議と笑顔になってしまう。


「どうですか? ゆかり先輩。朝走るのって気持ちいいでしょう? 」

「うん。楽しいっ! 」


 菜々ちゃんは『ふふ』っと笑っていた。

 何だか菜々ちゃんの思惑通り……という感じで、少しだけ負けた様な気持ちになってしまうが、まあいいや。


 朝のこの空気は、私の普段の狭い心を広くしてくれる様な、疲れを吹き飛ばしてくれる様な、そんな効果があった。例えれば、山の中にいる時の様な、そんな感じだろうか……。


 楽しいし、健康にも良いし。

 習慣にするのもいいかもしれないな……。





♢





「ぷはーっ!! 」


 そして何より、一生懸命運動をして汗をかいた後の、風呂上がりの牛乳程美味しい物は無いっ!!


 幸せだー!!


「ふふっ。ゆかり先輩、何だかオジサンみたいです」

「オジサンって」


 思ってもいなかった菜々ちゃんの言葉に、思わず手に持っていたコップを落としそうになってしまう……。いけないいけない。




 その後私は、菜々ちゃんが作ってくれた目玉焼きやベーコン、お味噌汁やご飯……という、まさに朝食の様なメニューを頂いた。やはり、昨日の夜に続いて凄く美味しかった。


 朝早く起きてランニングをして、軽くシャワーを浴びて美味しい朝食を食べる……。なんて健康的で贅沢な1日なんだろう。




 食事を終えた後、私は温かいお茶を飲んでホッと一息ついていた。


「ゆかり先輩。今日はお泊まりだったので流れでランニングに行くことが出来ましたが、明日から休日は4時にランニング行きますので、よろしくお願いしますね」

「わ、分かった……」


 何となく予想はしていたので、心構えは出来ていたが……。しかし、さっきランニングをした時は疲れたけどとても楽しかったので、何だかんだやる気になっている自分が何処かにいる気がする。


「それと……平日ですが、流石に4時だとお互い学校もあって厳しいと思いますので、放課後公園に集まってからランニングでどうでしょうか? 」

「うん、いいよ。分かった」


 同じ学校に通っていたら、朝5時ぐらいに走る事も可能だったのかもしれないけど……、別の学校だし仕方ないよね。


「それじゃあゆかり先輩、早速歌のトレーニングを始めましょうか。2階に練習部屋があるのでついて来てください」

「練習部屋? 」


 練習部屋とは何だろう?

 私は立ち上がって、菜々ちゃんについていく。

 階段を上って、奥の方に進んでいくと何やら広い部屋があった。


 中を覗くとそこには……。


「わあ! 凄いっ!! 」


 キーボードやギターが置いてあった。

 テレビでよく見る、楽器部屋みたいな感じだ。


 オシャレ〜!!


「あたしはこのアコギ……、アコースティック・ギターっていう楽器を使っています。音がでかいので、外ではあんまり使わないんですけどね。この部屋、防音なので思いっきり練習が出来るんですよ」


 ジャーン。

 菜々ちゃんは弦を弾いて音を鳴らした。


 カッコイイ……!!

 想像していたよりも大きな音がして、何というかグッと来た。これがシビれるってやつだろうか。


「ゆかり先輩は何か楽器の経験した事ありますか? 何でも大丈夫ですよ」

「楽器かあ……。実は、小さい時に少しだけピアノ弾いてた事ならあるよ。本当に少しだけだけど」


 あの時は、両親の勧めでピアノ教室に通い始めた。結構楽しかったが、勉強や執筆が忙しくなってからは弾く時間が限られてしまったので、いつからか通うのを辞めてしまったのだ。


「あっ! そうだったんですね。それなら話は早いです。ゆかり先輩、時間がある時でいいのでキーボードの練習もお願いします。ここにあるキーボードを好きに使っていいので」

「え? 」


 ……キーボードの練習?

 菜々ちゃんアコギってやつ弾けるのに、どうして私も楽器の練習するんだろう。


「勿論、BGMは基本あたしが担当しますけど、ゆかり先輩がキーボードを使えたら色んな曲に強くなれますからね。なので、ゆっくりでいいので練習しておいてくださると嬉しいです」

「なるほど、分かった。でも私、本当に少ししか弾いたことないから、出来るかな……。譜面は読めるけど」

「大丈夫ですよ。案外手って覚えてるものですから。感覚さえ掴めば直ぐに戻りますよっ」


 そういうものなのかな……。


 ちょっと不安だけど、まあ菜々ちゃんが言うならそうなんだろう。やる事がいっぱいだけど、とりあえず出来るだけ頑張ってみよう。


「新人ボーカルコンテストまで3ヶ月もありますからね。ゆかり先輩、審査通れる様に一緒に頑張りましょうねっ! 」

「うんっ! 頑張ろう! 」


 よし。やる気が出てきたぞ!

 こうなったら、何が何でも絶対に受かってみせる!!


「じゃあとりあえず、発声練習から始めてみましょうか」

「おーっ! 」




 こうして私達は、3ヶ月という短い様で長い様な時間の間、必死になって練習を積み重ねたのだった。

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