第43話  イン=イ・インディス(殷陀羅尼)帝国

 1時間と数分後にはノルテとオエステとの間に横たわるオフェアノ・パクス(太汎海洋。別名、大東西海洋)に着いた。


 ちなみに、大東西海洋とは、オエステから見て西でノルテから見ると東にあるからである。その論法で言えば、エステとノルテの間にある大海洋も同じ名前がなくてはおかしいとも言えるが、別に地名は世界全体で打ち合わせして決めるわけではないので、西の海はただアトランティコ(大古代海洋)とだけ呼ばれていた。


 広大なるオウフェツォーク湾を渡り、オウフェツォーク半島に着くと大東西海洋の東側にある国マークルスMarcruiz王国に着陸する。大東西海洋の島嶼国が次々シルヴィエの手に落ちる中、ノルテの半島にありながら未だ独立を守っていた。

「白色が基調でシンプルだけど、いつ見ても落ち着いた街だな」


 先祖はバイキングで質実剛健の気風があり、それが独立を守ることができている理由の一つである。木製の建築が多くあった。


 チヒラはマリアが船を使った南ルートでアクアティアに帰ることができるように手配する。マリアはエオレアにメールを送った。イラフは采配し、ガリア・コマータ全員を警護としてマリアに附ける。そのままクラウド連邦に帰国することができるという利点も考えていた。クラウドの偉大な戦士たちもほとんどが怪我人である。帰還させてやらなければならないのだ。


 ストランドとは、ここでお別れとなった。


「世話になった。さようなら」

 イラフが別れを惜しむ。ユーカレもチヒラもハラヒも握手した。

 ジイクやシルスやバルバロイも声をそろえ、

「貴殿のような勇者とともに働けたことは大変な名誉だ」

 と言う。

「素晴らしい経験でした。戦士としてより高みに達したと感じます」

 そう言って、ストランドは微笑の上に涙を泛べた。イラフもチヒラもハラヒも涙ぐむ。


 イズミル港に大華厳龍國の威圧的な帆船が待っていた。砲門があって戦艦のようでもあり、流旗に交叉する剣と髑髏が描かれ、海賊船にも見える。


「海は荒れてるぜ。出航日和!ってわけにゃいかねえなあ」

 海賊以外の何者でもない姿、でっぷりとして大柄で荒々しい鬚を蓄えたモーヴィック船長が難色を示した。

「勇猛果敢、七つの海を股にかける君の腕前で何とかならないか」

 チヒラがおだてると、船長は、

「まあ、この海はおれにとっちゃ、産湯みたいなもんだ。やってやれねえことはねえな、お嬢ちゃん」

「では、是非お願いしたい」

「船酔いなんかするなよ」

「わかった」


 ジイクが医者の用意をする。シルスが指揮し、人夫が次々と塩漬け肉やオリーブ・オイルや葡萄酒の樽、塩や小麦粉の袋を積み込んで行く。武器や砲弾も満載した。銀行で資金を調達する。


「さあ、行くぜ」

 モーヴィックが言った。帆が風を孕む。船は港から出航した。甲板に立つと、潮風が冷たい。見上げれば応龍が上空を廻っていた。視線を転じて藍色の海を見やれば怒気を含んでいるかのように見える。


「十二匹の応龍はクラウド連邦と大華厳龍國との同盟の証として返さなくともよいとのことだ。

 皇帝にMPCメールで連絡があったらしい」

 チヒラがそう言った。

「そうか。

 無理して船を調達しなくてもよかったんだ」

「いや、怪我人の治療があるから船は必要だったさ。

治療の必要がなくて応龍に乗ってもよい人間は、ぼくら以外では二十四人だ。セフイは事実上、解散さ」

「とても言葉には言い表せない経験だったな。ストランドの言った意味がよくわかる」


 港を出て数時間、状況が安定すると、イラフたちとレオンと二十四人の軍人たちは応龍に乗って先にオエステに向かった。アーレセニア島上空を経由して海を南下する。イン=イ・インディス(殷陀羅尼)帝国に向かう。


 海を見渡してイラフが感傷的な表情をした。ミュールを鳴らし、その後、少し黙ってからチヒラがちらりと問う。

「どうしたの」

「いや。

 海を南西に向かえば、コレイやリョジャドだな、って思っちゃって」

「故郷が懐かしいのか」

「君は違うのか」

「そうだな。懐かしくないと言えば嘘だ。

 ・・・思えば、なぜ、ぼくらは憎み合わないのだろう」

「そうだね。確かに。

 怨みを忘れるなという声は未だに多い、お互いにね」

「しかしそうでない声もある。

 声はいつでも複雑だ。いつでもすべては一様でははない。決して単純ではない。一様に考える者が悪だ。粛清すべき邪悪だ。世界を蔽い尽くすすべての暴力、迫害、差別、虐待、憎悪、憤懣、怨嗟の大本だ」

「君の持論だね」

「ぼくらは苦難をともにした。経験をともにし、ともに戦士として成長した。魂をともにしたんだ。多くの人とこのような共感を持つことが大事だ。闇に籠ってはならない。

 闇に堕ちることが最悪だ。怨み、憎しみ。この過酷な試練を超越することは、実際、もの凄く困難だ。言うほど易しくない。

 もしかしたら不可能なのかもしれない。人はそれを超えられないのかもしれない。だが赦しが唯一の救いであることは生理学的にも真実だ。不可能であっても真実であることだけは確かだ。

 ぼくにしても、誰にも薦められない真理だが。そもそも薦める資格がない」

その少し寂しげな、悲しくもある表情に、イラフは、

「仕方がないことだ。いったい、誰がそれを超えられるだろうか」


 うつむいたまゝチヒラは苦笑し、

「いずれにせよ、君はぼくの味方だ。少なくとも、ぼくが君を恨む理由はない」 

「わたしもだ。なぜだろう、わたしは今、君と初めて会ったときに君がオシアンの歌を歌っていたことをふと思い出した。フィンガル王が仇敵スタルノ王をあえて逃がす場面だ」


 オエステに上陸した。

 乾燥した苛烈な大地、植物は少なく、岩が多く、陽射しは強烈だ。数少ない木陰では沙門(苦行者)が座禅を組んで瞑想に耽っている。昼は獅子が咆哮し、夜は虎が森を駈け、大きな飾り布を掛けた巨象の軍団が乾いた砂埃を上げて駈け抜ける。


 庶民の家は大概が日干し煉瓦であった。幅広くて流れの緩い黄土色の大河の傍らには巨大な寺院ができていて、沐浴する人々が見られる。寺院の周辺は物売りで賑やかな町であった。


 イン=イ・インディスで第二の都市と言われるマンディラーニ(曼荼羅婀尼)に着陸する。瞑想的な街であった。


 その雰囲気はこの国のすべての都市に共通する。それは歴史に由来していた。

 齊歴527年に太陽の末裔を称するイィシュク(飯粥)王のイ国がこのマンディラーニに興り、大いに繁栄することに始まる。初古の王国のうちの一つであった。


 王は哲学を愛し、巨大な図書館や文書館を各所に造った。僧院を数多建立し、公的な神官も私的な修行者である沙門をも大いに奨励し、援助した。

 瞑想こそ人の営みの最善であるとして、その実践を民衆にも大いに提唱したのである。


 イィシュク王は世襲制を望まなかった。良きシステムさえあれば、世襲はいらないと考えたのだ。世襲よりも安定した、争いのない方法があれば。


 歴史上存在した過去の世襲制国家の名誉のために言おう。世襲と言うと、いかにも悪しき風習と思われがちだが、社会の安定していない時代では権力の奪い合いが起こりにくいという利点がある。王位を継ぐ者が自ずと決まるからだ(実際には、争いが起こっている。だが、もしも世襲制でなかったら、もっと酷いことになっていた可能性もある。実際、権謀術策が横行するため、合議共和制から世襲制に戻した国もある)。


 イィシュク王は死後、自らの魂魄をコブラに託し、コブラが不正を監視した。

 したがって権謀術策を弄して権力の座に就こうとする者にはたちまち死が訪れる。IEのシステムをコンパクトにしたような国家であった。


 聖なる祖王が亡き後も、その精神は廃れず、聖なる精神は継承され、代々太陽神の末裔を称し、王は真理の分与者であり続けた。


 人は真理ゆえに生命があると信じた。真理が生命である、と。繁栄は1000年続く。だが、やがて腐敗した。なぜならコブラの寿命が1000年で尽きたからである。


 賄賂や縁故者登用が横行し、民衆に不満が募る。天誅を叫ぶ、武に優れたムガ王国が王位を簒奪した。ムガ王はイ国の文明を尊び、国号をイン(殷)国と改めるも、世襲制を採用し、3000年の繁栄を誇った。


 3000年後にイ国の王位継承者を名乗った第二の高祖リャドが支持者とともに王位を奪還し、現在の首都カルータガヤに朝廷を開き、国号をイン=イ・インディスとし、今日に至る。


 瞑想文化に優れたこの国は、言葉による論理学は偶然の積み重ねによってできた記号に過ぎない言葉(概念)に依存する無意味なものであると蔑み、体験(実存)を重んじて瞑想経験の修得を歴史的に積み上げた。


 繁文縟礼な建築装飾は、超論理的で揺らぎのある、複雑系的な実践の思想を象徴している。捉えがたい形状で細かく重層的で入り組んだ精緻な彫刻はシルヴィエ帝国を遙かに凌いでいた。


「彫刻の複雑な寺院だ」

 水色の髪のイラフは見上げてそう言った。100m以下ではない。


 コプトエジャのユリアスの助言に従い、その寺院で学識第一と呼ばれるレムノ大僧正に面会する。大僧正はチヒラが来訪の理由を告げると、微かに笑った。乞い求めに応じて厳かに大いなる真理を語る。

「いかようなる考概であれ、それらが畢竟のところ、何であるかを問われれば、答えられなくなる。『え答へずなり侍りつ』だ。我々は意味も意義も、何も知らない。只(ただ)納得という心的状態の中に投げ込まれているだけだ。※「え答へずなり侍りつ」徒然草第243段参照。

 それぞれの考概がその思念を做すそのフォルムがどうやって選ばれたかも知らない。考概という効果が我々にとっては実存するが、なぜその在り方(設定)なのかも、なぜ在り方(設定)がなければならないかも知らない。

 そもそも知るとは何か、どういうことか。何が起こっていることになっているのか。また知らぬとは。その在り方も在り方という在り方が選ばれた理由も知らない。

 実存ではあっても、実在ではないのかもしれない。確かめようもない。そもそも何を確かめるのか。思念を出発させるために踏む地面、成り立たせる縁(よすが)は、どこにあるのか。

 人が思惟の中で使用する諸々の考概が、我々を生存へと駈り、執著させるための効果・絡繰りに過ぎないとすれば、その形は〝カタチ〟という抜け殻に過ぎない。

 だがそれが何であろうか。そもそもこのように推定しているこの思考もまた、インパルスがニューロンを走っているだけに過ぎないというのに。

 ならば諸考概を何であると言えるのか。物的現象だ。だが、それもまた何であるか。

 無空すらない。なぜならば無空すらも既に諸考概のうちでしかないからだ。ムクウというカタチがあるだけではないか。

 路傍の小石や、苔や子犬が真奥義であって何がおかしいか。土中に打ち棄てられた茶碗の欠片が究竟の真理であって何が問題か。

 またその逆が真であって何が悪いか。またその双方であって何が矛盾か。

 拙僧は諸君らにこの国に古来伝わる言葉を献じよう。すなわち、

『ここにあるすべては無際限に、過剰なまでの、余りにも自由なる自由。心機に応じよ、龍のごとく生きよ、龍のごとくに肯(がえ)んぜよ』

 隹(こ)れを『龍肯(りゅうこう)』という。(『龍肯』という言葉は、IEに於いては、人口に膾炙(かいしゃ)した一般名詞であるが、イラフはその言葉を胃の腑(肚)に落として反芻するうちに、臍下丹田に黎明を観じ、暖かみを感じた。人は物事を〝肚〟や〝呼吸〟で理解するものだ)

 語るまでもなき日常茶飯のこと。誰もが知らぬはずとてもなく、誰もが知りようすらもないことである」


 その言葉にうなずきながらもチヒラはさらに尋ねた。こういうときはチヒラに任される。他の三人は固唾を飲んで聴き入っていた。

「師よ、しかしながら神の定めによって、我ら人間は二つの路を同時に占有できません。人は道を選ばずにいることはできない。これも神の定めなのです。

 だからよく学び、よく思慮しなければなりません。この構造(仕組み)の理由を知らなくとも、もうこのシステムに乗るしか在りようがないのです。既に選択肢がないからです。

 今ここに来たのも、その努力のうちの一つです。智慧ある師に問います。どうかぼくらをお導きください」


「古寺院アガルイダのイア神像に秘められた文書には『フームサムイムヨム』という咒がある。

 これは古イ語で『しかあれ、いやさかに(または『かくのごとくあれ、実にめでたきかな』とも)』という意味だが、実は古代コプトエジャのエージャ地方の俗語の一派であるパリナ語で『1423』というのと同じ発音になる。

 これは古代から知られたことであった。

 しかもこの文書は古代の聖者フゥシカが大曼荼羅とともにコプトエジャから招来したと伝承されている。ちなみに、コプトエジャでは太陽の真理と呼ばれる曼荼羅であった。

 さて、この話はこれだけではない」

「何でしょうか」

「このパリナ語を古代コプトエジャの神官が使った神聖文字(語)で発音し直すと『いゐりあ』となるのだ」

「いゐりあ! イヰリヤと同じ!」  

「古代コプトエジャ語でも1423を表わすが、彼女の姓であるイヴィロンは古コプトエジャの『イブルン』と同じで、『イブルン』とはアナグラムの一種で、文字または数字を内容に関係なく、四つずつに区切って、1番目と2番目の数字または文字を入れ替えるとともに、3番目と4番目の数字または文字を入れ替える手法を言う」

「4132か」

「この数字は究竟と言われ、世界を動かす鍵、世界の原理(アルケー)であると、密かに伝承される秘文である。

 貴殿らの任務の重さを鑑み、特に今回はこの秘密を明かしたことを充分重く受け止めよ。厳に秘して扱い、人に知らすなかれ。以上である。

 拙僧にわかるのは、ここまでだ」

「4132・・・・・ダイヤル!」


 レムノ大僧正の下を後にして、彼らはまたも喧々囂々。 

「4桁の数字! 暗証番号か? 金庫のようなもののダイヤルの番号かな? 住所もしくは郵便番号? 電話番号ではないしね・・・」

「そもそも皇帝がそれをどうするんだよ」

「何度も言うが、世界の運命を変えるのだから、相当な規模があってもいいんじゃないか?」


「いや、その逆という考えもあるよ」

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