第2話  雨の降る村

 少しずつ異なりながらも、並行して同時に、しかし、交わることなく無数に存在する異世界のうちの一つ。



         篠突(しのつ)く雨の中を頭巾の附いたオリーブ色のマントで足下まで覆って、俯きながら歩く人。


    数百年を経て磨り減った古い石畳の路地であった。小柄で華奢な躰にも似合わず、大きな剣のフォルムが浮き上がっている。


  刀身は幅広で長く、この人物が鞘から一気に抜くことができるのかどうか疑わしいほどであった。


 またそれをじっと見る者もいる。


 ハラヒは特に考えがあってのことではなく、ただ漫然と肘を窓枠にかけて雨の路地を眺めていたのだが、ふとその人物が眼に留まったのであった。


 彼女が今いる建物は酒場を兼ねた宿屋で、一階が酒場、二階が宿泊室である。しかし彼女の泊まった部屋は一階の隅にある宿泊代の安い部屋で、物置同然に殺伐とし、狭く暗いが、よいこともあって、こうして道行く人の様子がまざまざと観察できたのである。


 ハラヒはその小柄な人を見た瞬間、思わず『きよかみ(清神)』と銘打たれた自分の剣を取って、柄を強くにぎった。片刃で日本刀のようなその剣はぐいっと身に寄せたときにかちゃりと金属の音を鳴らした。  

 その人物の動きには無駄も隙もない。頭巾から時折見える薄いペパーミント・グリーンの双眸は光が水面のように揺れ動いていた。隅々をにらみ、射抜くように鋭い。


 石造の建物が狭く屹(そばだ)つ峡谷のように迫る路地は、昏い夜がさらに深い黒に沈む場所。ここに着くまでの間、右へ左へと細い路地から細い路地を繋いで渡り、双眸を鋭く燦めかせながら旧市街を歩いたであろう人物は足を止める。

 開け放たれた戸口からは強い光があふれていた。ハラヒが泊まっている店の入口である。吊るし看板には『バルドスβάρδος亭』。竪琴を弾く牧人の象形。バルだ。廉(やす)くて、立ち飲み中心の庶民の酒場、テーブル席もあるが料金が割り増しになる。


 石段を二段上がった。中の様子を瞬時うかがう。

 湯気、農夫や鍛冶職人や狡そうな顔をした貧しい行商や土木・建築人夫らの喧騒であふれていた。


「おおよ、まったくだ、実際のところ、世の中ァ、どうかしちまってるぜ」

「あのあまっちょろはよぉ」

「うらあ、乾杯だあ」

「棟梁の女房ったら、ありゃ、ひでえもんだ」

「どうせまた戦争だぜ」

「早く酒をよこさねえか」

「ああ、そうともよ、エジンバールEdinbaurの川の流れに賭けてもいい、次は」

「まったくだぜ、あの女房殿ときたら」


 天井は暗く、太い梁が半ば闇に消えている。カウンターの中で太った顎髭の店主の怒気を含んだ低い声が「そら、ビールだ」と言って大きなジョッキをドスンと置く。

給仕の女の子は乱れた縮れ毛をスカーフで雑にまとめ、頬が汚れていた。十二、三歳か。店の隅の暗がりに立っている売笑婦の娘だった。

 炎の揺れる暖炉に燃える薪の匂いが強い。


 カウンターは伐り出したままの粗い無垢で、古びて色あせ、疵だらけで、削られ、傷み、艶もなく、人々の袖が擦らない片隅には埃が積もっていた。

その人物はテーブル席の前で止まる。


 マントを脱いで、雫を振るい落とし、あらわれたのは、少女であった。複雑な紋章や意匠の彫られた鞘をマントで包み隠す。その鞘に隠された幅広の剣は重く、ベルトから外してテーブルに立てかけたときにゴトっという音がした。


 ペパーミント・グリーンの眼であたりを睨(ね)め回す。


 首筋あたりで内巻きする水色の髪は濡れたせいでさらにカールが強くなっていた。縁取りの強い、眼尻の上がった眼(眼窩の化粧は魔除け、主に眼の病気の原因となる魔から護る力があると彼女の部族に伝えられていた)、白皙の皮膚、背は高くなく、肩や胴に馬革と金具の鎧、同じく硬い革のブーツを履いている。


 暖炉の傍のテーブルが空いたばかりだった。二人の厳つい傭兵が立ち去る。いらふ(彼女のなまえは正式には〝尹良鳬〟と錄す。東大陸(オエステOeste)にルーツを持つ民族は氏名に漢字を使う者が多い。本文中は主にイラフと表記する)は坐った。


 場所は憂欝なるエジンバール川に近い、街道沿いの小さな町、ストラングラー。数千年前に処刑場があって絞首刑人が多く住んでいたため、この名がある。200年前からは地の利を生かし、街道を使った陸運や川を使った水運で通商の要所として栄えていた。最近では鉄道も敷かれている。


「チーズ。骨附きマトン。ビールやワイン以外で飲み物は何があるのかな」

「え? お酒がダメってこと? じゃあ、水か、ジンジャーね」

 給仕の少女はじとっとを見ながらそう訊いた。イラフはあえて眼を逸らし、

「ジンジャーにしよう。パンは何?」

「ライ麦よ。

 あなた、もしかして、あたいと同じくらいじゃない」

「早く持って来てくれ」


 運ばれたチーズはヴァルゴーVir-Goeax国北部山岳地帯のヤギの乳からできたもの、羊の肉は裂大陸大海洋Mar-Medditerranoに泛ぶローディス島Lordhsessの滋味豊かな草を食むローディス羊の肉だ。場末の貧民窟にある酒場のメニューに、外国の名産品が当たり前のようにある。いかに国が豊かで物資にあふれているかがわかった。

為政者の心と力次第でこんなにも違うのだ。


「クラウド・レオン・ドラゴCloud Lion Drago連邦(通称「クラウド連邦」)。けして大国ではないが。噂どおりだな」

 イラフはつぶやく。そのつぶやきにはある種の憂いのようなものが含まれていた。


 クラウド連邦。小さなグループが聖典を護るために小さな砦を造ったことから始まった国家。神聖シルヴィエ帝国の陰謀に抗うためにネットで連帯を叫び集めた仲間たちで創り上げた国家。やがて帝国に操られたレオン・ドラゴ王国の強大な騎馬隊を斃し、王国の領土や国家施設を吸収して、小さな強国となった連邦国家である。


 扉からふしぎなオーラを帯びた人影が入ってきた。

 全身をフード附の外套で覆い隠している。その外套を脱ぐことなく、顔を蔽ったまま、細身のシルエットの人物は迷いなく彼女の坐っているテーブルに向かって歩む。外套の下に大剣が隠されているのがわずかにわかる。


 その人はためらいなく、イラフと同じテーブルの向かいの席に坐った。

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