フェティシズム


性的興奮をもたらすための手段として無生物の対象物を好んで用いることをいう。

19世紀ドイツの精神学者エビングが世界で初めて自身の著書『性的精神病理』において言及した時点では、純粋にその様な意味で済んだ。

ところが人間の業は合意のない相手、あるいは自分自身に屈辱や苦痛を与え、または空想して強い性的興奮を感じるようになった。


「つまり、肉欲が無機物では飽き足らなくなったのだよ」

あくびが出るほど長い講釈がようやく終わった。息が詰まるような地下室はとっくに死に絶えている。モニターに突っ伏したり、リクライニングに反り返ったり屍累々だ。

それを飛び越えてパラパラと間の抜けた拍手が聞こえてきた。あからさまな侮辱だ。日焼けした浅黒い軍服姿の男が目じりを揉んでいる。

「それで仰る通り、HENTAIどもがラブドールだのVRアイドルだのキチガイじみた偶像崇拝で世界を破壊し始めたことと、コバルト爆弾の所持に何の因果が?」

初老の男はくっくと笑いをかみ殺した。

「貴方は何もわかってない。HENTAI、いや、表現の自由戦士を名乗るテロリスト集団は偶像に【力】を付与したいと切望するようになった。実力行使、すなわち他人に有無を言わさず、世界を変える力を持たなければ、偶像はただの虚像で終わってしまう」

「帆場博士、我々はパネル討論やセミナーの聴講生ではない」

「考えもなく、武器を振りかざし、弾幕を張り、闇雲に彼らを追いたてた結果がこれでしょう?」

にらみ合う男たちの間で静止したキノコ雲が輝いている。

「いい加減にしてちょうだい、二人とも」

髪をひっつめた狐目の老婦人が割り込んだ。深紅のジャケットにタイトスカート。子供じみた原色が彼女の精神年齢を物語っている。

つまり、見た目よりも齢を重ねている。基本的に高齢者ほど衰えを派手な色遣いで隠したがるものだ。

「アスナ局長。こいつを独房から出した私が馬鹿だった」

軍人は自嘲することであからさまに責任逃れしようとした。

「その様ですね。マスード」

アスナは液晶パネルを叩いて幾つかの証拠とレポートを表示した。マダイン・サーレハは世界遺産――だったが(過去形だ)コーランに背徳の街として登場する。

その為、政府が観光資源として推すが多くの篤信のサウジアラビア国民たちはいい顔をしないのである。一節によると神の使者がラクダの化身に水を与えるよう乞うたが、住民たちは逆に屠ってしまったという。それで神の逆鱗に触れて滅びたという。

世界遺産登録にあたって当局は洋の東西を問わず調査団を受け入れてきた。塩化コバルトはガラスや陶器の顔料に使用されたり、水分に敏感なため植物が取り込む物質を調べる時などに使われる。

しかし、試料として持ち込まれたにせよ、コバルト爆弾製造の必要量を満たせない。

「国際監視の目を節穴だと思うなよ!? わがサウジは来るべき油田の枯渇に供えて原子力発電に軸足を移している。IAEAに常時監視されている。マダイン・サーレハに核物質はあり得ない」

軍人マスードは局長の理論武装を得て、帆場を追いつめるも、彼は動じない。

「フムン。チワワメディカル社から逸失した大量のコバルト線源は見つかりましたかな?」

即座にアスナが否定する。

「ええ、破産管財人が医療用シンクロトロンを競売にかけ、同業他社が落札した。ところがそれが朝鮮軍のトンネル会社で…」

「メデジンの中間保管施設からジワタネホに運び出され、忽然と消えた。国連軍も日本海で臨検したが空振りに終わった」

帆場が先回りして最終報告書にアクセスする。

「つまり、日本語でいえば『神隠し』だ」

「誰かコイツをぶち込んでおけ」

頭に来たマスードがとうとう声を荒げた。たちまちどこからともなく衛兵があらわれ、帆場を「丁重に」扱った。

連れ出される際に彼は懇願した。「もう無響室はたくさんだ。静かすぎて私の神経が持たない。せめて話し相手が欲しい」とわめき、あろうことか飼い猫の同伴を要求した。

「いや、待てよ。ネコ…か」

何か閃いたらしく、マスードは衛兵に耳打ちした。

「奴の部屋を隈なく量子暗号通信機で覆っておけ。外部と何らかの接触をはかろうとすれば、装置内部の量子ビットが破壊される。おそらく猫を通信機の運び屋にする魂胆だろう。だが、電波を受信あるいは発信する際に量子ビットと干渉する。逆探知する好機を逃すな」

「はっ」


喧騒が去るとマスードが毒づいた。

「まったく。有益な情報があると抜かすから命乞いに応じてやったのに」

「鈴は鳴るためじゃなく、派手に鳴らしてナンボのものでしょう」

アスナが思わせぶりな目配せをした。


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