幻想

@orga29

第1話

淡い幻想だった。

蝶を見たのだ。美しい黄金色の羽を持つそれは、換気のために開いた窓の先、僅か数メートル程の距離を、ふわりふわりと舞っていた。

案外珍しいことなのではないかと思う。というのも、それを見たのは、3階にある部室でだった。蝶というのは、元来そのような高さを飛ぶものでは無いはずだ。それがまた、自分の気分をも舞いあげていた。

その時、部室には私以外の人は居なかった。元々大人数で賑わっている部活ではないし、たまたま自分が早く来ただけだろうが、それもまた珍しい事だった。

まあだが、それにはちゃんとしたわけがあった。自殺があったのだ。隣のクラスの、名前は確か長谷川さん、だっただろうか。それが、屋上のフェンスを乗り越えて飛び降りたのだ。

詳しくは知らないが、どうやらいじめがあったらしく、生徒一人一人に入念な面談が行われている。私の番はまだ先だが、確か今日はそれで部員が一人休むと言っていたはずだ。

まあそういう事情があり、私は一人で3階の部室からその黄金色の蝶を眺めていた。ゆらりゆらりと飛ぶそれは、相変わらず窓の外数メートルの場所にとどまっていた。

ふと、その蝶の少し左上に、屋上のフェンスが見えることに気がついた。ちょうど自殺があった場所だ。花瓶が置かれているようで、花びらが少しだけ見えた。

何があったのかは本当に知らない。どうやら彼女へのいじめは相当陰湿に行われていたらしく、クラスの人間すらもあまり認知していなかったようだ。少しずつ心が削られ、限界などとうに超えていた状態で、彼女はあのフェンスの向こう側に行き着いたのだろう。

もしかしたら。最悪の事態になる前に手をさしのべられていれば。そういう事を思ったが、罪悪感はそれほど湧かなかった。エスパーじゃないのだ。そんな都合よくいくわけが無い。

蝶は相変わらず窓の外をふわりふわりと飛んでいた。心無しか少し距離が近づいているように見える。あの蝶になら届くだろうか。窓の方へと歩み寄った。

本当にその蝶は、手を伸ばせば届きそうな距離にいた。しかも、何故だろう、その蝶の中に死んだ彼女がいるような気がした。その魂が優しく包み込んでくれるような。手を伸ばした。まだ届かない。あと数十センチ。必死に身を乗り出した。

ほら、ここだよ。ここだってば。こっちだよ。おいで。

「何してるの!」

不意に後ろから大きな声が聞こえ、体が前に傾く。視界に地面が写り、少しづつ落ちていくような感覚がする。

間一髪で手すりを掴んだ。続いて後ろから一気に引き上げられる。

「あれ、面談は?」

「終わったよ。そんなことより危ないでしょ!危うく頭から真っ逆さまだったわよ」

彼女は、必死の形相だった。

「蝶がいたから」

それを聞いて、彼女がハッと息を飲んだ。

「どうしたの?」

「不吉ね」

「不吉?なんで」

「蝶は、死者の魂の象徴でもあるのよ。あなたを連れていこうとしたのかも」

ああ、そうかもしれない。あれは、死だったのだ。

ふと、窓から屋上を見ると、花瓶に綺麗な花が咲いているのが見えた。

それは、淡い幻想だった。

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