さすらいの松本さん
会計士は、通常、監査法人で経験を積み独立するというルートがある。その監査法人には、大手監査法人が4つあり、人によっては監査法人を渡り歩くさすらい(?)の会計士もいる。
松本さんもその一人である。私が勤務する監査法人に、半年前に中途入所した。以前は別の監査法人にいたらしい。普段は大人しく無口な人で、存在感は薄かった。時が経つうちになぜ彼がさすらっているか、分かってきた。
ある日のこと、松本さんがお客様の会社に時間になっても現れず、電話がかかってきた。
「あの~、車が田んぼに突っ込んでしまって・・・」
「えっ~!車って、使用許可もらってないよね?」
「は、はい。ちょっと寝坊して時間なかったんで、車の方が早いかと。」
「あかん。あかん。それにしてもケガとかないんか?」
「それは大丈夫です。でも、事故処理で今日は仕事に行けないと思います。」
「う~ん。仕方ないけど、車ならちゃんと許可とっといてよ。それに、自己管理はしっかりして。」
「はい・・・」
どう考えても、彼の家からは電車の方が早いはずなんだけどな。しかも道のりに田んぼってあったっけ???
極めつけの出来事は、その3ヶ月後にやってきた。
ある日のお昼過ぎ、客先から事務所に戻ると、いつもと違う雰囲気を感じ、執務室に入った。人だかりができて、し~んとした室内。奥の窓際の席に、赤ら顔の酔っぱらいが足をデスクの上にのせてデカイ態度でふんぞり返って周りに睨みを聞かせている。
なんと、松本さんだ!!
いつもの大人しい感じとは真逆の別人格を見ているようで、他の人は、厄介なものを見るように数メートル離れた場所から様子をうかがっていた。
「お前ら!黙ってりゃ、俺をコケに扱いやがって。何様のつもりだ!」
かなり酔っていらっしゃるようで、半ばヤクザのような口調で積年の恨みをぶちまけてい るようにみえた。
「おい!田子!いつもいつも事務局の女の子をいじめやがって、嬉しいか?楽しいか?散々俺にも指図しやがって、そんな口悪女だから嫁にも行けねぇ。ざあまぁみろ!」
勤続年数の長い田子さんは、周りの女性職員に当たりが強いことで有名だったが、その田子さんを見るとなんと泣いているではないか!あの田子さんが!信じられない光景だ。しかしきっと、女性職員の中には、「やった!松本よ、田子に言ってやれ!」と心で叫んでるいる人がいたに違いない。
意を決したように、若手の土井くんが前に出た。
「今は勤務時間だし、みんな仕事があるので、今日のところは・・・」
ややオドオドした感じで松本さんに進言したのだが、
「は~っ!うっせ~、チビめ!どっかの有名大学院出たとか知らねぇが、おめ~は黙っておしゃぶりでもくわえてろっ!」
後ろの方でクスクス笑う声が聞こえた。汗をかきながら、恥ずかしそうに土井くんはスゴスゴと引き下がった。
執務室と棚をはさんだ場所にある管理職のスペースでは、お偉方がヒソヒソと対応を話し合っているようだった。結局は、誰が松本さんに対峙するというババを引くかで押し付けあってる様子。
散々周りに悪態をついてたようで、誰も対処できないでいた。
そんな時、菅野さんが外回りから帰ってきた。
「どうしたの?」
と異様な状況を察して事務の平良さんに、今までの経緯を聞いた。事情を理解した菅野さんは、躊躇することなく松本さんのところにツカツカ進み、
「君がどんな事情があって、この監査法人にやってきたか、俺は知らない。だが、君は自分の不満を関係のない事務所の連中に八つ当たりしてるだけだ。君はできないことに対して努力をしたか?クライアントの立場に立って、考えたことはあるか?人として、自分の言動は正しいか考えたことはあるか?君次第でまだやり直せると俺は思う。こんなところで飲んだくれてる場合じゃないぞ。さぁ、顔洗ってこい!」
菅野さんは、松本さんの背中を押すように移動を促した。松本さんは、あんなに荒れてたのがウソのように大人しく、席を立ち執務室を出た。
「すっげー。」
「カッコいい~!」
「さすが!」
みんな一斉に拍手した。
この後、しばらくして松本さんはこの監査法人を去り、別の監査法人に転職したとの噂を聞いた。
あれから時が経ち、松本さんはどこの監査法人にいるのだろうかと時折思い出す。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます