平手打ち




「原稿はうまくいったの?」


 問い詰めるような声で大介は聞いてきた。


「見てたんだろ? いちいち掘り返さなくてもいいだろ」

「最初っから最後まで見てたよ。だから君の左頬が赤くても全く気にならない。でも,人の身体ってことを忘れてもらったら困るな。いろんなことに悪影響が出そうだから」


 へいへい,と左頬をさすりながら適当に相槌を返す。ひりひりと,熱を帯びて刺すような痛みがずっとする。常友の平手は首が吹っ飛ぶかと思うほど強烈だった。大晦日のお笑い番組でお約束のビンタを笑いながら見ていたが,視界が真っ白になって意識が飛びそうなるとはこういうことかと身をもて体験した。お笑い芸人は大変だ。


「つまらないことを考えている顔をしているけど,反省しているの? 自分が何をしたか分かっているの?」

「分かっているって,うるせえなあ」


 うるさいってなんだ,と大介は顔を真っ赤にした。悪いことをしたのは分かっている。でも,一部始終を見られていた恥ずかしさで穴があったら入りたいぐらいだし,現実逃避をするつもりで布団をかぶってもこうして人の顔を見ざるを得ない。現実も夢の中も辛すぎる! 踏みとどまったおれを褒めてくれるやつはいないのか? 正確には頬っぺたに走る電撃で身体の動きが止まっただけなのだが。それでもおれは,健全な男子なら当然な反応をしただけなのだから。



 常友の部屋で作戦会議をするのが恒例になりつつあったので,いつものようにジュースを飲みながらのんびりと過ごしていた。この時までおれは,本当に下心も何もなかった。そのことぐらいは大介も分かってくれてもいいのではないだろうか。

 ことが起きたのはその後だ。引きがねを引いたのは間違いなく常友だ。

 やたらと絡んでくる常友は,何かの拍子に突っかかってきた。おちゃらけのつもりだったのだろうが,勢い余って覆いかぶさるように倒れこんできた。

 それですぐに起き上がってくれたらよかったのだが,常友はいつまで経っても動かない。綺麗な瞳でじっとおれの目を見つめている。身体の重みが増してきたと思ったら,おれの胸板に常友の胸が当たった。しかも,あいつは結構女の身体をしているから,おれの男の部分はすぐに反応した。

 やばいかな,とは思ったけど,おれの反応を楽しんでいるみたいに「ちょっと~」とか楽しそうにしている。それで完全にスイッチが入ったおれは,今度は身体を反転させて立ち位置を入れ替えるようにして覆いかぶさった。「何してるの?」という常友の顔は,驚いているようではあったが拒絶というほどではなかった。おれはそのまま胸に手を置き,唇を重ねようとした。


 突如,雷が落ちたように衝撃が走った。そして,視界が真っ白になった。これまでいろんな屈強な男とやりあってきたが,今までのどんな相手にも勝る平手打ちを食らったのだ。




「分かってくれよ。おれだって健全な男の子なんだ。なあ,お前なら分かってくれるだろ? 見てたんだろうし」

「猿じゃないんだから,強い意志で理性を保ってよね」


 いつにも増して言い方がきつい。相当怒っている。この話をいつまでも続けていても許してくれそうにはないし,話題を変えることにした。


「そういえば,原稿だけど方向が定まってきたぞ。やっぱりあいつは使える」


 しまった,また常友に触れてしまったと後悔したが,大介もそれ以上は突っ込んでこなかった。まあ終わったことなんだ。過去は変えられない,未来を見ていこうぜ,と明るい表情で大介を見たが,あいつはまだ考え込んだような表情をしていた。





 それから現行のすり合わせをずいぶん熱心に行った。書いては直す作業を推敲というらしいが,おれは推敲に推敲を重ね,一日の最後には手の側面が真っ黒になっていた。


「ずいぶん頑張っているな。学校が良くなりそうだ」


 原稿は一応担任に出すことになっていた。めんどくさいけど必要な手続きなのだから仕方がない。誤字脱字を直すようにと返された紙を修正していると郷地先生がいつの間にか教室に入ってきていた。少し離れたところで声を掛け,うかつに原稿用紙を覗き込むようなことをしないのも好感が持てる。やっぱりこいつは,いいやつだ。


「ちょっとだけ残ってるだけだよ。見ろよこれ。中身については一切ないのに,漢字の間違いとか文法ばっかり修正してやがる。そんなのどうでもいいっての。でもこれ,飾られるんなら仕方ないないよな。小学校でも習う漢字を書けないやつに生徒会長を任せたくないだろうから」


 紙をぺらぺらと目の前でかざしながら言うと,郷地先生は穏やかに笑った。


「飾るわけではないよ。それは君が大切に持っておくものだ」

「じゃあなんでおれは漢字の間違いなんて直しているんだよ! 漢字ノートじゃないっての」


 地面にプリントを叩きつけるように投げた。もちろん,怒ってなどいない。無駄なことをさせられたと少し腹も立つが,郷地先生の前だとそんなことは些細なものだと感じられる。

 ひらひらと待ったプリントが郷地先生の足元に広がる。それをそっと持ち上げて,見てもいいか? と聞くようにプリントを軽く持ち上げた。おれは,浅くうなずいた。


「いい字だ。字は,心だからな。思いがよく伝わってくる」


 中身を吟味するでもなく,そっと撫でるようにプリントに目をやると,両手で返しに来た。表面だけを見ていたようなプリントを見る目は,薄い紙のずっとずっと奥深くを見ているようにも見えた。


「いよいよだな。楽しみにしてるよ」


 そういうと,出口の方に向かっていった。扉にはノックバットが立てかけられていた。わざわざ部活の前に教室に足を運んだのだと思うと,少しだけ胸が熱くなった。


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