宣戦布告
おはよう,と張りのある声で挨拶をしながら名簿を持った担任が教室に入ってきた。ぐっさんおはよう,と近くの生徒から声をかけられている。アディダスのジャージを骨盤の少しまで挙げて,ポロシャツは裾が出ないようにしっかりと入れてある。三十才を超えたぐらいの年頃でその着こなしはキモいと思うが,休日にジム通いで鍛えているのが服の上からでも分かる。その筋肉質な身体はうなぎのように太くて動きのある眉毛と岩のようにゴツッとした顔とマッチしている。悪ガキがやってきても動じそうになく,中学校にはぴったりなのだろう。
「お,大介! あえて嬉しいよ! 元気になったか?」
眉毛をうねうねさせながら,右手を上に上げて空気が揺れるほど大きな声を出した。鬱陶しい。教室に入ってきた瞬間から合わないと思ったのだが,その通りだった。体育会系で熱血、必要以上に干渉してきて距離の詰め方が下手くそ。だいたいこの手のやつは,各駅停車で様子を伺いながら近づくようなことは絶対にしない。快速急行で必要な手順を飛ばして自分ルールで目的に地に接近してくる。いや,始めから目的地など無く,思うがままに車輪を動かしているだけなのかも知れない。頭が弱いのだ。
ぐっさんと呼ばれている熱血教師の返事を無視していると,「おーい,大介大丈夫か?」と懲りもせず腕が飛ぶんじゃないかと思うくらい左右に振り回している。
あほだな,と心の内で嘲笑していると,周りの生徒がこらえるようにして笑い出した。隣同士で顔を合わせては机に突っ伏して笑う者、猿みたいに手と手を合わせて大きく音を鳴らして笑う者,中にはバツの悪そうな顔をして我関せずという女子もいた。
笑いのツボが全く分からない。馬の合わない奴らだと軽蔑すると同時に,どこかこの集団に対してもどかしい感じがした。この空気感は熱血教師に向けられた者ではなく,自分を包み込んでいるような気がしたのだ。湯を張ってからずいぶんと時間が経った風呂の温度のような不快感がまとわりつき,鋭利な刃物のきっさきを向けられているような不気味さが漂っていた。
いつのまに意識が戻ったのか,席に座っていたニョロが馬鹿にしたような声を出した。
「大スケベ大スケベってうるせえよぐっさん。恥ずかしくなって何も言えなくなってるじゃん。名前が大スケベで,名字が種をかけるって,神様も意地悪なことをしたよな。いや,大スケベのところの逝っちまった父ちゃんとゾンビみたいな母ちゃんのギャグ線が高かったんだな」
待ってましたとばかりに教室がドッと沸いた。熱血教師が制止するが,収まる気配はない。
おれをばかにして楽しんでいたのか。おれというか,大介か。
大介はいじめられている。いじめをする集団は,頭が弱くて心底楽しんでいるやつと,怖くてたまらない勇気のないやつのどちらかだ。楽しんでいるやつは問題ない。教えてやればすぐに分かるのだから。問題はブルブル震えていて,自分が標的にされないために声の大きなやつに従っている臆病者だ。こういうタイプは,またすぐに状況が変わると主人を変えて,媚びへつらうように流れに逆らわず流れの一部になる。その卑怯な生き方の繰り返しだ。
昔から筋の通らない,卑怯なやつが嫌いだった。弱いやつも嫌いだが,それをいじめるやつはもっと嫌いだ。頭に血が上るのを懸命に押さえる。教えてやらないといけない。馬鹿笑いしている勘違いした坊ちゃんに,どうやって分からせてやろうか考えを巡らせた。笑う者と傍観する者、様々な生徒がいたが,そのどれでもないものもいた。龍樹だけは注意深く,こちらを見つめていた。
教師の話す訳の分からない講義を辛抱強く聞いた。たまに教師が飛ばすつまらないギャグに猿のようなリアクションで笑うのを見ると虫唾が走った。教室に何人かかわいらしい女の子がいたが,そいつはそいつで大口を開けて馬鹿笑いしている。顔立ちが綺麗でも品のない女を見ると興ざめして仕方が無い。
なんとか一日をやり過ごすと,何もしていなかったにもかかわらず身体がぐったりとした。久しぶりに学校に登校したが,自分に取ってひとつも有益とも思えない時間に辛抱強く耐える時間は相当こたえる。それとも,この身体が貧弱すぎるせいだろうか。
とにかく帰って横になろうと思って記憶を頼りに道を歩いていると,不意に声をかけられた。
「なあ,お前誰だ?」
学生カバンを片手で持ち,肩甲骨に当てるようにして後ろに回している。これがヤンキーのいけてる格好とでも思っているのだろうか。
「誰って,赤さ・・・・・・,種掛だよ。お前と同じクラスの」
「とぼけるなよ」
感づかれたか。名前がスムーズに出てこなかったら違和感をもたれても仕方が無い。いや,それにしても,身体はそのままで人格が入れ替わるなど,アニメやドラマ以外で起こりうることだと信じるやつがいるだろうか。
龍樹は含み笑いでこちらを見ている。穏やかなように見えるが,その目の奥は笑っていない。こういうやつが一番危ないと経験則で学んでいた。こちらは手を出せない。距離をこれ以上詰めないように注意を払いながら,拳を軽く握った。
「何を勝手に深読みしているんだよ。もしかして,おれの人格だけが入れ替わっているとでも思っているのか?」
「・・・・・・そうなのか?」
しまった,と思ったときには遅かった。どうして自分からこんな支離滅裂なことを言ったのだろう。目を丸くしている様子を見れば,そんなこと思いも寄らなかったに違いない。まるでこちらが手札を相手に見せたようなものじゃないか。
「でも,それなら納得だな。人が短期間でこんなに変わるはず無い。脳に異常があったのかと思ったけど,どこかの誰かさんと入れ替わったんだな」
それで,と龍樹は一つ間を置いた。
「お前は誰なんだ? 目的は?」
「そんなことを聞かれても困る。おれはおれだ」
もうとぼけたところで仕方ないと思ったが,わずかでも希望があるならそれにすがりたかった。もちろん,その藁はすぐに断ち切られた。
「いやいや,今さらでしょ。おれらに対する態度も異常だったし。だいたい,あのくそがつくほど真面目なお前が授業中ノートを取らないなんて訳はないんだよ。今日のHRで配られたアンケートも,硬筆のお手本のような文字を書くお前が,まるでクレヨンしんちゃんみたいな字だったぜ」
そんな例えがあるか,とカバンを放り投げてやろうかと思ったが,そんなことをすると余計に自分が種掛大介ではない証明になってしまう。いや,今さらそんなことを気にしても仕方が無いか。
観念して,事実を打ち明けた。
「そうだよ。おれは赤坂仁。訳あって,この身体を借りている。お前もあんまり調子乗っていたら,あのチンアナゴみたいなニョロニョロしたやつみたいにぶっ飛ばすからな」
宣戦布告した。こっちは悪魔の契約により拳を上げるわけにはいかない。激昂したらどうしようかと頭によぎったが,この男が感情に身を任せて暴れ出すことはないという確信があった。本当に力を持っている男は,もっと賢くやる。二度と刃向かってこないように,恐怖を与えながら,決して自分では手を下さない。そんな匂いをこの男から感じ取っていた。
ふっと笑った。楽しくなりそうだな,と八重歯を覗かせて呟いた後、きびすを返していった。龍樹との間に季節外れの冷たい風が吹いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます