二章 第十八話「魔人と亜人」
デュランダル上層部への報告と、アルクロット山脈への出動許可は、万事順調に片が付いた。
提出した報告を朝一番に読み終えたグロリアは、すぐにキールマン総帥へこのことを伝達し、オーウェンは伝手を使って騎士団長ロベールへ状況を共有。
急ぎ、アルクロット山脈付近に駐在している王国騎士団に周辺の様子を確認してもらった結果、異常な量な魔素が当該地域を覆っていることが認められた。果てには、ソレイユ村に続く道には結界のようなものが敷かれていて、現地の騎士だけでは解決が難しいとのことであった。
ジェナの言っていた連絡障害もこれが関係しているとされ、王都から力のある人を派遣しての調査が必要だという結論に、デュランダル・王国騎士団双方が至った。
調査メンバーについては、エルキュールら四名のデュランダル特別捜査隊と、騎士団からも人員を派遣するということで合意。
直ちにアルクロット行きへの準備を行い、暦はセレの月・20日となった。
出立の日の明朝。この日の為に沸々と闘志を燃やしていたエルキュールは、酷く困惑した面持ちで立ち尽くしていた。ミクシリア北東区、王国騎士団本部にて。
捜査隊を代表し、騎士団の助っ人を迎えに来たエルキュールの前に現れたのは、制服に金属の胸当てを付けた少女であった。
あどけない顔立ち、桃色の髪、背中には白く小さな翼が生えている。
「……そげん見んとって。照れるばい」
一向にそうは見えない仕草でお道化られて、ようやくエルキュールも理解が追いついた。
「団長補佐のナタリアさん、でしたか。すみません……少し動揺してしまって」
「ぴしっとしてくださいね? 魔人ば倒すときに協力したっちゃろ、しっかり覚えといてくださいです、よかと?」
独特な訛りと所々崩れた敬語で責められる。容貌は可愛らしいが、やはり上に立つ者の風格も備わっていて。エルキュールは圧されるように頷いた。顔見知りとはいえ、ナタリアと顔を合わせたのは事件当時でもほんの一瞬だったのだが。それは言わない方がいいだろう。
ジェナ達とは王都の西門を出たあたりで落ち合う手筈になっている。ナタリアとも現地で集合しても良かったが、これから先の作戦でよく知りもしない相手と行動するのはエルキュールにとってあまり好ましくなかった。
故に、少しでも彼女と時間を共有するために図ったというわけだ。
「エルキュールしゃん、難しい顔しとるね。何考えてると?」
早速、並んで道を行くナタリアに話を振られる。悩んでいるつもりはなかったのだが。エルキュールは頬を抑えた。細い体躯のナタリアに歩調を合わせることは意識していたが、その程度で顔に出るほどエルキュールは感情豊かではない。
「きっとこの先のことを不安に思っていたのかもしれません。無意識のうちにですが」
「そうたいね。聖域ば調査しにくるって聞くと簡単に思えるっちゃけど、アルクロット山脈の魔素の量は異常ばい。だけん魔獣もたくさん倒さないと、です」
「魔獣との戦いに関しては特に心配していませんよ。侮っているのではなく、心強い仲間がいますから。ナタリアさんも含めて」
「あらら、そげん褒めて……まさかウチを口説いてると?」
突拍子もなくナタリア。慌ててその方を向く。身長差が凄まじいため、かなり見下ろす格好である。
「あと二十年早かったら分からんかったですね」
これは褒められているのだろうか。エルキュールは理解に苦しむ。そもそも口説いてもいなければ、そこまで褒めてもない。このように幼い見た目であっても、彼女があの騎士団長と婚姻を結んでいることは疾うに知っていったのだから。
話が妙な方向に進んでしまったことに戸惑うが、雑談というならばこのくらい俗っぽい方が好ましいのかもしれない。
朝靄のミクシリアを行く最中、幾らか打ち解けた空気に任せ、今度はエルキュールが口を開いた。
「そうだ。一つナタリアさんに聞いてみたいことがあったのですが」
「なんね?」
「この王都での暮らしは幸せですか」
一瞬、二人の息遣いが止まり、かつんと足音だけが通りに響いた。
些か直球で、簡素がすぎたか。面食らった表情のナタリアに補足する。
「亜人であるナタリアさんは、元々は王国の東にあるスパニオで暮らしていたはずですよね? 国を跨いでここへやって来て、不都合や、不幸があったのではないかと……」
言い終わらないうちに言葉が尻すぼみになっていく。思えばほとんど初対面の相手に対する話題ではなかったかもしれない。
取り繕うべきか逡巡するエルキュールに、ナタリアは一言。
「……ばり幸せばい」
確かに言い放った。力強く。
「もちろん最初は慣れない部分もあったです。変な目で見られたことも。ばってん、ウチはロベールや子供ば好いとうけん、一緒にいたか思ったのです」
共にいること。愛を注ぐこと。そのためには、見た目や文化、習性、あらゆる差異など関係ないという。
エルキュールの胸のコアがそっと疼く。
「大切だから、一緒に暮らせるこのミクシリアにいようと……。もしかして、騎士団を志したのは団長の影響だけでなく、自分の平穏を守るためでもあったりしませんか?」
それは結論ありき、というよりも、自分の理想を押し付けたような、幼稚な質問だとさえ思う。
しかしナタリアは少しも気を悪くした様子もなく、「その通りかもしれない」と楽しげに笑ってみせた。
よく知らないエルキュールが相手であっても、自らの深い部分を臆することなく伝えられる。ナタリアというのは強く、懐の広い女性だと、この短い間ながらに思い知らされた。
「……エルキュールしゃん。なしてそげん顔してると?」
「すみません。また暗い顔になっていましたか?」
「別に悲しそうじゃなかったばい。ただ、まるでウチがそう答えるのを期待しとったみたいやけん」
見透かされていた。どこまでも。エルキュールは思わず歩調を速めそうになった。
気まずさと、羨望。それから幾ばくかの劣等感。
そもそも魔人と亜人とでは、種が歩んできた道もヒトとの関係の歴史もまるで違う。同じにはなれない。分かっていたことだが、それでも憧れざるを得ない。
「……ヌールにも、ニースにも、今は騎士が駐在しているのですよね」
意図を探るように、ナタリアは数回、目を瞬いた。
「エルキュールしゃんの家族のこと、です?」
「はい。あのまま魔物に怯えながらでも、自分の罪に耐えながらでも、傍にいることが正しいことだったのかもしれないと……。一人で戦うことを選んだ身でありながら、改めてそう思ってしまって」
グレンや、ジェナ、ロレッタ。多くの人間に近づき、心を向けるほど。いつかあの時と同じ悲劇が起こるのではないかと、恐れが肥大していった。
そして進むことも停滞することも苦しいのなら、あの時ニースに駆けつけ彼女たちの元で暮らすことも一つの選択としてあったはず。
大事な調査が控えているというのに、エルキュールは実のところ、迷いを断ち切れないでいた。何度振り切っても、解けぬ心の縺れ。
勿論ここで全部を吐き出すことはできない。故に彼女がエルキュールの葛藤を完全に理解することもない。
分かっていてなお、エルキュールは愚痴を零していた。
ひょっとすれば、落ち着きのあって芯のあるナタリアに対し、血の繋がらない母親の影を見たのかもしれない。
そう思うと、今度は耐え難い羞恥の念に駆られてしまう。今さら話を切り替えようと話題を探すエルキュールにナタリアは朗笑する。
「あんたは思ったより弱か人げなね」
「……まったく、その通りかもしれません」
「ああ、いんや、悪か意味とは違うと。よか塩梅で、弱かというわけですたい」
「それはどういう……?」
「強すぎる意志は、時に身も心も崩らかすごとありますから。ロレッタしゃんば見とると分かるやろ?」
薄桃が差した翼をはためかせ、ナタリアが試すように問う。
確かに。あの非情の先で彼女が幸福である未来は、エルキュールにも想像しがたいものがあった。
復讐に身を焦がすことは、彼女にとって意義のあることのようだが、それでもあの鋭すぎる在り方にエルキュールは恐怖した。行きつくであろう孤独と死を予感して。
だからこそ、捜査隊に誘った。道を示したのだ。
「悩むのも、立ち止まるのもよかよ。ばってん自分で自分を追い詰めるごとだけはダメです。……選んだなら、自信持たないかんと。物ごとの価値ば決めるのは、後の行動次第やけん」
エルキュールは足を止めた。
つまり。望んでこの道を選んだわけではなかったから。心の底で迷いが生じるのを抑えきれなかったのだろう。そしてそれは、これからもそうだ。エルキュールは目的を果たす時まで悩み続けることになるのだろう。
だが、答えが定められていないということは。後からいくらでも評価を覆すことができるわけで。
エルキュールがこの先アマルティアを打ち果たし、家族の元に帰還することができれば。即ちそれは正しく。できぬのなら、即ちそれは正しくない。
葛藤も懊悩も自らを苦しめ、あるいは正当化するだけで、真にこの身を救ってはくれないのだ。
「ありがとうございます、ナタリアさん」
一歩先を行くハルピュイア。華奢な体躯が、大きく見えた。
思えば、彼女がくれた言葉はエルキュールの中にも既に根付いたものであった。『何をすべきなのが正解だとか、どうあるべきが正義だとか、誰にも定義できない』、かつてジェナに向けた言葉を反芻する。
それから息を一つ吐き、つまらない妄念を払う。
「……今はアルクロット山脈の調査に集中します。アマルティアに先手を打たれるのも御免ですから」
「ふふ、その通りたい! アートルムダールの悲劇ば繰り返したらいかんばい」
その琥珀の瞳には再び闘志が宿り。
日が昇り始めたミクシリアを二人はゆく。立ち込める朝靄はもう晴れていた。
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