二章 第十一話「アートルムダール」

 大陸南西に版図を広げるエスピリト霊国。それより更に南西に広がる果ての地に、アートルムダールと呼ばれる領域があった。

 黒曜石を切り出して建てられたという先史文明の遺跡群、異常な量の魔素が覆う彼の地には、古代よりこのような伝説があったという。

 遺跡の最深部には、闇精霊ベルムントの本体が、悠久の時を経てなお眠りについていると。


 ある放浪の旅人がいた。名はオリヘン。後に六霊教の前身を設立するに至った彼は、各地を巡る過程でその不思議な史跡と魔素の奔流を目の当たりにした。

 そして大いなる神殿には崇拝を、古くから蔓延る魔素には畏敬の念を抱いた。


 精霊の地に溢れ出る闇の魔素は、良くも悪くも他を魅了する。そのことを危険視したオリヘンは、魔法による結界を施し、ヒトと魔の世界を隔てた。それから古来の産物に限りない祈りを捧げたのだ。リーベの恒久的な安寧と繁栄のために。


 後の世において闇の封印と呼ばれる魔法結界は、まさしく六霊守護の走りであった。

 オリヘンは闇の封印の向こう側を聖域・アートルムダールと名付け、彼の死後も、その子孫――六霊教教皇の一族が結界を守り続けた。


 それから時は移ろい、六霊暦は1693年。

 闇の封印が消失するという異常が起こった。悠久を経て劣化したか、何者かに破られたか。原因が明かされることはなかったが、それまでただの一度も失われることのなかった壁が破られたという事実だけは確かだった。


 聖域内に潜む魔素に惹かれた外の魔物、内に生息していた魔物、その何れも、当時エスピリト領であったアートルムダールに結集した。

 堅牢な防壁も、大いなる力を有す魔法も、絶対的な数の暴力にはかなわない。一人、また一人と、エスピリトの戦士たちは斃れ、あるいは同朋を喰らう魔物と成った。

 アートルムダールの異常は瞬く間にヴェルトモンド全土に知られることになった。このままでは六霊教を司るエスピリトは滅亡し、大陸にヒトが足を踏む場はなくなるだろう。

 西のオルレーヌも、東のスパニオも、北のカヴォード帝国でさえも。増税し、自国の強者を束ね、援軍を送った。その時だけは国家間の諍いも何もかもを忘れ、ヒトは跋扈する魔を打ち果たそうと手を取り合った。


 戦況は阿鼻叫喚そのものであった。

 集結した戦士たちの数は大層なものだったが、対する魔物の勢力は果たしてその何倍、何十倍であったか。

 魔物の魔素が再び別の魔物を呼んでは、アートルムダールの魔力にあてられ、夥しい活性を引き起こした。

 各国の応援も小さくはなかったが、されど人間側の戦線は魔物に押され始めた。

 地に伏す兵。足をもがれた者に、臓を引き裂かれた者。勢力を増す魔物とは別に、錯乱状態に陥った人間の同士討ちも少なくなかった。そして汚染された人間も、あるいは意識だけはあった者でさえも、勝利のため、同朋に葬られてゆく。


 ひとえに希望がなかった。

 力を増す一方の魔物に。散っていく仲間に。

 敵は敵のまま、味方でさえ時には敵と成る。

 次第に意義を見失う。何のために戦い、この先に意味があるのか。命も、世界も、潰えるのみではないか。


 人々が絶望に呑まれつつあったとき、当時の六霊教教皇ルクレア・O・ゼクスターは決断した。

 自らも前線に赴くことを前提とした遊撃部隊の結成。高い機動力と攻撃力で以て一気に戦場を駆け抜け、アートルムダールの深部、闇の封印があった地へ向かうと。

 目的はもちろん、封印の再生であった。結界が破られているからこそ、魔物はヒトの園へ侵入し、跋扈する。

 ならば、二度と解けぬよう、結び直せば。士気の下がりつつある戦士たちの希望を再び燃やし、蔓延る魔物の勢力を抑制できるだろう。


 前線から離れた街から、少数の兵士を伴って、教皇ルクレアは出発した。なるべく接敵を避けつつ、迅速に。戦いに苦しむ仲間にも目を瞑った。体力の温存と目的の優先ゆえの残酷。

 真一文字に戦場を横切り、やがて一行はアートルムダールの深部に辿り着いた。そしてついに、消失した結界の修復に成功したのだった。教皇と、護衛の者ほとんどの命と引き換えに。


 結界の再生に伴い戦況の苛烈さは瞬く間に失せ、流れを掴んだ人間側がそのまま、この未曽有の大戦の勝者となった。

 のべ二か月。死傷者数および汚染者数、測定不能。されどそのような数字なぞ、この戦役が後に残した影響に比べれば些末なものであろう。


 多くの者は過去を闇で封じ、未来から目を背け、魔物のいない内なる世界に閉じこもるようになった。彼らは、すべてを忘れることを選んだのだ。


 それがアートルムダールの戦役と恐れられる厄災の顛末。アマルティアがヌールの街を襲撃する事件より、ほんの十五年むかしのことである。





「……あの戦いによって、おれは弟のカルヴィンを亡くした。当時おれなぞより剣に堪能であったあいつが、物言わぬ灰と成ってここへ帰ってきた。おれは怖気ついた。閉じこもり保身に奔りがちであった貴族連中を諫めるばかりか、進んでその一派となったのだ。その結果、愛する息子にすら見限られ、危うく失いかけたのだからほとほと笑えん」


 長い話を終えたヴォルフガングは、そんな自嘲で最後を締めくくった。

 エルキュールは微動だにせず机の一点を見つめ、アンドレアは二人を気遣ってか、紅茶を淹れるよう侍女に言付けた。


 汚れのない湖に泥を撒いたかのように、室内には重い空気がゆったりと拡散していた。

 エルキュールはどうにか捻りだして、ヴォルフガングの弟カルヴィンに対し、哀悼の言葉を述べた。短く礼を言うブラッドフォード夫妻。


「ですがこれは重要な手がかりです。闇の聖域にそのようないわくがあったとは。魔王ベルムントを求めるアマルティアに近づけました」


 古代の大精霊が眠るという伝説。結界の存在。それが失われたことで引き起こされた災厄。

 今まで得てきた断片に、次々と意味が加えられていく。


「……エルキュール。恐らく奴らはあの戦役を繰り返そうとしている。闇の封印は教皇が固く守っているゆえ、まずは周囲から崩す算段なのだろう」


「俺も同意見です。しかし人間の力を削いで、封印を解いたとしても、それで闇精霊への道が開けるとも思えない。きっとまだ、知るべきことがあるのでしょう」


 淹れてくれた茶を一息に飲み干して、エルキュールは立ち上がった。


「もう行くのか」


「申し訳ありません。急に訊ねてきたばかりだというのに」


「構わん。おまえもデュランダルに属する身だ。忙しなくなるのも致し方ないだろうよ」


 これからまた執務に戻るという夫妻と共に、客室を出て王広間と向かう。


「ああ、そう言えばブラッドフォード卿。一つだけ聞き忘れていたことがあるのですが」


 歩く間に、エルキュールは訊ねる。ヴォルフガングは顰め面で。


「……侯爵の位のことを思いださせるな。ヌール卿やマクダウェル卿があのような末路を辿り、王国議会ではかつての封建制度を復活させようとの動きがあるという。まったく、この期に及んで民を圧迫しようなど愚にもつかん連中だ」


 その辺りの知識には疎いが、苦労は察せられる。隣を歩くアンドレアに宥められるのを眺めながら、エルキュールは「ヴォルフガングさん」と問い直した。


「アートルムダールの戦役の最中に、ヒトに与した魔人がいたという話を聞いた事があるのですが。何か心当たりはありませんか?」


 デュランダルでは聞きそびれていたことを改めてぶつける。エルキュールを信用し、あの闇の歴史について語ってくれたヴォルフガングならば。

 ところが予想に反し、彼の表情は芳しくない。アンドレアも。


「すまん、おれには。だが、それこそデュランダルの連中ならば知っていることだろう。オーウェンも、他の幹部も、当時教皇と行動していたらしいからな」


「ああ、そういうことでしたか」


 エルキュールは得心した。そしてこの件については、やはり慎重にならざるを得ないのだと悟る。

 その魔人がいたというのが、話にあった教皇がアートルムダールの深部に向かった時のことだとしたら。

 教皇と多くの仲間を失ったのが事実だとすると、興味本位で訊ねていいことではないように思える。


 今はここで得られた手がかりを優先しようと心に決めたエルキュール。

 夫妻に挨拶を告げて別れ、最初の大広間に戻ると、マルコスが客人をもてなしているのが見えた。

 用もあるうえ、あまり積極的に人と関わり合いたくないエルキュールは、反射的に廊下の影に身を隠そうとしたが。


「あれは……」


 マルコスに対する二人組に、見覚えがあった。

 一人は先ほどから見慣れた赤髪に、丈夫そうな赤黒い旅装に身を包んだ青年。大きめの体躯と火花が散るような髪型が快活に映る。

 もう一人は明るい金髪に高級そうな白服を召した男だ。細い身体ではあるが、その鋭い目つきからは新雪のような凛々しさが感じられた。


 マルコスと会話していた男たちの視線が、ふと離れたところに立っていたエルキュールの方へ。


「おっ、いたいた。おい、エルキュール! なんでそんなとこでこそこそしてんだ? 久しぶりじゃねえか!」


「うぐ、ここで貴様に会うとはな。いつまでも避けられないとはいえ、あまりに突然ではないか……」


 片方は明朗に、片方は些かぎこちなく、エルキュールの方へ歩み寄ってくる。


「グレンと、ルイス……?」


 まったく予想外の再会に、エルキュールは目を丸くした。

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