幕間「魔人追悼」
オルレーヌ東端、スパニオ亜人連合王国との国境に跨がるゾルテリッジ大森林は、大陸でも最大の森林地帯として名を馳せながらも滅多に人が立ち入らない秘境でもあった。
二つの国家間にあるという土地柄も、
リーベが近寄らない反面、魔物の数は他に比べて些か多いものの。木々や川に含まれる潤沢な魔素は彼らにとっても居心地がいいのか、彼らが人家にまで火種を持ち込むことはほとんどなかった。
ゆえに森林への不可侵によって周辺の地域の平和はこんにちまで保たれていると言ってもいいが、一方でその怠惰なる静観は燻ぶる闇を肥大させることにもなったと愚かな人間は気付かないでいた。
「ザラーム様、ただいま戻りました」
大きく曲がりくねった樹木に腰掛け、仮面の内から降り注ぐ月光を浴びながら思索に耽っていた男は、弱々しく発せられたその声に視線を移した。
色違いの揃いの服に身を包んだ二人組の少女。
ダークピンクの方がフロン、ダークグリーンの方がアーウェ。いずれも仮面の男、ザラームの部下であった。
「傷を受けたようだな、フロン」
直球の問いかけに、二つに結われた同色の髪が揺れる。
魔人である彼女らはにとって受けた傷はすぐに治せるものだが、アーウェの肩を借りて沈んだ表情で俯くフロンは違った。
着込んでいたドレスの胸元は破け、赤い魔素質の光が漏れ出している。傷を治癒する魔素も、魔素質の光を制御する余裕もないのだろう。
送り出したはずの彼らがここにいないことも踏まえて、ザラームはフロンらに何が起こったのかを容易に察知できた。
「ごめん……なさい、ザラーム様。アランくんとディアマント様を助ける役目は……。で、でも、悪いのはアーウェだから……フロンちゃんは違うから……」
代わりに答えるアーウェの眼は許しを乞うように、罰に怯えるように揺れていたが。それでも声色だけは彼女の意思を力強く表していて。
ザラームは怯えて縮こまる彼女らの前にまで飛び降りると、その伸ばした両手で二人の頭を労わるようにそっと撫ぜた。
「任務の失敗はともかく、二人が無事に帰還したことは私も嬉しく思う」
「ザラーム様、怒らないの……?」
「なぜだ。失敗の原因はディアマントが逸った事と、それを止められなかった我々幹部と、そしてあの魔人について見誤ったことにある」
あの魔人。ザラームの言葉にそれまで項垂れていたフロンの頭が勢いよく上がる。その表情はこの上ない怒色を帯びていた。
「そうだよ……全部あいつのせいだ! フロンたちはザラーム様に免じて優しくしてあげたのに! そうとも知らずに歯向かってきてさ……もうあいつが魔人だって言ってやる! そうすればアランが守ってくれたことも……!」
魔人であるフロンは涙を流さない。だがたとえそうであったとしても、今目の前に曝け出された憤怒は紛うことなき本物だった。
それに幾ばくかの共感を覚えなくもないが、生憎と彼の動向については注意しておかなければならなかった。
魔人でありながら敵対する彼の扱いは難しいが、いたずらに刺激して行方を眩まされてはかなわない。
そうであるくらいなら、リスクを取ってでも彼には表の世界にいてくれた方が都合がいいのだ。
ザラームは言葉を選んで穏やかに諭すが、フロンは愚かアーウェすらもこれには首を縦に振らなかった。
「あ、あの……ザラーム様は、どうして彼を仲間に入れようとしたんですか……? どうして今でも彼を、こ、殺そうとしないんですか……!?」
彼女にしては思いのほか強いアーウェの口調に、ザラームは柄にもなく口ごもる。
件の彼について、ザラームは他の者に詳細を教えていなかった。
それは単に秘密を保持するものが少なければ少ないほど、その秘密が漏れる可能性というのは小さくなるという至極単純な理論によるものだったけれど。
「それは――」
それをここであけすけに語るのは、ザラームにとって望ましくはなかった。咄嗟に話題をすり替えるようと口を開きかけるが、その言葉の続きが語られることはなかった。
新たな影が、三つ。ザラームらの方へ近づいていたのだ。
一つは裾が広がったワンピースドレスをめかし込んだ貴婦人。優雅に歩み寄るたびに彼女の長い翡翠色の髪が空に踊っていた。
あとの二つは全身を白い装束に身を包む、怪しげな影だった。
その容貌を窺うことはできないが、敢えて述べるなら小柄な方と長身の方の対比が目立つくらいで、印象といった印象をまるでないようだった。
影法師か、はたまた夜の森林に住まう霊か、とにもかくにも神秘的な様相を呈していたのだ。
と、どれも異様さを漂わせる三者だが、ザラームは一歩前へ踏み出すと仰々しく両の手を広げて彼らを迎え入れた。
「ご足労いただき感謝しよう。貴様たちのことだ、少しの遅れならば目を瞑ってやろうと思っていたが。なるほどいらぬ心積もりだったようだ」
「相変わらず偉そうですわね。ワタクシが仲間に引き入れた同朋がたも、今回でほとんど亡くしてしまったのでしょう?」
「……ごめんなさい、ミル姉」
「貴女たちを責めているわけではありませんのよ。むしろ労わさせてくださいな」
貴婦人風の魔人ミルドレッドは、未だ傷の癒えないフロンたちに寄り添い、屈んで視線を合わせて笑いかけた。
その姿はまるで姉と妹の関係のようで、見る者にとっては心温まるものにも見えるだろうが。後ろに控える二つの影にとっては少々事情が異なるようだった。
白に身を包む彼らの小型の方が、やけに鼻にかかったような話しぶりでその様子を嘲笑った。
「ミルドレッド、あんたさあ……それはないんじゃないの? いくらその子たちが可愛くたって、そいつらのオトモダチやディアマントが死んだのはあんたにも責任があるでしょ」
「……それはどういう意味ですの、マリグノ?」
「だってあんた、あの噂の魔人と戦ったくせに、おめおめ逃げ帰ってきたじゃん。あの時どうにかしていれば、今回の件はなかった。違う?」
小柄な人影、マリグノがミルドレッドに詰め寄る。
しかしその隠された口元は愉悦に歪められており、この問いの目的が決して良心からくる叱責ではないことを如実に表していた。
向き直るミルドレッドの眼にも、確かな苛立ちが芽生えた。
「貴女、本当に他人を攻撃するのがお好きなのね。弱々しい力のわりに態度だけが大きくて嫌だわ」
「まあボクが非力なのは認めるけどさ。それでも与えられたシゴトはちゃんとこなしてるんだけどなぁ。あんたも
瞬間、烈風が辺りに吹き荒れたかと思うと、マリグノの華奢な体がミルドレッドによって木に押さえつけられていた。
風の魔素で形作られた刃を構えるミルドレッドの表情には
「はいはい、そこまでですよお二人とも。今日集まった理由は忘れないでください」
このまま戦闘に突入してしまうかに思えるほどの緊迫感の中、気の抜けるような柔らかい声が場を包み込んだ。
先ほど現れた白い人影のもう片方、水辺に生える
「幹部同士がそのようにいがみ合っているから、フロンさんたちも怯えてしまっていますよ? まったく、どうして我ら幹部の女性陣はなんとも浅はかで思慮の足りない愚か者ばかりなのでしょうか。ああ、その
わざとらしく身体を捻って高らかに叫ぶその姿に、殺伐とした雰囲気も白けたようで、ミルドレッドは押さえつけていたマリグノを乱暴な手つきで解放した。
「……ひひひっ。
「あっそ。というかあんたもバカなのは大概だけどね、キリオス」
「おやおや、哀れな二人が揃いも揃って……なんと甘く、不遜な言葉か!」
なにが
常軌を逸した感情の起伏。しかしそれは彼にとっては正常なことなのか、その誰もそれ以上言及することはなく、やがて彼らの視線はある一点に向けられた。
黙して成り行きを見守っていた仮面の男に。
「……本題に移ろう。今回計画したヌール及びミクシリアの襲撃だが、前者は上手く事を進められた反面、後者では苦渋を飲まされることとなった。結果として多くの同胞が、構成員アランが、幹部であるディアマントが命を散らしてしまった。これは我々にとって手を止めてでも悼むべきことだろう」
ザラームの言葉一つ一つには確かな哀悼が込められており、昂っていた周りの者も水を打ったように静まり返っている。
暫くの
「しかし、歩みを止める訳にはいかない。同朋は人によって討たれ、あるいは精霊の罠にかかり摩耗を受けたのだ。世界に反旗を翻し、魔王をこの世に降臨させるまで、我々は戦いを終えるわけにはいかない」
「ですがザラームさん。これより先はどのように動きべきでしょうか。ミルドレッドさんが掻き集めてくれた人員も削れ、ディアマントさんも先に旅立ってしまわれた」
「だよね。あいつはボクたちの中でも最弱だ、とか負け惜しみを言いたいところだけど。実際は精霊の遺物を手にしたあいつほどの使い手なんかいないよ。さてさて、そんな有力な矛を失ったボクらの野望は、このままぜんぶダメになっちゃうのかなー?」
キリオスは真摯に、マリグノは挑発的に、それぞれ事態の深刻さを説いてくる。
されどザラームの口から余裕の色が消え失せることはなかった。
「無論、失ったものはかけがえのないばかりだ。だが過度に恐れる必要はない。マリグノはスパニオ方面を、キリオスはカヴォード方面を。ミルドレッドは引き続き新たなイブリスを引き入れてくれれば問題なく、ディアマントの管轄であるここオルレーヌの担当は私が引き継げば事足りる」
滔々と語るザラーム。言葉の流れは軽妙で、少しの不安も感じさせない超然たる態度だった。
だが、それは些か、言うなれば余裕を見せすぎていたのだろう。
幹部共は顔を見あわせ、それからマリグノが代表として口を開いた。
「……ボクたちは今まで敢えて聞いてこなかったわけだけどさあ。いい加減仮面の奥に本音を隠してないで教えてくれない? あんたがフロンたちに言いかけていた、あの魔人についてさ」
その言葉を機に、場には重い沈黙が満たされることになった。
木々の葉が擦れる音、風が森を駆ける音、遠くの川が流れる音が、事細かに鮮明に一片の欠けもなく聞こえてくるようだった。
そしてその混濁とした雑音すら聞こえなくなるほど、気の遠くなるような長い時間が過ぎた後。
「……ククク、ハハハハハ……!」
空気が割れてしまわんばかりのザラームの哄笑が、ゾルテリッジの森にこだました。
「なにがおかしいわけ?」
「ハハハ……すまない。貴様たちが私の目を盗んで聞き耳を立てていたことを想像すると、それが実に滑稽なことだと思えてな」
肩を揺する仮面魔人は朗々と返すが、それは他の者の
同朋の心象が悪くなりつつある現状に、ザラームはもう一言「すまない」と付け加えてから語りだした。
「そう睨まずとも貴様たちの疑問には答えよう。今までは、そう……単に確かめる機会がなかっただけだ。十年前突如として人の世に現れた、エルキュール・ラングレーという謎多き魔人の存在についてな」
仰々しい語り口のザラームは、他の幹部に背を向けるように一歩、また一歩と踏みしめるように歩を進める。
「順を追って話そう。全ての始まりは十五年前のあの日だ。闇の聖域アートルムダールで起こった人魔入り乱れる未曽有の戦、アートルムダールの戦役のこと。ひしめく人の波の中に、それはいたという」
月を背に振り返り、ザラームは声を潜めて告げた。
「聖性すら感じさせる灰色の髪に、全てを見透かすような琥珀の瞳。作り物と見紛う美麗な容貌の一切を鮮血で濡らし、狂乱の戦場を駆けた、
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