一章 第四話「一難去ってまた一難」
グレンが目を覚ましたのは翌日の早朝のことだった。
昨日からほぼ丸一日もの時間熟睡したグレンは大層機嫌がいいようで、ベッドから起き上がるとすぐに足を曲げたり手を回したり、身体を曲げたり跳ねたりして、発祥不明のよく分からない体操に精を出していた。
「ふぃ~……って、どうしたエルキュール、そんな冷たい顔してよ」
仕上げの深呼吸まで丁寧に終えると、グレンはそれまで仏頂面でベッドに腰かけていたエルキュールを見やる。その額には汗が滲んでおり、それが光に照らされ煌めいているものだから、彼の彫りが深く精悍な顔つきと相まって絵画のような芸術性をもたらしていた。
「――実に見事な動きだと思っていた」
「『何て馬鹿な動きをしているんだろう』って思ってたってかぁ!なあ!」
物に当たらないよう広い空間で体操をしていたグレンは、大股でエルキュールの前に歩み寄ると腰に手を当て大声で怒鳴った。
謂れのない怒りに首をかしげるエルキュールに、「顔が物語ってるんだよ!」と彼の顔の目の前に指さしながらグレンは続ける。
「いいか、朝の運動っていうのは人間のその日の代謝を向上させる上に体操ってのは普段使わない筋肉を使うことからより効果的に――」
「それは分かっているさ」
グレンの妙な壺を刺激してしまったことを後悔しながらエルキュールは両手で制止する。
「それより、昨日した約束のことを覚えているか? 王都を目指す前に、まずは騎士団の詰所へ顔を出そう」
建設的に話を進めるべく、人差し指を立てゆっくりと提案する。その重みのある声にグレンも矛先を収め、手拭いで額の汗を拭きながら応じる。
「ああ、ここの騎士には既に連絡がいっているのかもしれねえが、情報を共有するのは大事だからな。それが済んだらいよいよ王都か――」
どこか遠い目をして呟くグレンをエルキュールは疑問に思った。何かを懐かしんでいる、そんな風に見て取れた。
よほど表情に出ていたのか、グレンはエルキュールの視線に気づくと苦笑し頭を掻いた。
「――王都にはアマルティアの仲間が潜んでいるかもしれねえからな、気は引けないだろ」
アマルティアという単語にエルキュールの顔つきも硬くなる。
「ああ、あの演説が各都市に向けられたものだと仮定するならば」
ヌール事件の当日、その幹部と自称するザラームがオルレーヌ全土に向けて宣戦布告を行った。その宣告は魔動鏡の通信を乗っ取ることでなされたのだが、それはヌールの魔動鏡だけでは構造上不可能だったのだ。
オルレーヌ各都市の魔動鏡は受信が主な目的であり、映像を送信できたとしてもせいぜい一箇所か二箇所が限界である。それを唯一可能にするのが、ミクシリアにある魔動鏡だった。
オルレーヌ民にお馴染みのオルレーヌ放送も王都の魔動鏡から全国へ発信されている。ただ、魔動機械のような複雑な機構は優れた魔法技師にしか扱えないはずであり、それほど重要な機能を持つものは当然のことながら十分な警備が敷かれているはずだ。
それを外部のものが簡単に操作できるとは考えにくいが――
「疑問があるなら尚更行かねえとな」
顎に手を当て思案を巡らせていたエルキュールはグレンのその言葉に頷いた。
敵を打破するためには敵を知らなくてはならない。そのために全力を尽くさなければならないのだ。
ぐっと拳に力を込め、エルキュールは立ち上がる。
「ああ、行こう――」
「行こうぜ、食堂へ飯を食いに!」
エルキュールに呼応するように拳を頭上に突き上げたグレンの声が威勢よく響き渡った。
◇◆◇
「さーてと、確か宿のおっさんの話によればこの辺りのはずなんだが――」
それまで先頭を行っていたグレンが急に立ち止まって辺りを見回した。彼のすぐ後ろにいたエルキュールはすんでのところで衝突を回避し、恨めしげに彼に一瞥を投げたかったのをぐっと堪えると、一応彼に倣うように辺りを探った。
あれから身支度を整えた二人は、昨日の約束の通り早急に騎士団の詰所へと向かう――はずだったのだが、グレンの提案によりまずは食事をとることになった。
食事をとるという行為が脳内から抜け落ちていたエルキュールは多少面食らったものの、それを悟られぬよう努めて冷静に提案に応じたのだった。
リーベに溶け込むことができるよう食事紛いの行いは習得していたので、食堂へ行くこと自体に問題はなかったのだが――
「……なあ、もしかしてまだ気にしてるのか? アレは悪かったって!」
いつの間にかこちらを振り返っていたグレンが、外に出てからずっと沈黙を貫いていたエルキュールに遠慮がちに切り出してきた。
「……気勢を削がれ、無一文に食事を奢らされた挙句、果てには周囲の人間による憐憫の視線に晒されただけだ。別に大したことはない」
――そう、問題といえばグレンが全くガレを持っていなかったことだった。彼と出会った際、宿代に困っていたことを失念していた。
昨日の宿泊料金のみ、ヌールから来たという境遇から免除されたのが、その厚意が不覚にも金銭に対する意識を鈍らせた。
注文を終えて会計を済ます直前になってようやくそのことに気が付いたグレンの慌てぶりは、周囲の目には大層おかしく映ったことだろう。
幸いにして、エルキュールが家族と別れる直前に分けてもらっていたガレがあったため、支払いを済ませることが出来たのだが。
苦い記憶が脳内に蘇り、エルキュールは堪らずこめかみを抑えた。その仕草にすらグレンは露骨に反応し、ついにはエルキュールに向かって勢いよく頭を下げた。
「大したことあるよな!? ホントに悪かったと思ってる! この通りだ!」
普段の飄々とした態度の欠片もないその様子から、十分に謝意は伝わってくる。
しかしこうしてグレンが声を大きくして謝罪するものだから、魔動鏡広場という人通りの多い現在地も相まって余計に人目を引いてしまっていた。
目立つことを良しとしないエルキュールにとっては芳しくない状況だった。すぐにグレンを宥めると、その愚行を制止した。
「別にそのことは本当に気にしていない。君がガレを持ってないのは俺も知っていたことだ、俺の責任でもある。ただ――」
「……?」
曖昧に濁すエルキュールに、体勢を直したグレンは怪訝そうに視線を向けた。
先ほどの言葉の通り、奢らされたことや悪目立ちしたことについてはエルキュールにも非があるため特段気にしてはいない。
しかし、会計の際に使ったガレは、あの事件当日の朝に鑑定屋で換金したものだったのである。
その事実が、どうしようもなく不快だった。
とはいえ、そのことを懇切丁寧に説明するわけにもいかないので、出かけた言葉は懸命に飲み込むほかなかった。
「……ただ、あの件でガレが尽きてしまったのはよくないな。どこかで稼ぎにいかなければ」
「うげ、そいつはまずいな……」
エルキュールが平静であるのを確認して、グレンは胸を撫で下ろしつつも物憂げな顔で応じた。
金の問題は依然として残るが、それは追々解決していけばよい。そのように結論付けてエルキュールは歩みを再開しようとしたが――
「いや、待ってくれ、重要なことを忘れていた。今もそうだが、どうしてさっきから急に立ち止まるんだ? 宿の支配人から聞いた話では、この広場を北に進めば詰所のはずだ。まさか、忘れたわけではないだろう?」
エルキュールの指摘通り、グレンは先ほどからしばしば足を止めてこのように辺りを観察するように見回していたのだ。
確かに現在のアルトニーの街は、ヌールからの難民を受け入れ始めていることから人通りも多く、その誰もが慌ただしい様子であるため気がかりなのは同意できる。
しかし、それを考慮してもグレンの様子はどこか不審だった。
先ほどの事から、てっきりエルキュールに謝罪する機会を窺っていたのかというのも考えたが、あのグレンがそんな回りくどいやり方を好むとも思えない。
それに加えて支配人に話を聞いたのはつい数分前のこと。グレンの記憶力に問題があるというなら話は別だが、一般的にはこの短時間で道を忘れるとは流石に考えにくかった。
「……いや? オレとしたことが、ついうっかり忘れていたぜ」
エルキュールの手数をかけた推測とは裏腹に、返ってきたのはあまりに拍子抜けする解答だった。
思わず肩を落としかけたエルキュールだったが、ふとグレンの態度に違和感を覚えた。
「ここを北だったか……? おら、とっとと行くぞー」
惚けるようでいて、少し冷めた口調。グレンのその態度には覚えがある。出会って間もない頃の軽薄な態度に近しいものだった。
こういう時のグレンは決まって何かを隠そうとしているというのは、ここまでの短い旅の中でも容易に知れたことだった。
その真意を知りたいと思わなくもないが、踵を返して先を行くグレンをこれ以上呼び止めるつもりなどなかった。彼はエルキュールの事情に深くは入ってこない。彼のそんな部分にはエルキュールも少なからず感謝しているのだ。
「ああ、急ぐとしよう」
この距離感を誤ってはいけないと心に決めて、エルキュールは小走りで先を行くグレンの横に並んだ。
宿の支配人の言葉はやはり正しく、そう時間が経たないうちに周辺の家屋に比べて一回り大きい建物が視界に入ってきた。見るからに頑丈なその二階建ての石造りは、騎士団の詰所に間違いないようだった。 もちろんヌールにもこういった詰所は存在するが、かつてのエルキュールは騎士の目を嫌って迂闊に近づくことはなかったため中に入ったりしたことはなかった。
「……大丈夫だ」
扉を前にして、エルキュールは自身の胸に手を当てながら静かに呟いた。丁度そこはコアの位置であるのだが、それを囲うように蔓延る魔素質の痣と同じく、今は全く魔素が感じられなかった。
うまく抑え込めているのを確認したエルキュールは、気持ちを落ち着けていざ中に入ろうとしたが、共にいたグレンが未だに離れたところで突っ立っているのに気づく。
「……どうかしたか?」
「……! ああ、悪い……」
呆けていたのか、考えに没頭していたのか、エルキュールの声にはっとして我に返ると、そのままエルキュールを追い抜いて扉をくぐった。相変わらず不穏な様子が垣間見えるが、エルキュールは何も言わず彼の後に続いた。
先日の門番の騎士の言葉のとおり訪ねてみたはいいものの、騎士と関りを持って注目されることとは別に、エルキュールには一つ気がかりなことがあった。
ここを訪ねてほしいというのは言わば一介の騎士のその場の申し出に過ぎず、いつどこで誰に会えばいいのかという決めごとが一切不明だったのだ。
あの場できちんと確認しておけばよかったのだが、何せあの時のエルキュールには心理的余裕がなかったのでそれも叶わなかった。
とにかく、ここから先の手順やら勝手やらが分からず、それで問題が生じることを危惧していたのだ。
――この瞬間までは。
「そ、そんな! で、では、今の状況では人員は割けないというのですか!?」
二人を出迎えたのは来訪の要件を尋ねる言葉でもなければ、ましてや歓迎の言葉でもなかった。
それは悲鳴にも近い叫びだった。声の主は三十代半ばだと思われる壮齢の男。男はここに詰めいているのであろう騎士の一人に対して、何やら不平を鳴らしているようだった。傍らには同じ程度の年齢である女性と、まだ年端も行かない少女が不安そうに控えている。
「ええ、ですから何度も申し上げているように。今はヌール事件による難民を受け入れているためあらゆる資源に余裕がないんです……それにあなた方は気が動転されているようだ、落ち着いてからもう一度確認なされては――」
騎士の方は冷静に対応しているが、男の方の態度は一向に軟化することはない様子だ。
尋常ではない様子にエルキュールとグレンは思わず目を見合わせる。見たところこの場にはあの男たち以外一般人はいないようだが、周囲の騎士たちは見た限りそれぞれの業務に追われているようだった。
こちらに顔を向けていたグレンは困ったように両手をあげると、しぶしぶ両者の中に割って入っていった。
「あー、ちょっといいか? これは一体何の騒ぎだよ?」
「ん? どうしたんだ君は、今は――」
「まあまあ、どうやら急を要するみてえじゃねえか。なあ、そこの旦那、オレたちなら聞いてやれるかもしれねえぜ?」
そういってグレンは懐から黄金の記章を取り出した。オルレーヌで魔法士を名乗ることを認められたものにのみ与えられる証である。
「そ、それは……彼女と同じ……」
グレンが魔法士であることを悟ると男は幾ばくか気が静まったようで、額に滲んだ脂汗を拭い彼に向き直った。
「魔法士さん……どうかお願いです。私たちにお力添えいただけないでしょうか!? このままでは息子が……カイルが魔獣に殺されてしまうかもしれないのです……!」
「……!」
グレンに頭を下げて懇願する男の悲痛なその言葉は、エルキュールの顔面を凍り付かせるには十分過ぎるものだった。
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