序章 第十一話「何ものにも代えがたかった日常」

 ――時は少し遡り、鑑定屋にて。


 ヌールの外れにある鑑定屋では、店主のアランが帳簿に筆を走らせる音が微かに響いていた。


「よぉーし、今日はこんなもんかね」


 事務作業が一段落し、客がいなくなった店内でアランは大きく伸びをした。窓の外を見れば、空が赤く染まっている。もう店じまいの時間であった。


「来週には納品の手続きをしないとな……」


 主として、魔法士などから渡される魔獣の素材を鑑定するのが鑑定屋の仕事だが、それを買い取って別の業者と取引するというのもアランは生業としていた。


 あの迷惑なマクダウェル家の男も欲していたが、魔獣の素材は希少性が高く、貴族たちが如何にも好みそうな調度品や装飾品に加工されることが多い。


 魔獣が強大になった昨今においても、その需要は高まりつつある。


「……ちっ、世界が魔物に怯えているというのに、いい気な奴らだぜ」


 朝にも感じた貴族への不快感を噛み殺し、アランは勢いよく立ち上がる。


 そのまま恒例の店内の点検の作業に入る。カウンター、奥の倉庫と続き、各棚も念入りにチェックする。


 魔獣の素材を少量ながら取り入れたアラン特製の雑貨は、開店前と大差ない数がそのまま棚に鎮座していた。思わずアランの口から溜息が出る。


「こっちは全然売れてねえし……ったく、今日はいい事ねえな」


 髪を乱暴に掻きながら点検を終えたアランは、店内に備えつけられた魔動照明のスイッチを切る。


 今日はセレの月・三日――休日であるにもかかわらず、客の訪れはあまりよくはなかった。鑑定屋という職業がもともと世知辛いものであるのもそうだが、明日からニースで行われる大市も関係しているのだろう。


 雑貨自体に問題があるとは考えず、尤もらしい理由を捻出したアランは、帰宅の用意を整え屋外に出る。施錠がしっかりなされたことを確認し、ようやく帰路についた。


「いや、よくよく考えれば悪いことばっかじゃなかったか」


 春の温かな陽気が残る黄昏時のヌールを歩きながら、アランは独りごちる。


 脳裏に浮かぶのは、今朝来店したエルキュールとその家族であるラングレー家の二人のことだ。

 娘であるアヤとは初対面であったが、リゼットはたまに来店してくれるいい客であったし、エルキュールに関しては、定期的に魔獣の素材を持ち寄ってくれるお得意様であった。


 その両者に繋がりがあると分かった時も心底驚いたが、いつも無口だったあの青年も家族に対してはあんな表情ができたのか、と意外に感じたのだ。


 お得意様とはいえ、エルキュールの冷淡な態度は苦手としていたアランだったが、今日に限ってはそんな印象は微塵も感じなかった。


「旦那の働きはウチの店にとっても生命線だからな……大事にしねえとな」


 まだまだアランの鑑定屋は規模が小さく人気もない。今ある優良顧客を大事にしていき、行く行くは莫大な富を得て大物になる。


 今日の出来事は、諦めかけていたその夢に再び情熱の炎を灯してくれたように思えた。


「よし! 明日から気合を入れて――」



 己に喝を入れようとした瞬間、急に世界が明るく照らされたと錯覚するほど眩い光がアランを包み込んだ。いきなりの事で息が止まり、反射的に目を瞑る。


 まるで役割を終えつつあった太陽が、その意思に反して何らかの力で空に引き戻されたかのような突発的な光だ。


 それに続き、信じられない音量の爆音が辺りに響き渡り、アランの気力に満ち溢れていた言葉を、穏やかな春の静けさを、全て掻き消していった。


「は……?」


 その音に弾かれるように前を見ると、遠くの方は煌々と赤く光っており、その上空には黒い煙がいくつも舞い上がっているのが見えた。


 ――爆発、だった。それ以上の感想は浮かんでこない。感覚が麻痺しているのだろうか。


 ともかく、何の脈絡もなく目の前に現れた刺激的な光景は、それまでの呑気なアランの思考を停止させるには十分すぎるものであった。


「あ……ああ……」


 身体に力が入らなくなりその場に膝をつく。脳が目の前の光景を否定しているのだろうか、視界は酷く歪み、心臓はかつてないほど脈を打っている。


「うあああぁぁ!! 魔獣だ、魔獣が攻めてきたぞーー!!」


 地面に情けなくへばりついていたアランの耳に、誰かの怒号が届いた。それから煩わしい量の足音も聞こえる。


「……魔獣、だと……?」


 弱々しく起き上がると、何とか気力を振り絞って今一度状況を確認する。


 先ほど爆発したと思しき方向から、人が雪崩のように押し寄せ幾人かはこちらの道に駆けてきた。

 さらに、その先の視線を向けると四足歩行の黒い影が後を追うように迫ってきていた。


 何の影か。先刻の怒号と照らし合わせるなら、十中八九魔獣だろう。


 それを認識した途端、アランは踵を返して力の限り走り出した。


「はあ……はあ……何なんだよ、これは!!」


 その問いに答えることができる者はいるはずもなく、アランの声は虚しく狂乱の渦にのまれた。


 どこへ行けばいいのか、騎士はこの事態に何をしているのか、疑問を抱かずにはいられないが、懸命に走り続ける。


 気づけば街の外に出るための門が眼前に聳え立っていた。

 ここまで来たら、一か八か隣町に移動するしかない。この先のニースならば大市の関係で警備も盤石だろう。


 足音を聞く限り、アランの後ろに幾人かこちらに向かっている人間がいるようだ。


「よし、このまま行けば――」


「あららー? お兄さんたち、ダメだよー。ここは通行止めなんだからー」


 門から外に出ようとしたアランたちに声がかけられる。それと同時に影が門の上から舞い降りてきた。



「な、なんだ……!? 人……なのか?」


「つ、通行止めって……?」


 突然姿を表した人影に、人々は一様に戸惑う。

 アランも呆気に取られて暫し立ち尽くしていたが、その人物がゆっくりとこちらに向かってくる姿を見てその表情が凍りつく。


 声の質から考えると、その人影は女性だと思われる。断定できなかったのは、その人物の服装が関係していた。


 全身を白いローブに包み込み、素顔を窺い知ることができないのだ。


 ただひとつ確かなのは、その出で立ちはどう考えても尋常ではない。先ほど高所から飛び降りた動きを取ってみても、ただ者ではないことが分かる。


「お前は何者だ! そこをどけ!」


「おい――」


 アランの背後にいた一人の男が、女性の言葉を無視してその横を走り抜けようとする。

 今は緊急事態であり、ローブの女性も素性が知れない、彼女の言うことを素直に聞く理由などないが、アランは本能的に嫌な予感に駆られ走り出した男を止めようとしたが――


「ほいっと」


 男がローブの女性の横を通り過ぎる直前、急に重力の方向が捻じれたように、男の身体が横の家屋の壁に勢いよく叩きつけられた。


 気の抜けるような掛け声と、ついさっきまで男の身体が存在していた場所にあった、伸びきったローブの女性の右腕。そこまでして、ようやく男は女性に殴られたのだとアランは理解した。それほどまでに女性の動きは機敏だった。


「ぐ、ぐふっ……」


 殴られた男はめり込んだ壁に磔にされながら、惨めに血を吐いた。


 突然の暴力にどこからか悲鳴が上がる。アランだってそうしたかった。爆発といい、今の状況といい、気が狂いそうだ。


 無闇に声を上げて目をつけられてはいよいよまずい。


 恐ろしさで歯が鳴るのを噛み殺し、奇跡のようなものが起こってこの悪夢から解放させてくれと願うばかりであった。


「あっちゃー……ごめんねえ、痛かったよねー?」


 幸か不幸か恐怖に震える人々には反応せず、女性は自分で殴った男を自分で心配し、そのローブの頭巾を取り払いながら彼に近づいた。


 二つに結われたダークピンクの髪は、さながら気品ある薔薇のように美しく、その横顔にはあどけなさが残り、「女性」というより「女の子」と形容した方が相応しい。


「んふふ、でも大丈夫だよ! フロンはいい子だから、無駄な殺しはしないんだ。すぐに治してあげるからねー?」


 もはや気を失っているその男が殴られた腹部を優しく撫でながら、ローブの女性――フロンは嬉々とした表情で語る。


 その一連の行動は支離滅裂で、言っていることの意味も分からず、アランの理解の範疇を越えていた。先の暴力も相まって、アランたちは恐怖で震えることしかできない。


 それから満足げに頷いたフロンは、こちらをちらりと見て不敵に笑う。


「もちろん、君たちも忘れてないよー? えいっ――」


 この状況では憎らしいほど可愛げのある声で上空に放たれたのは、禍々しい赤い光を帯びた弾丸のようなものだった。


 空高く上る色の線は、まるで騎士の用いる信号弾のようで――



 もはやそれは確信めいた予想だった。視線が勝手に門の方を向く。


 目に入ってきたのは、まるで軍隊のような陣形を組んだ犬型魔獣の集団。魔獣というのはこんなに統率のとれた行動ができたのだろうか、似つかわしくない行儀の良さを発揮してぞろぞろと街に入ってくる。


 恐らくはフロンの放ったあの光線、それが関係しているのだろう。


「あはは、今日も可愛いねえ……よしよし。うん、それじゃあ始めよっか」


 フロンは自身のすぐそばにまで来た魔獣の頭を、ペットを可愛がるかのように撫でる。その間に魔獣どもの行進は終了していたようで、それを確認したフロンは満足そうに頷くのだった。


 こんな状況にもかかわらず、「あれだけの数の魔獣がいればさぞかし儲かるだろうなあ」などと、考えている自分は恐怖で頭がおかしくなってしまったのだろう。


 そんなアランの腐りきった思考とは別に、その身体は目の前の脅威から逃げるため後ろに走り出していた。こちらは存外まともなようだった。


「むぅ……そっちに逃げたって、どうなっても知らないよー?」


 フロンの言葉の意味を解釈する前に、赤い飛沫がアランの目の前で湧き上がった。

「ひぃっ――!!」


 アランが尻もちをついてしまったのも当然だろう。その飛沫はアランの前方にいる人が、後ろから迫っていた魔獣に噛みつかれたことによるものだったから。


 たちまち、アランの股間が湿った感覚に曝された。恐怖のあまり、大の大人が失禁してしまったらしい。


「あれ? あはは、お兄さん大丈夫ー? ふふ、あははは!」


 後ろから迫ってきていたフロンがアランの失態におかしそうに笑う。尻もちをついたまま後退ることしかできないアラン。


「でも心配しなくていいよ。お漏らしなんて、二度としない身体にしてあげるから」


 続けてフロンは、アランの胸元に手を伸ばしてくる。何をするつもりか、などという考えを巡らせる余裕があるはずもなく、アランはとにかく懸命にもがく。


「な、や、やめ……」


 情けなく哀願するアランに、フロンは微笑みを絶やさずに言葉を紡ぐ。


「痛くするわけじゃないよ? ただ、そうだねえ……次に会うときは……、それだけだよ」



 フロンの指先がアランの胸元に触れた瞬間――それきりアランの意識は戻ることはなかった。



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