序章 第一話「何ものにも代えがたい日常」

「……あれから八年か……」


 幾度となく繰り返し読んだ単行本を両手に持つエルキュールの眼が滑る。


 なにも質素な自室の窓から朝の到来を告げる、小鳥のさえずりのせいだけではないだろう。


 それは追憶だった。


 エルキュールにとっての原初の記憶、忌み嫌うべき記憶のせいだった。


 本を両手でぱたりと閉じると、エルキュールはやや上を見上げてゆっくりと目を閉じた。


 中断させられた読書を再開する気もなく、ただそうして、エルキュールはいつものように心を落ち着けた。



「――というか、そろそろ出る時間だったな」


 ゆっくりと目を開けて思い出す。


 窓から見上げれば小鳥の便りにするこもなく、遠くの空が白んでいるのが分かる。


 さらに外から入り込むほのかに吹く風が、春の陽気を微かに感じさせる。


「アザレアの花も、今朝は良く咲いているようだ」


 窓辺に飾った黒い花弁、かつてエルキュールの故郷に多く生息していたそれは、今日に限っては彼の心を妙に撫でる。


 エルキュールはそれを指でちょんと突っつき軽く水をやると、身支度を整えようと部屋の奥にある姿見の前に立った。


 エルキュールにとってはもはや見慣れた自分の姿が鏡面に映しだされる。


 作り物と見紛うほどの端正な顔立ち。窓からの光に照らされた明るいアッシュグレーの髪。吸い込まれそうなほどの美麗な輝きを備えた琥珀色の瞳。


 そのすべてから、どことなく人間離れした雰囲気を醸し出していた。


 だが、そこから下に目線を移動させれば、先の人間離れした雰囲気云々という言葉は、単なる比喩表現にとどまらないものへと変わる。


 その首元には、人間にはまずあり得ない、が服の外へ顔を覗かせており、見る者に気味の悪い印象を与える。


 さらに、目線をより下に向けた先にある胸元においては、薄手の服の生地の上からでも分かるくらいに、怪しげな黒色の光が明滅していた。


 首元の痣も胸の明滅もイブリス――人類が魔物まものと忌み嫌う生命に特有のもの。


 人の世界で、人の街で、人の社会で、人としての生を演じるエルキュールは、その実人間ではなかった。



 人間や動物などの有機生命体・リーベとかけ離れた痣やコアは、完全な物質化に至っていない魔素――魔素質まそしつで形成されている。


 そしてその存在は、エルキュールの非人間性を証明すると同時に、両者を決定的に異にするものでもあった。


 エルキュールは人型のイブリス、魔人としての在り方を否定し、その力を押さえつけることで、これまでその正体を露呈させることなく家族と共に生活してきたのだが。


 あらゆる物質を構成する要素である魔素質、その可塑性を以てしても、これ以上は人の姿を模すことは難しく、胸の中心にあるコアに至ってはそのままの状態で残すほかなかったのだ。


「このまま外に出ていたらまずかったな……」


 魔素質の自然発光は注力すれば抑えることができるが、夜通し本を読んでいるうちに、抑えている痣やコアの発光が元に戻ってしまっていたらしい。


 小さく息を吐き、意識を集中させる。すると、怪しげな光はたちまち収まっていった。それに伴って倦怠感と脱力感が全身に襲いかかるが、それに抗うように身体に力を込めて姿勢を保つ。


「はぁ……」


 首元の痣も目立たなくなり、傍から見れば人間にしか見えない姿に戻ったにも関わらず、エルキュールの表情は憂鬱に満ちていた。


 些細なことにまで気を張らないとまともに生活を送れない、厄介な自分の身体に辟易したためか。


 自らの在り方を捻じ曲げざるを得ない現状に対する不満か。それともそこまで己を封じることへの疑問だろうか。


 エルキュールの顔色にはきっとその全ての意味が内包されているのだろうが、その感情と思考の果てに彼が明確な答えを見つけたことはなかった。




 ヴェルトモンド大陸にあるリーベが建国した人類の国の一つ、オルレーヌ王国。

 王都ミクシリアから幾らか離れた、国の北部に位置する街、ヌール。


 家族と共に住むこの地のみが魔人であるエルキュール・ラングレーの唯一の居場所であり、それ以外の生き方を彼は知らなかった。


 だからと言ってリーベの国であるオルレーヌに、魔人であるエルキュールが平然と暮らしていることが周囲に知れたらどんな仕打ちを食らうか。


 過去の忌まわしい経験から察するに、それはエルキュールにとってこの上なく悲しいものになるだろう。


 故にエルキュールは自分の正体を隠し、立場を偽り、極力目立たない生活を心がけてきたのだ。


「それに、この生活はなにも今に始まったことではない」


 十年ほど前――物心がついたときから、エルキュールはリーベの世界にいた。そんな彼の傍には親愛を向けてくれる母と妹がいてくれた。


 それはエルキュールにとっては変わることのない事実。


 なればこそ、多少住みづらくてもここがエルキュールの住むべき世界なのだ。


「うん、しっかりしないと。俺を気にかけてくれる人たちのためにも」


 もはや何百と繰り返した自問に無理やり終止符を打ち、身支度の続きへ戻る。


 姿見のすぐ横にある棚を開け、首まで隠れるほどの厚手の服に袖を通す。手には愛用の黒い手袋をはめ、何度か拳を握って感覚を馴染ませる。


 肌はできるだけ隠しておくに越したことはない。押さえつけている力が抜けて痣が表出しては目も当てられないからだ。


 最後にエルキュールは黒色の外套を羽織り、最後にもう一度だけ容姿に異常がないことを確認すると、部屋にある魔動時計に目をやった。


 針は六時を指し示していた。


「――出かける前に彼女たちも起こしてやらないといけないな」

 

 エルキュールにとっては、彼が未だにこの世界に属する唯一の理由にもなっている者たちの姿を思い浮かべ、彼は静かに階下へと向かった。




 エルキュールとその家族が住む木造住宅は、平均的な王国民の住居に比べてもややこじんまりとしている。


 二階にはエルキュールが住むだけの空間と、一階には家族二人の部屋とちょっとした居間があるのみ。


 早朝のためエルキュールが気を遣って静かに下りても、数秒ほどですぐに居間へとにたどり着いた。


 魔人であるエルキュールの視界は人と比べてかなり優秀で、暗がりの中であっても普段彼らが使う木製の長テーブルと椅子の輪郭がはっきりと見てとれた。


 しかしエルキュールはよくとも、他の者にとってはそうもいくまい。


 まずは明かりをつけようと、エルキュールは部屋の天井に備え付けられた変哲もない照明を見上げると、そっと手をかざした。


 それから意識を集中し、周囲の外気に含まれている光の魔素を感じとる。


「――ライト」


 エルキュールが短く詠唱すると、その照明に明かりが灯った。


 光を灯すことができる、光属性の初級魔法。


 魔素を感じて使役する魔法は、決して誰しもが使える力ではないが、これに関してだけはその例からも外れると言っていいほど、一般的で汎用性が高い魔法だといえるだろう。


 ヴェルトモンドで生きていくならば、この程度の魔法は扱えないと苦労するからと、昔から一般の学校に通う子供ですら学ぶのが通例になっているそうだが。

 近頃の上流階級の家では魔法技術の発達により、魔動機械の照明が備え付けられるようになっており、手動で魔法を使わなくともスイッチ一つで明かりを灯せることができるらしい。


 確かそのことで「若者の魔法離れ」とか「行き過ぎた魔動機械化は怠惰のもと」が引き起こされるとか、エルキュールはどこかの評論家の著書を読んだことがあった。


「……でもそんなに便利なら、日ごろの感謝のしるしに買ってみるのもいいかもしれないな」


 質素な家の様子にそんなことを口にしながらも、室内に明かりが灯ったのを確認したエルキュールは、母と妹の部屋の方へ歩いていく。


 部屋の扉を前にし、エルキュールは念のため扉をノックした。


 不慮の事故があったら困るというのもあるが、やはり未だ彼の心のどこかでは二人に遠慮をしているきらいもあるのかもしれない。


 エルキュールがつまらない感傷に浸っていると、扉の向こうから声が返ってくる。


「……エル?」


 その声は細く優しさを湛えたもので、聞く者の気持ちを落ち着かせるような声質だった。


 いつもの寝ぼけた声とは一切異なる明瞭さを思うと、どうやらエルキュールがここに来る前にすでに目を覚ましていたようだった。


「おはよう、母さん。ごめん、少しうるさかったか?」


 声の主はエルキュールの母親・リゼットだった。同時に扉の向こうから足音が聞こえ、近づいてくる気配がした。


「おはよう。いいのよ、別に。いつも悪いわね、起こしてもらっちゃって」


 リゼットは挨拶を返しながら扉を開けてそう答えた。その静かな振る舞いから、妹のほうはまだ寝ているのだと察せられる。


「それこそ気にしなくていい。母さんたち――もとい人の多くが朝に弱いのは、もう嫌というほど知っているから」


 エルキュールのばっさりとした物言いに、リゼットは「あらー、そうなの」ときまりが悪いのを紛らわすようにおどけて返す。


「……じゃあ、俺は出かけてくる」


「いつものところね? 気を付けるのよ」


 リゼットは快くエルキュールを送り出すが、直後に何か思いついたのか、「あ、そうだ」と彼を引き留めた。


 後ろから手を引かれたことに、エルキュールはくすぐったいような心地と若干の緊張感を覚えつつも、律儀にリゼットの方へ向き直る。


「どうかしたか?」


「――せっかくだから今日は一緒に朝食にしないかしら? ヌールに来てからあまり機会もなかったことだし、たまにはいいんじゃないかと思うんだけど」


「ああ、そう言えば……そうだったか……」


 共に朝食を食べよう。何気ないように思われるその提案に、エルキュールは煮え切らない態度を示した。


 自室で考えたことが心に浮かんだのもそうだが、やはりエルキュールと彼女との隔たりが彼を躊躇させてしまう。


 言うまでもなくリゼットたちはリーベに分類される人間だ。当たり前のように呼吸や食事、睡眠を行い、社会生活を行う。


 そしてそんな当たり前のことが、魔人であるエルキュールにとっては大きく違っているのだ。


 リゼットに拾われ、三人で過ごすようになって十年になるが、家族と過ごすことはエルキュールにとって嬉しくもあるものの、時に苦悩の原因にもなっていた。


 彼我の間に存在する決定的な違いを自覚させられるからだ。


 どれだけ足掻こうが、その差を埋めることは叶わない。

 そもそもの種が異なるためだ。

 リーベとイブリス、どれだけ姿を似せようとも、その在り方は全く別である。


 ヌールに移り住むようになって、家族以外の人間の姿を目にするようになって、エルキュールの内にある自意識は変化していった。


 もちろん、リーベにとって魔獣や魔人といった魔物は、忌み嫌い排除するべき敵という、ヴェルトモンドでは当たり前のように流布している価値観もある。


 本来ならば、エルキュールはこの場にいるべき存在ではなかった。

 かといって、他に行き場所もなければ、そこまでの強い動機もないというのが、彼を悩ませる一番の要因であるのだが。


「……エル、また悩んでいるのね? あの時の事を思えば気にするのも無理はないけど。……でもね、あなたが私たちと一緒にいてくれて、本当によかったと思ってるのよ。十年前から今まで、その気持ちが揺らいだことなんて一度もない。あなたは魔人であるけれど、それ以前に私たちは家族だもの」


 全てを見透かしたようなリゼットの言葉に、エルキュールはその琥珀の瞳を大きく見開く。


「それにね、あなたがずーっとそんな調子だから『兄さんが最近私に構ってくれないの!』って、アヤがうるさいのよ」


 リゼットがいたずらっぽくそう言うと、エルキュールの顔にも微笑が浮かんだ。本当に彼女の気遣いにはいつも頭が上がらない。


 昔から、彼女はずっとそうだった。


 彼女だけでなく妹のアヤも、エルキュールをずっと慕ってくれていた。


 自らが不利を被ると知っていながら受け入れてくれていたし、あの時も身を挺して庇ってくれた。


 かけがえのない存在だ。


 エルキュールは迷いを振り払うように息を吐くと――


「……分かった。用事を片付けたら帰ってくるよ」


 そう短く答え、むず痒い気持ちを隠すように足早に玄関へと向かった。


 その顔はそれまでに比べると幾分晴れやかな表情で。


「いってらっしゃい」というリゼットの声を背にして。


 その日の始まりはいつもより明るいものであった。

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