022 悪魔の誘惑とは
「やめて下さい!」
俺は結衣の両肩を掴み、グッと伸ばした。
「大丈夫だって。ここならバレないよ。あのカメラじゃ雨の音がうるさくてこっちの音までは絶対に拾えないからさ」
結衣は俺の腕を払い、抱きついてくる。
ジャージ越しに胸板を撫でてきた。
「別に男だけじゃない。女だってクズよ。人は罰せられないならクズになる。吉川君だって、信号無視とかしたことあるでしょ? それと同じよ。だから、素直になっていいのよ」
結衣の指が俺の頬に当てられる。
そこからスーッと下へ流れて、首筋を撫でてきた。
「そうかもしれませんが、雪穂を裏切るつもりはありません!」
再び結衣の両肩を掴んで離す。
出来ればそのまま投げ倒したかった。
しかし、それはできない。
相手が事務所の先輩であり、アイドル兼女優の万丈結衣だから。
顔はおろか手の甲にすら軽い傷をつけることが許されない。
ガラス細工よりも丁寧に扱わなければならないのだ。
結衣はため息をついた。
その息が俺の顔を優しく撫でる。
「……今から離れるけど、逃げないで話を聞いてもらえる?」
「逃げませんよ。というか、今は逃げ場がないので」
「それもそうね」
結衣がスッと後ずさった。
それから俺の横に腰を下ろし、俺にも座るよう言う。
断ると面倒そうなので素直に従った。
「クラッシャーって呼ばれるタイプの女っているじゃん? 他人の関係を滅茶苦茶に壊すタイプの女」
まさにお前のことだな、と思いつつ「はい」と答えた。
「私はそういうのじゃないの」
「えっ、違うんですか?」
思わず本音がこぼれる。
慌てて「すみません」と謝った。
「たしかに私も他人の男を奪うことに快感を覚えるタイプで、その点はクラッシャーと同じ。でもね、私はその先を望んでいないの」
「その先って?」
「クラッシャーは奪った女に見せつけることで優越感に浸りたがるの。お前の男を奪ってやったぜ、ってね。支配欲っていうのかな。そういうの欲求を満たしたいと考える。でもね、私は違う。自分が満足してそこで終わり。この点が大きく違うの。分かる?」
「いえ、あまり……」
「もっと分かりやすい言葉に言い換えると『都合のいい女』なのよ、私は。例えばここで吉川君と淫らなことをしたとしても、それ以降は何も望まない。高峯さんや他の人に話すことはないし、再び吉川君に迫ることはない。そんなことをすれば芸能界でやっていけなくなるしね」
たしかに都合のいい女だな、と思った。
結衣の話はまだ終わらない。
「今年結婚した武藤セイメイって俳優は知ってる?」
「女優の古木さんと結婚した人ですよね」
「そう、あの人は古木さんにぞっこんで他には目もくれないことで知られているんだけど、私とは一線を越えた。そういう関係になった」
思わず「マジっすか」と声を荒らげる。
週刊誌にたれ込めば大金を貰えるレベルのネタだ。
「武藤さんだけじゃない。ジャニューズのユウスケ君、去年の主演男優賞を獲得した安田さん、他にも――」
ペラペラ、ペラペラ。
結衣は自分が遊んだ男の名を挙げていく。
その数はあまりにも多かった。
有名どころの若手俳優は軒並み含まれていた。
「これで全部だけど、この中で私との関係が報じられた男の数は分かる?」
「いえ……そういうのには疎くて……」
「答えはゼロよ。誰もいない。誰一人としてバレていない。なぜなら私が口を開かないから。証拠も残さない。だって、バレたら私のキャリアにキズがつくから。分かるでしょ?」
「分かります」
結衣は清純派で売っている。
ゲス行為が発覚した際に最もダメージを受けるタイプだ。
「男とは遊びでも、仕事に対しては本気なの。男が原因で仕事を失うなんて馬鹿みたいなことはしない」
「だったら、なんでわざわざ危ない橋を渡ろうとするんですか」
「それが性癖なんだもの、仕方ないじゃない」
あっけらかんとしている。
性癖と言われれば反論することはできない。
俺が黙っていると、結衣はさらに続けた。
「度合いの差はあれど、人間は等しくクズなのよ。だから法律や倫理というもので縛っている。クズの暴走を正当化しない為にね。それってつまり、そういう縛りがなければクズでいてもいいわけでしょ。信号という守るべきものがあるのに無視するのだって同じことよ」
雲行きが怪しくなってきた。
「それでも俺は――」
話している最中に押し倒される。
結衣は俺に跨がり、ジュルリ、と舌なめずりをした。
「素直になりなよ、吉川君。この万丈結衣を好きにできる一生で一度きりのチャンスなのよ。我慢することないじゃない。理性を捨てなさい。欲望を解き放ちなさい。それを咎めるものはここにないのだから」
結衣が体を倒す。
そして、耳元で悪魔の言葉を囁いた。
「絶対にバレないんだから」
絶対にバレない……たしかにその通りだ。
俺達が黙っている限り、この件は二人きりの秘密で終わる。
万丈結衣を好きに出来る一生で一度きりのチャンス。
その言葉も間違ってはいない。
魅力を感じないと言えば嘘になる。
雪穂には劣るものの、結衣だって一般人とは比べものにならない。
纏うオーラ、醸し出す香り、何もかもが別格だ。
それでも、俺は――。
「嫌です! やめてください!」
「きゃっ」
思わず結衣を押し飛ばしてしまった。
「す、すみません、結衣さん!」
慌てて立ち上がり、尻餅をつく結衣に手を伸ばす。
彼女はその手を強く払った。
「なんなのよ、あんた」
「え……」
「なんでなびかないのよ、おかしいでしょ」
次の瞬間、俺は胸ぐらをつかまれ、壁に叩きつけられた。
結衣の拳が喉を圧迫してきて苦しい。
自然と咳が出た。
「あんた、自分のこと分かってるの? 見た目は地味だし、芸能人のオーラなんて欠片もない。学校でもモテなかったでしょ。それなのに、この万丈結衣の誘いに応じないって、自己評価がイカれてんじゃないの? えぇ?」
すごい剣幕だ。
豹変ぶりが怖くて小便をちびりそうになる。
しかし、怯むわけにはいかない。
俺はしっかりした口調で答えた。
「自己評価は高くないです。結衣さんの誘いを断れる程の魅力が自分にあるとは思っていません。地味なのも分かってます。学校でもモテませんでした。それでもお受けすることはできないんです。俺には雪穂がいるから」
「だから今なら誰にもバレないって言ってるだろうが! 悲しませなければいいだけのことでしょ! バレなきゃ何してもセーフなんだよ! 信号無視と同じだって言ってるだろ!」
「それでもなんですよ!!!!」
思わず怒鳴ってしまう。
結衣は「ひっ」と驚き、怯んだ。
胸ぐらを掴む力が緩む。
すかさず振りほどかせてもらった。
「約2年前にあった雪穂の告白会見は知ってますよね。彼女は全てを捨てる覚悟で俺に告白したんです。こんな俺にですよ。結衣さんの仰る通り地味でモテない微妙な奴にですよ。その覚悟を踏みにじってはいけない。結衣さんがどうとか、バレるバレないなんてことは関係ない。どんな状況でどんな相手だったとしても、俺が雪穂を裏切ることはありません、絶対に!」
一呼吸置き、俺は言う。
「何が何でも高峯雪穂を幸せにする――それが俺の覚悟なんです!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。