Kiss me,
メルトア
一言、愛を込めて
溺れた、と言えば正しいだろうか。正直、あまりよく覚えていない。絡繰りと回る視界の中には、横たわった男が一つ。真黒のマットレスに沈み込んでいる。八条は深く後悔した。
名前も年齢も知らないが、凡そ三十前半だと見受けられるこの男。実を言えば八条の顔見知りだった男である。と言っても、袖を振り合う程度であった事に相違は無い。肩書きとしては、最近通うようになった飯屋の亭主の息子である。
八条は記憶をひっくり返して探した。この男と宜しく話すような事が、はてさてあったろうかと。不肖八条、記憶力には案外自信があった。円周率を三十桁空目で数えられる位の頭は持ち合わせていた。しかしまぁ、当然、と言えば八条は非常に困るが、当然この男と話が盛り上がった形跡は、ただの一度と無かった。五分の四は他人であった。
未だ眠いと喚く身体を振って八条、溜息を一つ。先ずは今日の支度をせねばなるまい。目的が決まれば早かった、八条は一息に立ち上がった。
*
浮かれた、と言えば正しいだろうか。正直、あまりよく覚えていない。瓦落多と回る視界の中には、横たわった女が二つ。真白のマットレスに沈み込んでいる。九条は強く後悔した。
名前も年齢も知らないが、凡そ二十後半だと見受けられるこの女。実を言えば九条の顔見知りだった女である。と言っても、袖を振り合う程度であった事に相違は無い。肩書きとしては、最近通うようになった飯屋の亭主の娘である。
九条は記憶をひっくり返して探した。この女と宜しく話すような事が、はてさてあったろうかと。不肖九条、記憶力には結構自信があった。円周率を四十桁空目で数えられる位の頭は持ち合わせていた。しかしまぁ、当然、と言えば九条は非常に困るが、当然この女と話が盛り上がった形跡は、ただの一度と無かった。五分の四は他人であった。
未だ眠いと嘆く身体を振って九条、溜息を半分。先ずは今日の支度をせねばなるまい。目的が決まれば早かった、九条は一息に立ち上がった。
*
冷たい風が身を掠める路地裏。大通りでは通勤ラッシュが唸りを上げる今朝も、この場所は嫌に静かである。
そんな所へ、T字路をちょうど、向かい当たるように歩いてくる男と女。格好は似ているが、背丈や歩き方はまるで違う。男は気だるげに足を地へ擦りながら銜えた煙草を道端に棄てた。一方女は背筋を伸ばし、軍靴を鳴らすが如く高い踵を履き熟す。銜えた煙草はそのままに、ハットの鍔を深く目に寄せた。男と女はしかし、向かい合う事はなく、歩いた方向のままで隣に立ち止まった。
「この感じだと、お前もやらかしたかい」
女が苛ついた様子で問うた。
「君もやらかしたんだね。こういう時に限って気が合うよ、ほんとに」
男は小さな欠伸をしてから応えた。どうやらこの男と女は馴染みらしい。
「そりゃこっちの台詞だね。我がの真似はしないで欲しいもんだ」
「それこそこっちの台詞でしょ。八条、僕より後に来たじゃん」
軽い言い合いをしてから、男と女は同じようなタイミングで舌打ちをした。被った後にもう一度、今度は完璧に同じ音を鳴らした。
「だから真似しないでよ八条!ただでさえ今は鬱陶しいのに!」
「こっちの台詞だって言ってんだろう!鬱陶しいのは私もだよ!」
静かだった路地裏が随分喧しくなったその時、八条と呼ばれた女が不意に男を覗き見た。
「てか九条、お前それ」
「うん?」
「……元よりそのつもりかい。ったく、面倒事だけ押付けやがって……お前三週前もそうだったっけかね」
「出たよ、女特有の過去をほじくり返す責め方。僕大っ嫌いなんだよね。もういつもの事だけどさ」
軽口を叩き合いながら、女は九条と呼ばれた男の背中へ一歩出る。男はそれに合わせて身体を横へずらし、ちょうど一直線になるように並んだ。
「兎に角、足引っ張んないでよね。僕汚れんの嫌だかんね」
「甘えてんじゃないよスカタンが。さっさと潰しゃいい話だろう」
男と女は懐から、手に収まる程度のナイフを取り出した。男は左手に、女は右手にそれをしっくりと握り、一度後ろに振り払う。ち、と軽い音が響く。息は嫌な程に合う、心配などしていない。己が死ぬ事も間違いなく無い。残念な事に。
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一拍、男と女は空気を凪いだ。
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