蒼い春

かなえ ひでお

第1話 ウチの親は真面

 二月下旬の或る日のことだった。

 電話を受け取るなり血相を変えた星凛きらりの父親が、警察署へと向かうことになった。父親が何かの犯罪に巻き込まれてしまったのか、それとも、被害者ではなく加害者となってしまったのか。詳細を知らない星凛と母親は不安に胸を押し潰されそうになりながら、父親の潔白を祈りながら、その帰りを待った。

 父親はその日の内に帰宅することが出来て、家族は自然とリビングへと集まる。


きよしさん、どうして警察に……?」


 不機嫌極まりないと言わんばかりの表情でソファに座り、清は妻の美沙子みさこが差し出したビールを受け取るなり、ぐいっと呷る。コップの中程まで飲んだことで僅かに機嫌が直った清が事情を話す。


「……博子ひろこが自殺した。遺書のような書置きに俺の名前があってな、関係者ではないかと思われて、念の為に事情聴取をされたんだ。質問にきちんと答えたから、博子の死に無関係だと判断されて、こうして家に帰って来られた訳だが……全く、生きていても死んでも俺に迷惑ばかりかけやがって!にこもにこだ!博子の遺体の引き取りを拒否しやがって!俺が代わりに引き取らされるかと思ったじゃねえか!親子揃って碌でもないっ!……まあ、結局は博子の親兄弟が引き取ることになると思うけどな」


 たった一人の親が死んだというのに、どうしてそんな非情な真似が出来るのかと、憤慨しながらビールを煽る清を美沙子が宥めているのを横目に、星凛は壁に飾られている大きな家族写真を見上げた。それは星凛が七歳の時の七五三の写真で、可愛らしく着飾った星凛、二歳年上の兄の空飛夢あとむと両親が幸せそうに笑って写っている。


(博子……にこ……それって確か……?)


 清には離婚歴がある。前妻の名前が博子で、前妻との間に生まれた娘の名前がにこで、にこは星凛にとって異母姉に当たる。彼女たちの名前を教えたのは清本人ではなくて、父方の祖母だったように星凛は記憶している。


『本当に博子って女は見た目も中身も酷くてねえ。水商売の女はやっぱり駄目ね。清もどうしてあんなのに引っかかっちゃったんだか……。生まれた子供も全然可愛げがなくて、孫だと思ってないわ』


 祖母は前妻のことがかなり嫌いだったようで、事ある毎に後妻である美沙子と比較しては、美沙子が如何に真面な人間であるかを説いてくれる。会うことのない、もう一人の孫には愛情もないようで、何かしらの切っ掛けがない限り、祖母の口から名前が出てくることはない。


(あのオバサン、死んだんだ、やっと)


 清は一度目の結婚の思い出の一切を捨ててしまっている。故に前妻と異母姉に纏わる物品はこの家には存在しない。けれども、星凛は前妻の顔を知っている。彼女は金銭トラブルを起こす度に、どういう訳か元夫の清の家を訪れては金の無心をしてくるのだ。玄関先であることないことを好き放題に喚き散らされて、近所の目を気にした清が金を渡して追い払う姿を何度も目撃している。


(二度と家に来なくなるんだ、あのオバサン。良かった、これで安心して友達を家に呼べる。学校の友達にあのオバサンを見られたら、あっという間に噂されて、学校で苛められるから、今まで呼べなかったんだよね……)


 実年齢を弁えず、若々しい女のコスプレをした中年女が前触れもなく現れては暴言を吐き、父親から現金を毟り取っていく光景は、幼かった日も今も、星凛に恐怖を与えてくる。あんな怪物が実の母親でなくて良かったと、心から思ったものだ。

 父親が犯罪に巻き込まれたわけでも、犯罪者になった訳でもないと分かって安心した星凛は自室に戻り、可愛らしい縫いぐるみに囲まれているベッドに転がる。


(母親があんなだから、娘の方もきっとあんな風になってるんだろーな。人生終わってる、カワイソ、生きてても何も良いことないっしょ)


 嘗ては異母姉も清に金の無心をしていた。固く閉ざされた門扉の前で俯いて立ち竦んでいる異母姉は、清が投げ寄越した一万円札を受け取り損ねて、アスファルトの上に落ちたそれを拾うと、とぼとぼと歩いていく。父親に感謝の言葉を述べることもなく、だ。


『何をされるか分からないから、あいつらが来たら絶対に家の外に出るんじゃないぞ、空飛夢、星凛!』


 父親の言いつけを守る幼い兄妹は、リビングの大きな窓の傍に立ち、不安気な表情で外の様子を窺う。

 ――パパは責任感の強い人だから、前の奥さんの子供にちゃんと養育費を払っているのよ。

 母親がそう言っていたのに、異母姉がみすぼらしい恰好をしているのが星凛には不思議で仕方がない。


『態と綺麗じゃない格好をして、パパの同情を買って、お金を沢山貰おうとしているのよ。狡賢くて嫌だわ、あの子。テストの成績は良いってパパに聞いたけど、きっとカンニングしてるに違いないわ。空飛夢も星凛も、そんな意地汚い子にならないでね』


 キッチンにいた美沙子が兄妹の許へとやって来て、嫌悪を露わにした表情で二人に言い聞かせる。


『あのこ、パパににてればよかったのに。ママのほうににちゃってカワイソウ』


 幼い星凛が心に浮かんだ言葉を素直に口に出した時だ。鋳物フェンスの向こう側から此方を見ている異母姉と目が合ってしまい、星凛はびくりと身を強張らせる。星凛たちを睨みつける異母姉に気が付いた美沙子が咄嗟に子供たちを隠すように抱きしめ、未だ屋外にいた清が異母姉を追い払ってくれたので、それ以上は何も起こらなかった。

 それからも面の皮の厚い異母姉は幾度か金の無心に現れたが、いつからか姿を見せなくなり、代わりに前妻の姿をよく見かけるようになったのだと、星凛は思い出す。


「他人に迷惑かける人って、何も考えなくて、お気楽で マジ最悪。良かった、ウチのパパとママは真面で」


 兎にも角にも、これでもう近所の目を気にすることがなくなったのだと、星凛は胸を撫で下ろした。警察に事情聴取された清は不運だったが、星凛たち家族には良い知らせがやって来たのだと。

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