寄せ植え狂想曲:その二

 家族の目を避けて、私はツマグロヒョウモンの幼虫(団体)が同居する寄せ植え三鉢を、私が使用許可を得ている北側の裏庭に、こっそりと搬入した。

 高いコンクリートの壁と自宅の北側の壁に挟まれた一角を使っていいと許可された当時は、「明らかに植物の栽培に向かない一角を、与えられてもねぇ」と思ったものだが、初夏から残暑のシーズンにかけて、直射日光の熱波で植物が干物になるお土地柄ではあるので、意外と悪くはない環境だと、後々判明した場所である。

 コンクリートの壁側には、木香薔薇三姉妹の巨大鉢&アーチと、その下の隙間スペースには未使用の鉢植えがある。そのアーチの前が私の使用できる一角で最も陽が当たる場所なので、持ち帰った鉢をそこに置くことにした。そして、裏庭に出る戸口に最も面した場所に、背丈があるモリニューさんとゴールド・バニーちゃんを置いて目隠しに使い、段々背丈が低くなるように他のバラちゃんを円状に設置して、寄せ植えの鉢を囲い込んだ。

 何故そうしたかというと、最も警戒するべきは我が母だからである。前項で語ったように我が母は虫と齧歯類げっしるい(ネズミ・リス・ウサギ等々)が嫌いで、基本的に人間以外の生き物の生死に対する関心がない。かつて、自宅にいつの間にかあった罠に掛かった野ネズミを「殺してくれ」と私に依頼した母と、「野ネズミなんぞ近所の野山で鼠算式に増えているんだから、わざわざ一匹を殺す必要はない。外に放せばいい」と主張する私との間で、深刻な対立があったほどだ。下手をすると、私が仕事に行って留守の間に、「変な幼虫がいたから、処分しといたよ」と言いかねないのだ。

 次に警戒しなければならないのは、庭を好きに散歩しているシェットランド・シープドッグの小太郎くんである。彼に悪気がないのは判っているが、私が大切にしている鉢植えに、「ボスの大事な鉢植えだから、代わりに守ってあげなきゃ」と言わんばかりにマーキングするのだ。背丈があるローズポッドはそれでも構わないが、背丈が低い寄せ植えの鉢はそれでは困る。新鮮なアンモニアが直接掛かれば、生き残ったビオラ&パンジー諸共に全滅しかねないのだから。

 それらの理由で、バラちゃん達によるトゲトゲ・バリケートを設置したのである。


 これで準備は万端。まだまだ葉も花も残っている寄せ植えだが、すでに寿命は限られている。後は、ツマグロヒョウモンの子供達よ、君達が成長する為に思う存分食うがいい。

 そして私は、バラちゃん達共々水遣りをするだけで、寄せ植えの余生を自然の成り行きに任せることにしたのだ。


 まあ、そうはいっても、ビオラ&パンジー達の余力と幼虫達の成長具合は気になるもので、事あるごとに見守ることをやめられはしない。特に、幼虫達は最初から大きさに差があって、大きい子だと三.五cmほどあるが、小さい子だと一cmに満たなかったりする。この成長度合いの差が、彼らの生死を分けることになるだろうと思っていたからだ。

 けれども、現実は予測を遥かに上回るのが世の常───『は◎ぺこあお☆し』という有名な絵本があるように、幼虫達の食欲は半端ではなかったのである。

 弱っているとはいえそれなりにもっさりしていた寄せ植えは、たちまち残っていた花や葉を失っていった。どんな生き物も美味しそうな所から食べていくのは、まあ仕方がないだろう。そして、幼虫の数が減って来たなぁと思っていたら、もう次の子が居たりする。鉢の中はどんどんハゲて行くので、仕方なく手を出し、割り箸で摘んでまだ食べられそうな場所に移動をお願いしたりもした。

 しかし───と、見守るさなかでとある疑問が湧いた。幼虫の減り方が、何か妙ではないか?

 普通に考えれば、大きい子からさなぎになり、羽化して居なくなるものだろう。それなのに大きい子が残って、中くらいの子が居なくなっていたりするのだ。それに、大きい子が居なくなるにしても、蛹をあまり見ないのは何故だ? 強い雨が降る時に、幼虫のまま、あるいは蛹の状態で流されたりしているのか?

 その謎が解けたのは、ある晴れた日のことだった。

 私は休日で、二階の窓際でバードウォッチングに余念がない愛猫娘といちゃいちゃしながら、なんとなくバラ&寄せ植えを置いている一角を眺めていた。

 愛猫娘が見ているものを追うと、いつもよりバードウォッチングに夢中なのもその筈で、窓から見えるだけでも、シジュウカラにホオジロにムクドリなどが来ている。木香薔薇ちゃんのアーチの上や塀の上で、三々五々好きに過ごしているように見えた。───が、何だかいつもより多いような……。

 北側裏庭の片隅に五十年選手の甘柿の木があった時には、さほど珍しい光景ではなかった。春には新芽を、夏には若い実を、秋には完熟した実を求めて、結構な種類の鳥達(カラスや雀を含む)が来ていたものだ。けれども、鳥達の楽園であった柿の木はもうない。なのに何故……?

 ───と、そこまで考えてはっとする。

 そこにある───いや、居るではないか、新鮮なご飯達がっ!

 これは誤算だった。正直、そこまでは考えていなかったのだ。不審な個体数減は、つまりはそういうことだったのだろう。

 しかし、一度は自然の成り行きに任せると決めたこと。鳥さんのご飯になった場合、それも自然の摂理の内なのだからと、敢えて私は静観した。早く蛹になれと、心の内で思いながら。


 鳥さんの脅威もさることながら、より深刻なのは食料危機である。それほど日数をかけることなく、一応もっさりした状態で持ち帰った寄せ植えの鉢は、バリカンで一分刈りにされたようになってしまっていたのだ。その様相は、風の谷という所に住む少女の物語に出て来る、主人公ばりの巨大昆虫が通った後に酷似こくじしていた。

 食料の限界が見えているのに、まだ小さな子がいることを心配した私に、「より危機が深まった場合、虫などの生き物の成長は信じられないほど早くなるから、心配ないと思うよ」と、同僚の一人が言っていた。それはどうやら本当だったようで、のんびりと成長しているように見えていた幼虫達は、次々と蛹化をしていき、どんどん羽化をし始めたのである。勿論、間に合わなかった子達もいたが、その数は予想していたより少なかった。


 そして、もうじき初夏を迎えようとする頃の雨上がりの日、私はついに寄せ植えの鉢の中身を処分することにした。

 成長が間に合わなかった子達が居た筈だが、すでにその姿は一匹たりとも無い。

 羽化が間に合った子達の蛹の抜け殻が幾つもあったが、一方では、蛹化はしたものの羽化には至らなかった子達もいた。

 個体の数の変動が大きくて、全体の個体数を把握してはいなかったが、うちに来てからだけでもかなりの数の幼虫が居た筈である。けれども、ご飯が足りなかったり、鳥さん達に狙われたり、おそらく深夜に徘徊しているヤモリさん達にも狙われたりした筈だ。彼らの内、いったいどれくらいが成虫になることが出来たのだろうか?

 だからこそ、食物連鎖のピラミッドの底辺にいる生き物ほど、多産で大量の卵を産むのだ。私が知っている最大数は、マンボウの一回三億個である。逆に、ピラミッドの頂点にいる生き物は、一度の繁殖で産まれる個体数は少ない。チーターや熊、虎などは、平均二頭。イヌワシに至っては、二つの卵を産んで、強い個体一羽しか育てないらしい。


 こうして私は、計らずも一春で、自然の摂理である食物連鎖の縮図を、間近で体験することになったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る