昇りつめたいもの

橘 葵

第1話 不正 前編

 田辺護は総支配人室へと急いでいた。


 海と山に囲まれた場所に立地する地元では何十年と続く老舗ホテルの副支配人をしている。一時期は閉鎖の危機もあったが、もともと長期滞在型のホテルに数年前に別棟を建ててそこを本館として観光客を多く取り込むことに成功し、年々宿泊客が増え賑わいを見せていた。


 朝いつも通り出勤すると社長から総支配人室に来るようと伝言があった。朝一で呼び出されると言うことは、昨夜何かあったのかと思い、急いで制服に着替えて総支配人室へ向かった。

 少し寝癖の残っている髪を抑えながら小走りになる。昨日は久しぶりに実家に帰っていて両親から結婚はまだかとしきりに聞かれて夜、一人暮らしをしている自宅に帰ってから憂さ晴らしでやけ酒をしてしまった。その為、今日は寝坊をしてしまったのだ。

 今年三十五歳になる息子を心配してのことだと理解しているが、自分はどうも結婚にあまり関心がなく。自ら進んで相手を探そうと思っていなかったので気がついたらこの年になっていた。両親が心配するのも理解できるが、自分の気持ちも少しは理解して欲しいと思う。


 総支配人室は別館の五階にあり、その隣に田辺の執務室である副支配人室がある。そこを通り過ぎて総支配人室へ行く。

 総支配人室の前まで来ると田辺は息を整えてからドアをノックする。中からは総支配人の柏木ではない声が聞こえた。田辺は一瞬考えたがドアノブに手をかけ開ける。


 部屋の中央にしつらえられた応接セットの椅子に深々と座る社長の古瀬大樹がいた。四十代の後半で長身であるがあまり姿勢が悪いので、どこかあか抜けない風貌の古瀬は一年前に社長に就任したばかりで会長の息子。所謂同族経営のため社長になれたようなものだ。


 数年前まで他県のホテルで修業をしていたと言うが、会長の知り合いのホテルに在籍していただけだという噂があり、そのホテルで何かを学んできたかと言うと謎の人物だ。

 社長に就任してから、いろいろ発言を重ねてきたが、どれも以前いたホテルの真似ばかりで目新しいものがないがばかりか周囲の反対を押し切って自分の考えを押し通す。自分の意見に異を唱える者にはパワハラまがいのことまで平気でしている人物で、そのうち訴えられるのではないかと噂が絶えない。その為、無理難題を何度も推し進めようとして総支配人の柏木が何度か食い止めてきた経緯がある。そして最近、誰に言われたのか髪を染めて少し茶色になっている。はっきり言って、あまり似あっていない。誰かにそそのかされたのか。社長なのに少し褒められると調子に乗るのは止めてほしいと願う。

 田辺としてはあまり関わりたくない人物だ。その社長がいるということは何かあるのかと一瞬身構えた。


「こちらに来るようにと伝言をもらいましたので」


 田辺は周囲を見渡し総支配人の柏木の姿が見えなかったので仕方なく社長にここに来た理由を告げる。いつもの手だ。社長は自分で呼び出しておいてなぜ来たのかと問う。嫌味としか取れない行動をこの男はよくすると嫌悪感しかない。


「呼んだのは私だ」


 社長が田辺を呼び寄せる。

 あまり関わりたくないが、呼ばれたのなら従わなければいけないのが会社勤めの性なのだ。仕方なく古瀬の傍まで行くと古瀬の向かい側には五十代くらいの男性が座っていた。

 古瀬より少し小柄で白髪交じりの髪は丁寧に整えられている。口元に笑みをたたえているが信用できないと感じた。第一印象はあまり良くない。この感じを口にすることは憚られるが人を騙すような感覚を覚えた。

 これも職業病とでもいうのか、田辺の感は結構当たるのだ。それゆえこの男のことが気になった。そして忘れないようにしっかりと脳に刻む。


 誰なんだ。


 田辺は心の内を読まれないように表情を変えず、一瞬だけその人物に視線を向け再度社長を見た。


「こちらはこのホテルのコンサルをしてもらっている瀬田さんだ」

「瀬田和馬です。どうぞよろしく」


 そう言って男は軽く会釈をした。

 やはり、田辺の感想は変わらない。出来るだけ相手に気づかれないように観察した。


「副支配人をしております、田辺です」


 田辺は社長をみて、先ほどから気になっていたことを訊く。


「総支配人はどこに?」

「柏木君はもういないよ」


 古瀬は特に表情を変えることなくそれでいて突き放すように告げた。田辺は一瞬頬が引きつったがすぐに表情を戻した。


「もう、いない?」


 田辺はどういうことかとその言葉を繰り返した。


「柏木君は不正をしていてね。昨夜、解雇した」


 さらりと言う社長の言葉に田辺はすぐに呑み込めなかった。この男は何をしたのだ。田辺は古瀬の表情から読み取ろうと顔を見るが、古瀬も田辺の表情を読み取ろとしているのが分かった。きっと、柏木を解雇したと告げて田辺がどう反応するのか楽しんでいるのだろう。古瀬と言う男はそう言う男だと改めて感じた。


「柏木さんが不正、ですか?」


 田辺は慎重に聞く。どういうことかと思った。柏木が不正をするとは考えられない。それに柏木を解雇したと言うのは社長が邪魔者を排除しようとしているのだと感じた。

 ここは下手に動かない方がいいと田辺は慎重になる。無暗に逆らうより今の状況をそのまま受け止めることにした。但し、柏木が不正をしたとは微塵も思っていないが、それも読み取られないように細心の注意を払う。


 そんな田辺の考えをよそに「私が代わりに」そう言うと瀬田が話し始めた。


「柏木さんはホテルの宿泊客に不当な請求をして、正規料金との差額を詐取していました」

「詐取……」


 田辺はその言葉の意味をまたしてもすぐには理解出来なかった。


「被害にあわれた方からも確認がとれています。警察に届け出なかったのは社長の温情です」


 瀬田の言葉にやっと、柏木が解雇されたことを理解した。それもきちんとした証拠もあるらしい。

 田辺は古瀬がいつも使う言いがかりで退職に追い込んだと思っていたがそうではないようだ。いつもと事情が違うことに少なからず驚きながら古瀬と瀬田の様子を伺った。


「柏木君の後任は、この瀬田さんにお願いすることにします」


 今の田辺にとって社長の言葉は何処か遠いものに感じた。柏木は不正などする人物ではない。それにどんな理由があろうとも何も言わずに辞めるような無責任な男でもない。そして後任と言われた男はコンサルタント業だと言っていた。そんな人物にホテルの総支配人が務まるのかと疑問も浮かぶ。


 戻っていいと言われて田辺は総支配人室を出て本館へ向かう。足取りは重い。本能的に本館へと歩いているが、本館に行ってどうするかというと考えすらまともに浮かばない。それなのにどんどん怒りがこみあげてくる。

 社長と瀬田の言葉を反芻する。


 柏木が不正? 


 田辺は柏木から直接どういうことか聞きたかったが、本館へ向かう途中で柏木の携帯に連絡を入れても電波の届かない場所に居るのか連絡がつかなかった。

 田辺は携帯の画面を見ているうちに少し冷静になった。これからどう振る舞うか。自分はどうするのか。自問自答する。


 答えは一つしかない。


 従業員用の通路を使い別館から本館へ行き、フロントに出るドアを開けると団体客が丁度帰る時間でフロント付近は人でごった返していた。

 本館のフロントには田辺の部下の菅田直樹がいた。総支配人の柏木は別館の管理をしていて、本館は副支配人の田辺が担当している。いつもならこの時間、田辺もフロントにいるはずだ。菅田は田辺を見つけると近づいてきた。

 年は三十の少し前だがクールで眼鏡が似合っている、少し老け顔なので初めて会う人は菅田がまだ二十代だと誰も思わない。時々、田辺より年上だと勘違いされるのを気にしている。


「柏木さんが暫く不在にするからここを頼む」


 田辺が告げると菅田はすかさず訊いてきた。


「暫くとはいつまでですか?」


 田辺は分からないと答えた。

 菅田は何かを察したようでそれ以上は聞いてこなかったので助かった。

 これは社長の指示で、柏木のことも瀬田のことも自分から発表するのでそれまで隠すようにと言われている。田辺は今の状況で暫く隠すと言う社長の言葉に違和感を覚えた。

 いつもなら、すぐにでも柏木のやったと思われることを話すはずなのだが……。 あの瀬田の入れ知恵か。瀬田の笑顔には何か裏があるような不気味さを感じていた。 

 柏木が詐欺をしたとは思えないが、肝心の柏木と連絡が取れないので田辺は暫く様子を見ることにした。


「コンサル業ね……」

「えっ?」


 田辺の独り言に菅田が聞き返す。


「何でもない、独り言だ。部屋に戻っているから何かあれば連絡を」


 今ここで菅田に言うわけにもいかずなんとなく誤魔化す。

 柏木が出張の時、田辺は総支配人の業務も兼ねる、そんな時は執務室にいることが常だったのでそれ以上は聞かれることはなかった。


 田辺は本館を出て、今度は別館へ向かう。本館と別館をつなぐ通路を歩いて行くと、先ほどの賑わいとは打って変わって静かだった。別館は長期宿泊用になっているので、人の出入りは本館程ない。

 別館のフロントとは別の場所に設置されたコンシェルジュのブースに田辺の同期の宇佐美響子はいた。

 響子がいるのは別館の宿泊者専用のコンシェルジュサービスを行う場所として機能しているところだ。長い髪を一つに束ねた響子はパソコンを操作しながら何かを調べているようだった。


「どうしたの?」


 顔はパソコンに向かったままで何かを探しながら響子が訊いてくる。


「柏木さんが暫く不在にすることになった」


 田辺がそう言うと、響子は表情を変えずに田辺の方を見る。田辺が何か言ってくるのを待っているようだ。


「どうして?」

「いつもの出張だろ」


 田辺は言葉を濁す。響子がこちらを見て何か言いたそうな顔をしたが、何も聞いてこなかった。


「……分かった」


 響子は納得していない様子だが、それ以上聞いてくることはなく、それにほっとしている自分がいることに気がついた。柏木のことを根掘り葉掘り聞かれたらどう答えようか決めかねているからだ。


 別館の宿泊客と思われる男性が近づいてくる。田辺は響子にまた来るとだけ言い残しその場を離れた。

 響子が対応している声が聞こえる。従業員用のドアを開ける時、何気に振り返ると別館の入り口付近に先ほどの瀬田が立っているのが見えた。瀬田がどうしてここにいるのか気になったが、よく見ると瀬田の隣に社長までいて二人は真剣な表情で響子を見ていた。

 響子がなにかしたのか?田辺は記憶を探るが、響子が表立って社長を非難したことはなかったはずだ。それならどうして響子を見ているのか?

 田辺は二人の様子が気になったが、なんとなく居心地の悪さを感じて別館を後にする。

 副支配人室へと戻り、柏木の仕事と自分の仕事を何とかこなして夜の八時を過ぎたころホテルを出た。

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