第一章 3 あなたを守りたかっただけなの

「いつもは18時解散だが…今日は1時間早めようか。17時解散だ」

柚葉ちゃんが眼鏡を直しながら宣言をする。こうやって眼鏡を触りながら話している時は、この子なりに真剣な時なんだ、というのをわたしは知っている。

こういう様子を見ていると、柚葉ちゃんもやっぱり「部長」なんだということを実感してしまう。

実際、前の先輩が引退した時は、部長を誰にしようかというのは即決だったのだ。

「芽衣は家に帰ったらしっかり休むように!風邪は病み上がりこそ油断できないからな!」


「うん、気を付けるよ。ありがとね柚葉ちゃん」

色んなことが起こりすぎていてすっかり忘れてしまっていたけど、そういえば葉月ちゃんやお母さんはどうしてるんだろう?

捜索願が出ているみたいな話はなかったから、そこまで心配はされていないのかな?

けれど、そうだとしたらだとしたで、それは少し寂しい。

カメリアさんは一体どのような「事後処理」をしたんだろうか。

まだ、あの人…人?のことを、全然知れていない。どうすればいいんだろう。まだ、お話できないかな。


「芽衣、またぼーっとしている。本当に熱でもあるんじゃないか?」

「ひゃっ!?」

そう言って柚葉ちゃんは、急に椅子を立ってわたしの額に手を置いてきた。

わたしの驚いた声に気づかないまま、ずっと額を撫でている。

「ん、んーー…?」

不思議そうに唸っている声が聞こえる。どうしよう、もしかして本当に熱が出てるんじゃ……。

「いや、芽衣よ。これは私の気のせいかもしれないんだが……。」

「えっ……どうしたの柚葉ちゃん」

「君…そんな体温低かったか?やけに冷たい気がする」

まさか、そんなところで気づかれてしまうなんて思いもしなかった。

確かに味の好みが変わったり、っていうような異変はあったけど、体温までは流石に考えもしなかった可能性だ。

そして、柚葉ちゃんは少し考えるような仕草をした後、


「まあ、私の勘違いだろう!きっと熱があるだろうと思い込んで触ったからこそそんなことを考えたに違いない!」

そう自分の中で納得したのか、席にまた座る。良かった。

別に吸血鬼だとばれたところで、なんてことはないのかもしれないけれど。まだそれを明かせるほど自分の中で整理がついていないのだ。

「……とはいえ、本当に体温が下がっているのだとしたらそれはそれで危ない。体温も測っておくことをオススメする」

「う、うん……」

一体何度くらいまで下がっているんだろう。不調な気はしないから、そこまでじゃないと思うけど……。


「そうだ、楓よ!原稿の作業中みたいだがどこまで進んだんだ?」

「あっ…ちょっと待って部長!」

柚葉ちゃんが向き直ると、楓ちゃんの方へと顔を近づける。覗き込むようにして、楓ちゃんの書いた文字を見ようとしているのだろう。

慌てた楓ちゃんがそれを隠そうと、原稿用紙を一気に動かした。

……その時だった。

「いったぁ……」

楓ちゃんが小さく声を漏らす。

「まったく、楓ってばおっちょこちょいだな!まさか原稿用紙で指を切るとは。

それに無理に隠さないでも、どうせ学校全体で公開するんだから私にくらい見せてくれても……ん?芽衣、どうした?」


柚葉ちゃんのその声に、はっと目が覚めたような感覚がした。

何か息が漏れている音がしているような……違う。これは楓ちゃんではない。わたしの口から、漏れているのだ。

「はぁっ……はぁっ……」

慌てて手でその口をふさぐけど、それ以上に何か……変な気持ちが……。

そう、これは。

楓ちゃんが指から流している血に、どうしようもないような"吸血衝動"を覚え始めているのだ。

その指にかじりつきたい。そこから流れる赤い液体を、舐めて啜って自分のものに……。


「ごめんなさい!!」

気づいたらわたしは部室を飛び出していた。こんな様子を二人に見られるわけにはいかない。

もう手遅れかもしれないけど、それ以上に楓ちゃんを傷付けるかもしれない。

そう考えている間にも、どんどん"喉が渇いていく"。

衝動の原因になっている"それ"が離れた後も、止まらないばかりかどんどん衝動が強くなっていく。

自分が自分でなくなってしまうようなどうしようもないほどの不快感に、今すぐにでも何かにかぶりついてしまいたいほどの強烈な喉の渇き。

「どうしよう……どうしたらいいの……カメリアさん……」

無意識のうちに、わたしを助けたらしい人の名を呼ぶ。


「…………そう。こんなに早く、起きてしまったのね。」

何か小さくつぶやくような声。その声の方を見ると、目の前には美しい赤く艶めく髪と、吸い込まれるような瞳の吸血鬼…カメリアさんがいた。

「わたし……どうなっちゃったんですか?」

縋るように声を出す。自分でも笑っちゃいそうなくらい掠れたその声は、彼女に果たして届いているのか。

「それは"吸血衝動"よ。普通に人間社会で生活しているぶんには、そう襲われることはないだろうと踏んでいたけど、まさかこんなに早く……」

吸血鬼といえば血を吸う生き物。それはわたしが、人の血を吸わなければ生きていけない存在になってしまったのだという、残酷なまでに突きつけられる"現実"。

ああ、やっぱりわたしは化け物なんだ。

「……芽衣」

崩れ落ちるわたしに、何か錠剤のようなものが手渡される。

それが何なのかは全くわからなかったけど、なぜか今のわたしにはそれが救いの神か何かに見えた。


「私たち吸血鬼が、人の社会で溶け込めるように作られた代用品よ。それには人の血に限りなく近い成分が入っている。

あなたがもし私にまた会いに来てくれたのなら、すぐに渡そうと思っていたけれど…遅かったみたいね。本当にごめんなさい」

代用品。なら、それを飲めば吸血衝動もどうにかなるのかな……。

「ただし完全に抑え込むには、やはり眷属が必要。…それは"人"である必要はないけれどね。

この街にはいくつもの亜人がいる。人間はその存在が表に出ないところで生きているに過ぎない。

……何故その亜人たちがここで生きていけるかわかる?」

カメリアさんの話を聞きつつ、『サプリメント』を口に運ぶと、確かに喉の渇きがだいぶ収まったような気がする。

しかし、質問の答えは出ない。

「それは人の社会に溶け込めるように、各々が各々の特性を抑えているからなのよ。

…あなたはまだ完全な吸血鬼ではないから、まだ人として生きていくこともそこまで難しくはないはずだけれど……」


違う。わたしが聞きたいのは、そういう話ではない。

人間として生きていく方法とか、そんなことは今は"どうでもいい"。

「…カメリア、さん」

泣きそうになりながら、ただ一つの言葉を紡ぎだす。

「どうして…わたしを助けたりなんか、したんですか」

その言葉を聞くと、カメリアさんは一瞬、すごく悲しそうな顔をした後。

「それはまだ…あなたには言えない。……けれど、これだけは聞いて」


「私はただ、あなたを守りたかっただけなの。」

彼女の言葉の意味は、まだわからなかった。

「……話したいことはすべて話したわ。さあ、あなたの友達が、まだ待っているでしょう。きっとあなたを心配しているはずだわ」

カメリアさんはそう言うと、踵を返してどこかに去ろうとした。その瞳はどこか、とても悲しそうに見えて、そんな彼女が何か放っておけなかった。

「待ってくださいカメリアさん」

「…どうしたの?」

「あの、どうやってここに来たんですか……?」

振りむいたカメリアさんに、ちょっと素っ頓狂なことを聞いてしまった。

今、そんなことを聞かれても彼女が困るだけだなんて、わたしが一番わかってたのに。

「ああ、私は壁を通り抜けることができるから、そうやって来ただけ。

…困っているあなたのもとに、すぐに来ることが出来て本当にこの力には助かっているわ」

しかしそんな不安をよそに、魅惑的な笑みを浮かべるカメリアさんの顔を見ると、なんだかさっきのショックも飛んでいってしまうようだった。

この人のことは、まだあまりよくわからなかった。


カメリアさんが去ったのを確認した後、部室棟の廊下を歩いて、部室のドアを開き、またいつもの日常へと戻る…戻ろうとする。

「遅いぞ芽衣。まったく何をしていたんだ」

「ちょっとトイレに行ってて……」

「それならそれでそう言ってくれればいいのに……芽衣ってば急に飛び出すんだからびっくりしたのよ?もう!」

「あはは……」

「口ではそう言ってるけどな、楓の奴不安でずっと貧乏ゆすりを」

「部長!それは内緒にするって言ったはずでしょ!!??」

やっぱり、わたしの居場所は"ここ"なんだと。そう強く感じた。

化け物になったとしても、きっとそれは変わらないだろう。

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