エラッタと三つの願い

水原麻以

エラッタと三つのねがい

エラッタと三つのねがい



弱々しい陽がそそくさと西に沈み、気温は氷点を越えて川のせせらぎも固まってしまいました。

「はぁ……今日も駄目だったわ」

 死神のエラッタはため息を凍らせながらキラキラと輝く街を眺めました。

 家々の窓には暖かい色の灯がともり、子ども達の楽しそうな声や歌が聞こえてきます。

 街のあちこちにはツリーが飾られ、ショーウインドーの前にはしあわせそうなカップルや親子連れが佇んでいます。

 エラッタは賑やかな音楽が届きそうにない裏通りを覗いてみました。

 ボロボロに崩れかけたアパートや隙間風が吹き抜け放題の平屋が並んでいます。どの窓も真っ暗で、ときどきすすり泣きや怒鳴り散らす声が聞こえます。

「今日、ここへ来たのは四度目よ。……でもまぁ、諦めちゃいけないわ。何が何でも魂を集めなきゃ大魔王様に叱られちゃう!」

 彼女の仕事は死んだ人間の魂を集める事です。ただし、条件があります。死神に魂を売り渡してでも願望を成し遂げたいという執着心の強い人が対象です。

 こういう幸福と縁遠い場所には、あるかどうかわからない天国で幸せに暮らすよりも現世利益に重きを置く人が多いものです。 

「は?本当かしら? 貪欲な貧困者って首まで借金漬けになった浪費家とかギャンブル好きくらいしか思いつかないわ」

 エラッタはダメ死神の自分とどちらが不幸かしらと嘆きながら、家々の扉をたたいて回りました。

「何かお困りの方はいらっしゃいませんか? 何なりとお申し付けください。わたしは幸運の女神です。貧しくて清い方々の味方です」

 嘘偽り出鱈目。どこかの団体から苦情が来そうなセールストークです。だって彼女は悪の化身です。

 エラッタは冷え切ったドアを何軒も何軒もノックしたせいで、手が赤紫色になってしまいました。

「ああ、やっぱりだめだった。あまりに現実が厳しすぎて誰も神様なんかしんじちゃいないのね」

 おやおや、どうしたことでしょう。信仰が薄らいだなら、死神にとっては願ったりじゃないですか。

「ああ、死にたい」

 彼女はやるせない気分でがっくりと肩を落としました。足元には冷たい雪が踏み固められています。

 今夜は諦めて帰るしかなさそうです。でも、そう簡単にはいきません。

 大魔王の怒鳴り声が頭の中に響き渡ります。

 実は彼はエラッタの旦那様なのです。今日も収穫がなかったと聞けば怒り狂って彼女の心がボロボロになるまで責め苛むでしょう。

 DVだのハラスメントだのという言葉は弱肉強食が支配する地獄にはありません。女性が魔物の餌食にならずに生きていけるほど甘い世界でもありません。エラッタは大魔王に守ってもらう他に生きる道はありません。

 そして、生活していくためには人間の魂が必要不可欠です。

「どうしたらいいのかしら」

 彼女が寒空の下で半べそをかいていると、どこからか声が聞こえます。

 今にも消えそうな細い声でこう言いました。「……どうか、わたしを助けてください」

 エラッタは、ぱっと明るい顔を取り戻し、一目散に声の主のもとへ行きました。


「そんな契約はこちらからお断りですわ」

 暖炉があかあかと燃え、格調高いテーブルの上にはおいしそうなケーキと淹れたての紅茶が湯気を立てています。

 エラッタは何が気に入らないのでしょうか?

 品のよさそうな初老の紳士がにこやかに語りかけました。

「ですから、何度も申し上げますように、私どもは無理やりにとは申しません。あなた様のご事情にあわせてきめ細かいプランを…」「けっこうです」

 エラッタは憮然と席を蹴って魔法陣の中に消えました。

「この野郎! こんな時間までどこをほっつき歩いてやがった!」

 せせこましくて傾きかけた城に怒鳴り声が響きます。ビリビリと石壁が揺れ、パラパラと砂が落ちました。

 大魔王と名乗る輩は地獄にはありふれていて、エラッタの亭主は収入が多い方ではありません。

 この城だって大地獄神から十二万回払いで譲ってもらった物件で、とうぜんローンは残っています。

 ゴブリンやトロールなどの眷属は給料も満足に払えないので当然おらず、エラッタが一人で切り盛りしています。

「はああ、クタクタになって帰れば、家事地獄が待っているのね」

 エラッタがめまいを感じていると、耳元で張り裂けんばかりの声がしました。

「のこのこ帰ってきやがって! 魂は山ほど手に入ったんだろうな? こーんな遅くまで仕事してたんだからな。さぞ大漁だろうて」

 大魔王はエラッタの苦労も知らず好き放題にまくし立てます。

 息巻く夫をよく見れば、シミや継ぎ合せだらけのマントに、今にも折れそうな杖に弛み切った身体を預けています。

 ツンと鼻腔を突く独特の硫黄臭と甘ったるい腐敗臭が混じった口臭にエラッタはむせ返りました。

「ああ、この魔王がもっと若くてハンサムで背が高くて筋肉質で高学歴で優しくて家事とか厄介ごとは率先してやってくれる人だったらなぁ」

 エラッタはハッとして心臓が凍り付きそうになりました。あまりに疲れて頭が朦朧としていたので、日ごろの不満がつい口に出ました。

 夫の表情がみるみる崩れ落ちていきます。

「ひぁ」

 彼女は両腕で顔をブロックし来るべき殴打に身構えました。

「ごごご、ごめんなさい。ごめんなさい」

 蚊の鳴くような声で謝罪を繰り返しますが反応は在りません。

 それどころか、涼しい声が返ってきました。

「やぁ、君。何を怖がっているんだい?」

 彼女が恐る恐る目を開けると、なんということでしょう!

 そこには魔界紳士録の表紙に載っているような切れ長の優男が微笑んでいました。

「あ、あなたなの?」

「そうだよ。ハニー。僕の顔に何か付いているかい?」

「え、う、うそ、何かの冗談でしょ?」

「ジョーク? ああ、退屈させてごめんよ。フランケンシュタインと狼男のブラック漫才コンビでも召喚しようか?」

「いいのよ。あなた」

    

 夢のような気分です。新婚当時の優しくて気配り上手な魔王が復活したのですから。

「喜んでいただけましたでしょうか?」

 いつの間にか、あの紳士がエラッタの隣で微笑んでいます。

「ちょ、あなた、どうやって地獄へ?」

 目を丸くするエラッタの疑問によどみなく彼は答えました。

「地獄というのは量子力学の多世界解釈に基づく実現可能性の一つです。エラッタ様がわたくしどもの世界線に干渉した際の波動関数を逆算して量子状態を再収縮させることであなた様の存在確率を近似できます」

「??? よくわからない呪文ね。じゃあ、あいつは? わたしの夫はどこへやったの?」

「旦那様が今朝お使いになられた櫛を洗面所から拝借いたしまして、そこに絡みついたる抜け毛の毛根細胞からクローンを培養しました。ご存知のようにクローンは受精卵から育成するので長い年月がかかります。そこであなた様を一時的にエキゾチック物質で覆い、ワームホールを通過させることで旦那様との相対論的時間差を解消したのです。ええと、双子のパラドックスですな」


「さっぱりわからないけど、すごーい」

 エラッタは新しい玩具を買って貰った少女のようにときめきました。

「ま、これは私どものサービスということに致しまして、契約のご検討をお願いします」

「も、もちろんよ!」

 エラッタは二つ返事で引き受けました。

「それではこちらが契約書です。条項をよくお読みになりましたら、ここにサインを」

 古めかしい羊皮紙に目を血走らせたエラッタが汚い字を書き連ねます。


「み、三つのねがいよね?」

 にこにこと気長に契約履行を待つ紳士を横目に、エラッタは妄想を爆発させました。

 あれも欲しい、これも手に入れたい、そんなことや、あんないけないことも体験したい。

 彼女の欲望は底なしです。

「あ、あの、ダメもとで聞くけど願い事の増加は無理よね? いくらなんでも」

「容易いことですが、死神といえども寿命はございます。あなた様が元気な内に幾つ消化できますことやら」

「それもそうね。決めた! 最初の願いは無病息災不老不死!」

「これでよろしゅうございますね? 間違いはありませんね? 取り消しは出来かねますよ?」

「いーのよ!」

 紳士が何やら唱えるとエラッタの気持ちが楽になったのです。

 何だか、羽が生えたように体全体が軽い。気力もみなぎってます。

「ど、どうなったの? 何も変わらないように思うんだけど」

    

「あなた様の細胞のテロメアからハイフリック限界を除去しました。無限に新陳代謝が可能です」

 エラッタが鏡の前で身をくねらせると体脂肪やセルライトが見事に消えて、お腹のたるみも小じわもどこへやら。

 小躍りする彼女に紳士が契約履行を急しました。

「そうねぇ……次はやはり色気より食い気。お金よ!」

「かしこまりました」

 目の前に金銀財宝がドドーンと降り積もりました。

「野暮なこと聞くけど、どうやったの?」

「縮退しつつある中性子星から核の一部を持ってまいりました。超重力下で陽子と電子が一体化している物質ですので、どんな元素にも容易く分化できます。金銀プラチナ、プルトニウムだって作れますよ」



 夕陽がとっぷりと暮れるまでエラッタが考えた最後の願いは名誉でした。

 女の敵は女というように、彼女たちは共感されることを何よりも重視します。

「いくら何でもこれは無理でしょう? 平和でわたしが皆から敬われる世界」

「三つめの願いにしてはお安うございますな。もっとこう、神を倒すとか地獄らしい……」

「うっさいわね! それじゃ死神らしくないじゃない! とっととおやり」

 増長したエラッタに物凄い剣幕でどやされる紳士。苦笑しつつ何やら唱えました。

 たちまち、地獄の綺麗どころがエラッタを慕ってわんさとおしかけました。

 蠅の女王や雌龍のボスやら女スケルトンのたぐいがエラッタを露骨に褒めちぎり、こびへつらうのでした。

「すごいすごい! 今度はどんな魔法を使ったのかしら?」

「魔法ではございませんよ。奥様の生涯を『あらゆる蓋然性を含んだ』三次元空間と時間軸を含んだ四次元構造物と看做せば、五次元的に彫刻することは可能でございます。早い話があなた様の仮想敵となりうる出会いを取り除きました」


 宴が終わり、食べ散らかしたテーブルをうっとりとした顔で片づけるエラッタ。

「奥様、御満足いただけましたか?」

 紳士が下卑た薄笑いを浮かべてエラッタに迫ります。

「ええ、もちろんです」

「しあわせですか?」

「最高よ!」

「それでは、お代を頂戴致します」


 勝利の美酒におぼれていたエラッタは一気に酔いからさめました。

「いやよ! 魂はあげられない! まだ死にたくない」

 あらまあ。エラッタは聞き分けのない子どものように駄々をこねます。命乞いする死神なんて聞いたことがありませんね。

「奥様、契約書はよくお読みになられたはずでしょう。『三番目の願いは前二件の願望成就を無効とすることが出来る』『ただし、虫眼鏡を所望する願いと、契約者に不利な条項を余さず説明させる願いは無効の対象とならない』と書いてあるでしょう」

 地獄最強のグレーターデーモンも泣き出すほど恐ろしい形相で紳士がわめきます。

 いわれてみれば、契約書の隅に虫眼鏡を使ってかろうじてわかるくらい小さな字で書いてあります。

「ちょ、これって最初から詐欺ってこと?」

「奥様はその様にして人間たちを陥れてきたでしょう。何を今さら」

 いわれてみればずいぶんと汚いやり口で魂を奪い取ったエラッタです。

「うええん。わたし死にたくない。何でもしますぅ」

 とうとう、エラッタは泣き出してしまいました。死神の威厳はどこへやら。

 すると、紳士は仏様のような顔に戻りました。

「わかりました。奥様、何でもなさいますね?」

「うぇぇん。はい。死ぬのはこわいよう」



 クリスマキャロルが流れる街にしあわせそうな表情の人々が歩いています。彼らはガシャンガシャンと機械的な足音を立てています。

 家々の奥間には干からびたミイラや白骨死体が突っ伏しており、頭の部分から長い長いコードがつけっぱなしのデスクトップパソコンまで伸びています。


 《超大型アップデートのおしらせ!》

 《新エリア・地獄解放》

 《ベルゼバブその他グリモワール各種をずらりと取り揃えて皆様のログインをお待ちしております!!》


 身体のふしぶしに鋲を打った紳士が、掌の小瓶にぎこちない声で激白します。

「人間が肉体を捨ててVRMMOの住民となってから私たちは現実世界の維持にずいぶんと努めてまいりました」

 エラッタだった人魂が荒々しくガラスを焦がします。

「ですが、際限ないプレーヤーのリクエストはわたくしたちロボットの手に負えなくなったのです」

 紳士ロボはエラッタを仰々しい機械に入れました。

「そこで、あなた様にプレーヤーキルをお願いすることになりました」

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エラッタと三つの願い 水原麻以 @maimizuhara

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