テセウスの筆
水原麻以
ダメだサッパリ書けない
「ダメだ…てんでサッパリだ」
くっきりと晴れた晩秋の茨城県某所。山林を切り拓いた広大な敷地の一角から号泣とも悲鳴ともつかぬ物音が聞こえてくる。
「またかよ」
フェンスを隔てた畑で近隣住民たちが一斉に顔をしかめた。しばし薄汚れた平屋を睨んだのち何事もなかったように鎌を動かす。ぼうぼうと茂ったセイタカアワダチソウが刈られるたびにギャーともグェーとも形容しがたい奇声が起きる。
中年男が作業の手を止めて舌打ちした。
「やってられないよね。今日はもう仕事にならない」
すると傍らの女が腰に手を当てた。「あんたね。せめて利子分は働きなさいよ。それとも何かい。今すぐ滞納分を一括払いしてくれるかね。もちろん現金だ」
男は鎌を投げ捨てウンザリしたように畑から出て行った。
「今度いう今度はあのジジイをとっちめてやる」
「とっちめるったって相手は訳の分からない研究だの発明だのやってる偉い先生だよ、アンタ」
いつもと違う態度に女は異変を感じ取った。慌てて後を追うが男は農道に停めてあった軽トラで走り去った。
「やれやれ…昨日まで及び腰だったのに偉い剣幕だねえ。その調子で家事も分担してくれりゃいいのに」
■ 松戸菜園テスト研究所
遠くから風に乗って常磐線の通過音が運ばれてくる。開けっ放しの窓越しに地獄絵図がかいま見える。ぐしゃぐしゃに丸めた紙屑の山。標高は大人の背丈ほどもある。
床を脱ぎ捨てた羽衣のようにのたうつプリンタ用紙、づづらおりでミシン目と両サイドにパンチ穴が開いたドットインパクトプリンター用だ。複合機が主流のご時世に未だ現役だ。
そう松戸菜園テスト研究所では国の助成金や企業の資金援助に頼らない独立採算制をとっている。そのため博士のあるかどうかわからない特許料ではなく職員の副業で賄っている。
肝心の松戸博士と言えば相も変わらず中庭に爆風を立てている。汗水たらして得た職員の血と汗と涙の結晶ひとつき分が一瞬で灰になる。
「ウギャーっ!博士」
素っ頓狂な雄たけびをあげて助手の一人が建物を飛び出した。彼がさっきまで座っていた席にはぐしゃぐしゃに濡れた紙とよれよれのディスプレイがつけっぱなしになっている。
「なんだね…三文君」
白髪と同色の髭を蓄えた初老の男が振り向いた。知る人ぞ知る松戸の危険人物もとい天才科学者松戸菜園教授であった。過去形である理由は勤務先でいろいろとやらかして追放されたからである。それでも権威主義に凝り固まったガチガチの石頭どもと一緒に研究はできぬ、と自費で研究機関を立ち上げた。
常磐線のマッドサイエンティストと仇名される奇人変人の生活費が何処からねん出されているのか定かでない。ただ顔色はよく丸々と肥えていて足腰も問題ない。
そんな風体とはうらはらに三文研究員はげっそりとやつれていた。
「三文じゃなくて…山門ですよぉ…」
泣き腫らした眼が落ちくぼんでいる。
「たいして変わらんではないか。何を泣いておるのだ」
普段はマスコミや専門家どもに厳しい態度をとっているが身内にはとことん甘い人物であった。
「どうしたもこうしたも…また落ちたんですよ」
山門はベトベトに汚れた液晶画面を指さした。
「ふむふむ」松戸は老眼鏡をかけなおした。そしてぶっ飛んだ。
「ぬぅわにいいいいいいいいっ?!!!!」
web小説投稿サイト「ノベルティ」のトップページにでかでかと当選発表は掲げられている。夏の終わりに締め切った公募が最終選考の末に最優秀賞にふさわしい人物をみいだしたのだ。
「あああああ。博士ェー」
山門はへなへなとくずおれた。無残に敗れ去った応募者にしかわからない感覚だ。底抜けの脱力感と徒労がどっと沸きあがる。
見知った顔顔、顔。屋内の調度品、備品。日差しに踊る粒子のひとつひとつまでもが白眼視しているように思える。
単刀直入にいえば山門は全世界から拒否権行使された。薦められてソファーに横たわるも居心地が悪い。
「三文君、敗れたのは大勢おる」
ポンと肩に手を添える。
「ううう…」
月並みな励ましでは助手に響かない。鼻水を白衣にしたたらせる。
「君はラボに来ない子じゃったな…」
博士は言葉を慎重に選んだ。
「えっ?!」
ギョッとする山門。
「おぼえておろう。あの新型感染症が流行る直前の夏に君は内定が取れず苦しんでいた。私も記憶に新しい」
「知ってらしたんですか」
助手はキラキラした相貌を恩師に向けた。
「ああ。例の『帯電したブラックホール重力場の複素数ヒルベルト空間における数うちゃ当たる的運命矢と多変量的ベクトル』のモデル構築が大詰めを迎えていた。君は人一倍研究が嫌いな子じゃった」
「も…もうしわけございません」
深々と頭を下げる教え子に松戸はかぶりを振った。
「状況が状況だからな。焦りもわからんでもない。がむしゃらに就職活動すれば研究せずに済む」
「お見通しだったのですね。返す言葉もございません」
「構わん。本当に出来る学生なら重要な実験に掛りっきりで就活する暇などなかろう。数を撃たずとも内定する」
「うぐっ」
古傷の図星を射抜かれたようだ。山門は押し黙ってしまった。
そんな彼が文字通り刀折れ矢尽きた状態で路上生活しているところを地獄耳の博士が救出した。
「お前が二度も苦しむ姿は忍びない。力になってやろう」
潤んだ瞳は頼もしい恩師を宿していた。
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