23歳 その2

 目が覚めると、世界は桃色だった。

「あれ?」

「涼君」

 目の前には、ククが居た。

「クク」

「お疲れ様」

「あ、ああ」

 そう言う事か。

「ここは、もう天国って訳か」

 驚いた。死ぬ時の痛みも走馬灯も何にも無い。気がつけば、もう天国へ連れてこられてしまっていた。

 だが、ククはそれをやんわりと否定する。

「違うよ、ここはまだ天国なんかじゃない。だって、涼君の命はまだ機能してるんだもん。まだ死んだ訳じゃ無いのよ」

「じゃあ、ここは?」

「ここはね、人が死ぬ前に、最期に訪れる場所だよ。体から解き放たれて、それでも束の間、この世界を見渡せる場所。だから……」

 そう言って、ククは近寄ってきて、僕の手を握った。初めて感じる、ククの手の感触だった。

「ね?」

 ククは少しだけ悪戯めいて言う。その感触は、想像していたよりも冷たくて、けれどもやっぱり、優しかった。

「僕は、どうなったんだ?」

「涼君はね、車に撥ねられて、今は病院のベッドだよ」

「そうか……、美玖は?」

「あの子は膝を擦りむいただけだよ。心には、大きな傷があるかもしれないけどね」

 ククは、そう言って向こうを向いた。

「それは、やっぱり僕のせい?」

「当たり前でしょ。目の前でお兄ちゃんが、ううん、大好きなお兄ちゃんが、自分を庇って、今病院に担ぎ込まれてるんだよ。傷つかない妹がいるわけないでしょ」

「でも、それは仕方ないよ。決まってた事だったんだ。だろ?」

「そうだけど……、涼君は、本当によかったの?」

「……ああ、これでよかったんだよ」

 ふいに頭に、あの夜の光景が浮かぶ。


「どう言う事だ?」

 ククから流れ出る涙は止まらない。

「私がこの事を教えたんだからさ、涼君は、その運命から逃げる事が出来るじゃない」

「え?」

 ククの言っている事が、すぐには理解できなかった。だがそれは、至極当然な考えだと気づく。そう、知っているのなら、その日を逃げてしまえばいい。それは、もっともな考えだ。だが、何かおかしい……。

「クク?」

 ククの顔は、悲しい微笑みを湛えたままだ。その奥に、一杯の悲しみを押し隠している、そんな顔だ。

「僕が逃げたら、それからどうなるんだ?」

 ククの顔が凍りつく。唇は引きつるように笑った形のまま、瞳は煌々と見開いている。

「何で、そんな事、聞くの?」

「え、何でって……」

「聞かれたらっ! ……答えなきゃいけないんだから」

 ククは、下を向いて叫んだ。そして、そのままゆっくりと、しゃべり始める。

「……涼、君が……、この運命から、逃げたら……、美玖ちゃんが、死ぬよ」

 ――美玖が?

 ククの言葉が理解できないまま、必死で飲み込もうとする。だが、重たい思考は砂のように、口の水気だけを奪って、体の中には入ってこない。

「だって、涼君は……、美玖ちゃんを、助ける、為に……」

 ククの声は、掠れて張り付いて、よく聞こえなかった。でも、伝えたいだろう気持ちは、全部伝わってきた。

 自分でも、何て言ったらいいかわからなかった。ただ、全てを嘘だと思いたい自分が、逃げ出したい自分が、心の中で暴れ狂っている。それを、必死で繋ぎとめていたのは、ククを信頼し、美玖を大事に思う、自分だった。

「ね?」

 ククは、そこで顔をあげた。もう、何も隠そうとはしていない。そこには、顔をぐしゃぐしゃに濡らしたククの顔があった。

「こんなの、聞いちゃったらさ……、涼君、絶対に、逃げないもんね、逃げられないもんね」

 そしてククは顔を抑えて、静かに静かに、しゃがみこんだ。

「……なかった」

 ククの微かな嗚咽に混じり、消え入りそうな言葉が、何度も聞こえてきた。

 ――言いたくなかった……。

 そう、聞こえてきた。

 しばらく僕は、どうしていいのかわからず、ククを眺めていた。ベッドに力無く座り、ぼんやりと、天井を眺めたりもした。

 ――僕、死ぬのか……。

 頭にまず浮かんだのは、驚く事に、自分が10年後に死ぬと言う恐怖より、美玖を死なせる訳にはいかないと言う、不思議な使命感だった。

「ごめんね……」

 少しして、ククは顔を拭いながら立ち上がった。そして、先程の言葉を繰り返す。

「言ったでしょ、分岐点だって……」

 そこでククは、ちょこんと僕の隣に座った。

「こんな、恐怖を抱えたまま生きていきたくないでしょ?」

「え?」

「簡単だよ。運命は変えられないけど、私の事が見えなくなれば、全てを忘れて、その日まで明るく過ごせるよ」

 ククの声は努めて明るくしているように聞こえた。

「それって……ククの存在を、忘れるって事か?」

「うん、言ったでしょ? 死神はその存在が見えなくなれば、それまでの死神の記憶は全部忘れるって……」

 ククはこっちを向いて、一つ頷いた。


「でも……、涼君は、肯かなかった」

 桃色の世界の中で、ククは、嬉しそうにも寂しそうにもとれる声を出した。

「ククが見えなくなるのは嫌だ! 僕はククを忘れたくないし、美玖も守りたい! だから、何もしなくていいんだ!」

「そ、そんなかっこよく言ったっけ?」

「わかんない、少し大げさかもしれないけど、私の目には、こう映ったんだもん」

 その時、ククは僕の元へ来て、いきなり抱きついた。

 ククの体は、軽かった。

「嬉しかった……、でも、辛かったよ……」

「クク……」

 背中に手を回す。その髪を指で梳く。頭を撫でてやる。背中をトントンと叩く。

 今まで出来なかった事が、全部出来る。手を触れられなかったククに、僕は今、手が届いている。それは、自分が死んだ事も忘れてしまうくらい、愛おしく感じた。

「クク」

 名前を呼んで、顔を前に持ってくる。それから、泣いている顔を手で拭ってやる。

「ごめんね……、涼君……」

「謝る事なんか無いだろ」

「でも……」

「クク」

「……うん」

 そう言うと、ククは自分の顔を両手でゴシゴシと擦った。

 僕は少しククから体を離し、言った。

「ククさん」

 座っているククの前で、跪くポーズを取る。

「今夜は、私と、踊って戴けませんでしょ……」

「えぇ、喜んで」

 ククはすっと僕の手を取ると、そのまま立たせた。ククの手が、僕の腰に触れる。僕もそれに倣う。

「最後まで言わせろよ」

「ごめんね、何か、……嬉しくって」

 涙が零れそうなのに、顔は満面の笑みだった。

 周りの空気が急速に軽くなり、時間は緩やかになった。

 音楽は何も無いし、普段はあった僕の足音もここには無い。あるのは、ククと僕の声と、僕達が紡ぎだす独特の空気。それは、僕とククが長い時間をかけて作ってきた、空気だった。

 ククの指は、こんなに細くて綺麗だったんだ。腰回り、やっぱり改めて触れると緊張するな。笑顔はいつもと変わらないのに、何で、こんなに、暖かいんだろう……。

 今まで気づかなかったものが、次々と体に染み込んでいく。それは、喜びだし、寂しさだった。これが、最期のダンスになるのかなと、ぼんやりとでも思えば、寂しくもなる。

『お兄ちゃん、死んじゃやだ!』

 瞬間、美玖がベッドの横で、僕の手を握っている姿が浮かぶ。その手には、美玖に買ってもらった腕時計。傍らの心音計は、あまり大きくはない数字。両親も、逆側に座っている。

 ダンスの足を止めずに、左手に目をやる。時計は、僕の腕にはまっていた。だけど残念な事に、その時計はもう止まってしまっていた。

 ――みんなにも、迷惑かけるな……。

「ダメ……」

 そこで、ククは足を動かすのを止めた。そして、僕の顔を見ながら言った。

「やっぱり……、ダメだよ……」

 その顔は、再び涙で濡れている。

「クク?」

「ダメだよ、涼君は、こんな所で終わっちゃダメ! もっと、もっともっと一杯、沢山のものを見て、聞いて、触って、一杯一杯、沢山の人と出会って、色んな事感じて、一杯、恋もして……、ダメだよ、涼君は、……終わっちゃダメだよ」

 ククは、搾り出すように言った。

 そしてそのまま、僕の事を抱きしめた。強く、強く抱きしめながら、耳元で囁いた。

「私が、涼君の命になる……。だから、生きて」

 耳を擽るその言葉を、僕は、心のどこで聞いていたんだろう……。


 ――うっ……。

 体中に痛みを感じた。まるで、自分の体が別のものになってしまったみたいだ。

 ゆっくりと開けた瞼の重みは、瞼の上にバーベルでも乗っているのでは無いかと思うほどだった。

「おにい……ちゃん?」

 美玖は、変わらずに僕の手を握っていた。

 ――美玖、膝、大丈夫か?

 言いたかったが、言葉にはならなかった。

 美玖は僕にちょっと待っててねと言うと、廊下へと駆けて行った。遠くから、お母さん、お兄ちゃんがと言う声が聞こえてくる。

 美玖が握っていた手を見ると、昨日貰った時計が目に付いた。表面はヒビだらけなのに、何故だか針は動いていた。


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