19歳~20歳

『19歳』


 美玖は、中学2年生になった。


 夏の太陽がさんさんと照りつける中、僕は大学の構内を歩いていた。

 あれだけ大学には行かないと心に決めていたのに、母親の一掬の涙であっさりと秋口から猛勉強を始めた。そういえば、高校進学の時も同じ事を言われて、程度の差はあれど同じような理由で進学を決意した事を思い出した。

 ふいに、唇の端があがる。

 結局僕が親孝行と捉えていたものが、親にとっては親不孝としか映っていなかったのだから、皮肉な話だ。だからと言って、僕は23歳で死ぬから進学なんて無駄だ、とは口が裂けても言えない。言ったところで、信じてもらえる訳でもないだろう。

 一度進学を志したからには、出来る限り負担をかけまいと上を目指した。だが、結局秋口からの勉強で追いつく筈もなく、それでも努力の甲斐も少しはあったようで、国立とはいかないが、公立の大学に滑り込むことが出来た。両親は、それはそれは大仰に喜んでくれた。だから、これでよしとするべきなのだろう。

 入学してすぐはコンビニでバイトをしたりもしたが、結局肌に合わなくて三ヶ月もしない内に辞めてしまった。だから日々の殆どは、家と大学の往復で満たされている。そこにククと言う味の知れたスパイスが加われば、日々はそれなりに輝いた。先の見えた自分だからこそ、この光が見えたのかとも思うと、苦笑せざるを得ない。

「涼君、今日の授業は、倫理と現国ですわよ」

「知っているよ。って言うか、何の真似だそれは」

 ククは僕の目の前で、僕の歩く速度と同じ速度で浮かぶ。そして、そこに存在しない眼鏡をくいっと持ち上げながら、先生気取りでそんな事を言う。

 ククの姿は、相変わらず何も変わらない。でも心なしか、ククが魅力的に映る瞬間がある。

 兄弟のようでもあり、いつも傍に居る妻のようでもあり、見守り続けてくれる母のようでもある。僕はククにそんな居心地の良さを感じていた。勿論、それは僕がとても幼かった頃から、ずっと感じてきた事だとは思う。でも、それが実感として心に落ち着き始めたのはつい最近だ。それはククが変わったのでは無く、僕に訪れた変化なのだろう。気がつけば、誰よりもククと離れたくないと思う自分がいた。死にたくないと思うよりも強く、そう思う自分がいてしまう。だから、僕の中でのククの位置は、両親よりも、俊介よりも、美玖よりも上なのかもしれない。

 だが、ククにその事を言ったことは無い。言った所で、現実は何も変わらない。声に出さなくても伝わるものがあり、声に出さないと伝わらないものもある。そして、矛盾した考えだが、伝えたいが声に出したくないものや、声に出した途端に熱を失ってしまう想いもある。自分の心に根付いた小さな種火がどちらであるかは、僕にはわからない。

「ちゃんと頑張れば、卒業出来るんだから、手を抜いちゃ駄目なんだぞ」

 太陽光の中で、僕の死神はクルクルと回る。

 暗いイメージなどどこにも無い、そこにいるのは、ただ天真爛漫とした一人の女の子に映った。僕の世界にしか存在出来ない、明るく元気な女の子。しかしてその実体は、僕専属の死神。

 そう思いつき、思わず吹き出してしまった。

「どうしたの急に」

 尋ねるククに何でもないと返し、もう一度彼女を見る。

 僕の世界にしかいない女の子、クク。それは言い換えれば、夢の世界の住人のようだった。夢を見ている本人の前にだけ、その子は現れる。なんて儚い存在なのだろう。そして、それ故に光輝いているのかもしれない。

 ククはふわっと飛んでいき、太陽の加護を避けるように構内に入り僕を手招きする。死神の手招きを受け入れた所で、チャイムが鳴り響いた。

 ――やば、のんびりし過ぎた。

「ほら、涼君ダッシュ!」

 慌てながら僕よりも先に飛び出していくククを眺めながら、どっちが生徒なんだかと苦笑し、急いでその後を追いかけた。




 『20歳』


 美玖は、中学三年生になった。


「お兄ちゃん、……行こう」

「ああ、先に行っててくれ。すぐに行くから」

 美玖に背中で伝えたまま、僕はランドセルを抱えていた。物を大事にする主義の我が家では、懐かしい思い出の品は全部取ってある。でも、今抱えているこのランドセルが、本当の本当に思い出になってしまう日が来てしまった。名残惜しく抱きしめ、机の上に戻す。積もっていた埃が、僕が触れて仲間をこそぎ落とした事を主張していた。

 昨日の朝、病院から電話があった。秋口から入院していたおばあちゃんが、息を引き取ったのだ。

 最後にお見舞いに行ったのは、いつだっただろう。僕は美玖程熱心に、おばあちゃんの元へ行く事をしなかった。後悔と言う程では無いが、もっと行っておけばよかったという、虚無感が心を占めていた。

「ほら、涼君。お母さん達、待ってるよ」

 ククが僕の顔を覗きながら言う。口元は笑みを浮べようとしているが、その眉は少し震えている。

「やっぱり、ばあちゃんにも死神がついてたんだよな」

「うん……、まぁね」

 ――何ともバツの悪そうに答えたもんだ。

 僕はククに軽く微笑みを返して、そのまま階段を下りた。


 坊さんの読経が朗々と響く。その淀みなさが殊更異質な空間を作り出していた。

 横を向くと、美玖が沈んだ顔をしている。きっと、僕もそんな顔をしているのだろう。

 僕も美玖もおばあちゃんが大好きだった。僕達にとって近しい祖母は、このおばあちゃんだけだった。ランドセルの他にも、沢山沢山色んなものを買ってもらったし、一杯撫でて貰った。そのシワシワの手に親しみを、温もりを教えて貰った。人に触れる優しさを教えて貰った。

 与えてもらったものが多すぎて、全てを思い出せない。きっと、僕達が物心つく前から、沢山沢山……。

「涼君、元気出して」

 ククが僕の目の前に浮かびながら、無理矢理作った笑顔で言う。無茶を言うなとも思ったが、ククの心遣いもわかるから、小さく頷く。

 坊さんの声が止み、こちらに振り向く。一つの儀式が終わりを告げる。


 火葬場で、おばあちゃんの骨を箸で摘んだ。そこには、暖かく刻まれた皺も、心を満たしてくれる優しさも無く、ただ、驚く程に赤白い骨が綺麗に並んでいるだけだった。

 美玖は途中から、涙を堪えるのを止めていた。優しい妹だと思う。

 一つ一つ、慈しむように渡しても、結局骨壷に入りきらないと、係りのおじさんが木の棒で磨り潰す。その様子が、あまりに無慈悲に感じられて、少し悲しくなった。そうされてしまうおばあちゃんにもだが、死に慣れ過ぎてしまったおじさんにもだ。

 父さんの車に揺られて家に帰ってきた時には、もう陽もとっぷり暮れていた。他の参列者に振舞われたお弁当の残りを食べ、部屋に戻ってからククに尋ねた。

「なぁ、クク」

「何?」

「人ってさ、死んだらどうなるんだ?」

 自分がもうすぐ死ぬからとかは関係無かった。ただ、今日改めて身近な死に触れて、少し思ったのだ。おばあちゃんが死んでしまったのは、確かに悲しい。悲しい事だと思う。でも、今の僕の中には、悲しいと言う感情はほとんど無かった。それよりも、今までのおばあちゃんとの思い出がありありと浮かび、むしろありがたい気持ちにさえなっていた。

「わかんない」

「わかんないって、お前死神だろ?」

「だって、わかんないんだもん」

 口を尖らせながら言う。

「私にわかってるのは、涼君の魂が肉体から離れたら、それを別のとこに連れて行くって事だけ」

「別のとこって、天国か?」

「そう呼ばれてるけど、よくわかんない。名前なんて、元々そんなに意味のあるものじゃないから」

 ククはそこでふわりと天井まで浮かび、こっちを眺めてくる。

「人間の体と魂って、よく出来てるよね。私みたいな存在でも、ちゃんと実感出来るもん。ねぇねぇ、涼君は命ってなんだと思う?」

「え? なんだって? 説明が難しいなあ」

「人間って、命は一つしかない、とか、大事にしなさいとかって言う癖に、じゃあ、命って何、って聞かれても、具体的には即答できないよね。変なの」

 ククは茶化す訳でもなく、ただ疑問を口にしているだけのようだ。だがそこには、こんなに簡単な事がどうして分からないのかと言うような意味合いが感じ取れる。まるで、1と1を足したら2になるのに、どうしてそこで考え込むのか、とでも言うように。

「じゃあ、命って、何なんだよ?」

「簡単だよ。命って、糸だし、紐だし、そういうもの」

 ククは再び僕の横に座る。

「体と魂を繋ぎとめて、本来二つの物を一つに見せようとしてる、ある意味くびきのような物だよ」

「くびき?」

「まぁ、魂が自由に飛び立つのを邪魔する、枷みたいな物、って事かな。勿論、魂が飛び立ったら、体から離れちゃう訳だからさ、それはさすがにまずいんだけどね。それを防いでるのが、命って言う糸な訳よ。この糸がぱちんと切れて、体と魂が離れちゃったら、晴れて自由になるわけね」

 ククの話が、わかるようでわからない。

「でも、負荷が大きい方が、伸びる速度は速いでしょ? だから、人間は不自由な体を使いながら、魂を磨いていくのよ」

「つまり、どういう事だ?」

「つまりは……」

 ククは、僕の目の前まで顔を近づけた。触れられないとわかっていても、やっぱり気恥ずかしい。

「な、何だよ……」

「そんなに怖がらなくても、大丈夫って事、……かな」

「かなって……」

「はは、私もよくわかんなくなっちゃった」

 ククはそこでまたクルリと周り、一度うーんと伸びをした。

「本当はこうやって、自分の罪悪感を軽くしてるだけなのかもしれない」

 天井を見つめながら言うククの姿は、何だか寂しそうだった。

 そのままククは机の上まで飛び、ランドセルを眺める。

「この子も磨いてあげたら? お世話になったんでしょ? おばあちゃんの形見だしね」

 悪戯っぽく笑った。その妙にくすぐったい笑顔が、さっきまでの現実の重さを軽くするように感じた。

「そうだな、綺麗にしてやるか」

 部屋の隅にある清掃用のふきんで磨いてやる。今でも磨けば、綺麗に黒光りするはずだ。拭きながら、頭に浮かぶのはおばあちゃんの事だった。そして、そんな僕の頭の上には、ククが嬉しそうに浮かんでいた。


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