走ろメロス
みし
走ろメロス
ディオニス(ディオニュシオス)は激怒した。彼は、かの邪智暴虐の王である。ディオニスには政治が分かる。ディオニスは、元々市の役人である。だが宿敵カルタゴと戦い、それを退けたがゆえに、王に担ぎ上げられた身である。それゆえ、市を守る事に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明ディオニスは戦地を出発し、船に乗り海を越え、百里はなれた此のシラクス(シュラクサイ、現在のシラクサ)の市に帰ってきた。ディオニスは孤独である。暗殺を恐れ、理容師に髪を切らせず、刃物の代わりに胡桃の殻をこすり髪を燃やす。シラクスの市を守る為には死ぬまで髪の毛一本で釣り降ろされている抜き身の剣がぶら下がっている玉座に座り続けなければ成らないのだ。でなければ、いまだに暴虐無道なアテナイの爪跡残るこの市を誰が守ると言うのであろう。東にはカルタゴと言う脅威があり、西はラケダイモン(スパルタ)と盟約を結んでいるもののテーバイが脅威となりつつあり、その裏ではペルシアが策動している。ペロポネソスでアテナイ側についたシケリアの反シラクス都市も内在する脅威だ。一時も油断ならない。アテナイ貴族の哲学者はろくでもない提言をするし、家中にも市井にも私慾に目が眩み王座を狙おうとする輩が絶えない。帰城早々、ディオニスは家臣と言い争いをしていた。
「何故、王は、人を殺すのか?」
「殺さねばならぬからだ。」
「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬのではないではないでしょうか?」
「貴族どもの語らいに耳を立てて聞いたことはあるのか?カルタゴの横暴をお前はその目で見た事があるのか?」
「それほど、たくさんの人を殺さなくても良いのでしょうか?」
「奴隷になるのを拒み、名誉ある死を選んだだけであろう。」
「しかし、家族を、賢臣を、良き市民を、殺されなさった。」
「親を売ろうとする子は家族といわぬ。国を売ろうとする家臣を賢臣といわぬ。屋敷に押し入り掠奪するような輩を良き市民とはいわぬ。」
「王はお人を信じぬことが出来ぬのですか?」
「信じることなど出来ようか?では、ソクラテスは生をまっとうできたか?野に居る哲学者風情ならそれでもよかろうが、王は群衆の暴走如きで死ぬわけにはならぬ。」
論争を遮る様に、そこに連れられてこられたのがメロスと言う男だ。買い物を背負ったままで、王城に忍び込んできた単純な男らしい。巡邏が逮捕したところメロスの懐中から短剣が出てきた。そのため王の前にメロスが引き出され、家臣との会話はが打ち切られる。暴君は面白そうな奴が来たと心中に笑みを浮かべる。
「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳をともなった声で問い詰める。寝不足であるため、顔は蒼白で、絶えない戦の所為で眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。「市を暴君の手から救うのだ。」とメロスは悪びれずに答えた。
「おまえがか?」王は、失笑した。「どうしようも無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ」
「言うな!」とメロスは、いきり立って反駁した。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君はつぶやく。亡き義父ヘルモクラテスの事を思い出す。亡き義父は暴虐無道のアテナイからシラクスを守った英雄だ。それを追放し、内戦に乗じて暗殺したのは、こともあろうか市民である。暴君は想記する「わしだって、平和を望んでいるのだが――」その先を飲み込んだところで、
「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」こんどはメロスが嘲笑した。「罪の無い人を殺して、何が平和だ。」
「だまれ、下賤の者。」王は、苦労を知らぬものめとメロスを侮蔑する。「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔になってから、泣いて詫わびたって聞かぬぞ。」
「ああ、王は悧巧だ。自惚ぼれているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」
「ばかな。」と暴君は、低く笑った。「とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」我が義父は帰ってきて死んだのだと言う意味を言外に臥せる。
「そうです。帰って来るのです。」メロスは必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」
それを聞いて王は、憐憫な気持で、そっとほくそえむ。この世間知らずめが生意気を言う。どうせ帰って来ないであろう。実際そうして去っていたものも多いのだ。だが、この世間知らずの嘘つきめに騙だまされた振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。
「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」
「なに、何をおっしゃる。」
「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」
メロスは口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。
竹馬の友、セリヌンティウスは、深夜、王城に召された。暴君ディオニスの面前で、佳き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。メロスは、友に一切の事情を語った。セリヌンティウスは無言でうなずき、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスは、縄打たれた。メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。
「石工のセリヌンティウスか」
暴君は疑い深い。必ず自分で確認し、密かな語らいすら漏らさず聞くのである。石工のセリヌンティウスについても以前から知っている。しかし自ら作った牢獄に自ら入るとは何と皮肉な事かと暴君は思う。盗聴機構付きの石造りの牢獄は暴君がセリヌンティウスに作らせたモノである。
メロスが旅立った後、「賊が出没しております。」と報告がある。暴君の仕事は市を守る事である。如何なる事態にも即応しなければならぬ。王は寝台から飛び起き兵を集め指令を下す。「シラクスに忍び込もうとしている賊を生きて返すな。」――それがカルタゴの賊であろうが、民主派であろうが。
賊対策が一段落した朝。暴君ディオニスは議会に顔を出す。民主政は形骸化したとはいえ、市民議会は存在する。暴君ディオニスの方針を追認するだけの機関に成り下がったとはいえ、法案を立案し、議論し、採決しなければ成らぬのだ。その後、城壁を確認する。ペロポネソス戦争時のアテナイ市民の暴虐非道の疵痕が未だシケリア(シチリア)の地に残っているのだ。アテナイは退けたものの弱体化したシケリアの領地を掠うかのように今度はカルタゴが侵略を始める。シラクスの将軍でペロポネソス戦争の英雄ヘルモクラテスはカルタゴ兵がシラクスの目の前に迫っているにもかかわらず民主派に殺された。当時、役人に過ぎなかったディオニスは、ヘルモクラテスの娘を娶り、シラクスの将軍となり、シラクスの崩壊を辛うじて防いだ。人を信じばシラクスは崩壊する。これこそディオニスの確信である。ゆえにディオニスは人を信じない。アテナイの暴力は今も毒蛇の様にシラクスの中を暴れ回っている。信じれば放逐され、油断すれば暗殺される。目の鼻の先にカルタゴが迫っているというのに内輪争いを辞めない民主派とはなんであろうか。市井の争いを辞めさせシラクスを維持するには多少の犠牲は止む得ないのだ。ディオニスには暴君としての才能があった。市井に護衛兵を配置し隙あらば市を崩壊させようとする集団を冷酷に除去してきた。そして、第二のアテナイが現れようと撃退可能な城壁を作り上げている最中だ。時間があれば、自らの手で城壁まで荷を運ぶこともある。
昼、暴君はシラクスの港へ行く。疫病の流行もあり、カルタゴを退けられたとはいえ、シラクスにも影響を与えた。市井が賑やかで無い理由には大量の船を失ったことと疫病の影響がある。港を視察し、物資と糧食、そして船を確認する。暴君は再び戦地に戻らねばならぬのだ。物資は不可欠である。
夕、ラケダイモンの使者と会談する。援助を引き出せないかと言う話を振ってみたがコリントスとの対立が表面化していると言う話である。傭兵は用意出来ると言う話であるが、費用はこちらもちになる。また金策が必要だ。ラケダイモンの支持を確認する。
夜、カルタゴ海軍に関する報告を聞く。また、イタリアに点在する諸都市に関する方針を諮問する。イタリア諸都市がカルタゴ側に着くと南北から挟撃される。早めの対処が必要だ。そのまま港へおもむき船への物資の積み込みを急がせる。不眠不休の作業が続く。
翌朝、石工のセリヌンティウスが弱音を吐いているのを聞き「お前も友人を信用していないのか?」と暴君は邪悪な笑みを浮かべ問い詰めるとセリヌンティウスは首を振った。まだ執務が残っている。
メロスが山賊に襲われている頃、王は騎乗していた。賊を追っていたのだ。シケリアの地においては様々な思惑を持つ多数の勢力が策動している。だが、市が滅びれば王も滅びる。英華は失われ、市は破壊され、市民は奴隷として売られるのだ。かつてシケリア北部にある都市ヒメラはカルタゴに破壊され、今や瓦礫で埋め尽くされた。住民はカルタゴに殺され、捕虜は生贄にされた。その中にはわしの兵も居た。その運命は避けねばならぬぞ。そう思いながら馬を進めるとそこには三人の賊が討ち殺されていた。王は、そのまま兵を進め、棍棒を構えた賊を一掃すると王城に戻る。まだ夕暮れ前であった。
血の乾く間も無く玉座に戻った王は、セリエンティウスの弟子たるフィロストラトスを呼び出し、メロスを確認するように指示を出す。セリエンティウスに何か言い含まれた様であるが――。
暴君は、賊を追うとき時、メロスの足跡を確認したのだ。賊三人をたたきのめした後を確認し「世間知らずと思いきややるわい」と思ったものもそのまま処刑執行の準備を続ける様に指示。既に処刑場には群衆が入っている。ここで中止とは言えば暴動になりかねない。鎮圧出来る様に護衛兵を紛れ混ませているがそこに万全と言う言葉はない。このまま続行するしかあるまい。
日が沈む直前、処刑場の入口で大声が聞こえる。そこには全裸の男が「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と叫んでいる。見るとそこに居るのはメロスだった。後でフィロストラトスの報を聞こう。
陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えうせる。
処刑場をかき分けメロスが飛び込んでくる。何か叫んでいるようだが、声は届かず、群衆は気がついていない。だが、メロスを譲る様に群衆は波の様に動いていた。恐らく護衛兵が磔台まで誘導してくれているのだろう。
刑吏がセリエンティウスを釣り上げていく。そろそろ止めた方がよさそうかと思ったが、メロスは磔台に辿り着いた様である。「私だ、刑吏!殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇っていき、釣り上げられてゆく友の両足に、かじりついていた。
それを見た群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめく。頃合いとみた暴君は手を上げセリヌンティウスの縄を解くように指示する。
「セリヌンティウス。」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若もし私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」
セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑、
「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」
メロスは腕に唸うなりをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。
「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君が、事前に仕込んだものであるが――。暴君は、群衆の背後から二人の様を、見つめていたが頃合いを見て、静かに二人に近づき、こう言うことにした。
「おまえらの望みは叶かなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」
群衆の間に、歓声が起らせる。
「万歳、王様万歳。」
ふと見ると、ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げる。フィロストラトスが事前に用意したのであろうか?暴君は気を利かせて磔台から下がる。暴君には、まだやらなければ成らぬ事があるのと言うのも大きい。この瞬間にも暴動を企てる連中が紛れ混んでいるとも限らない。群衆は速やかに安全に解散させねばならぬのだ。
面白い見世物だったと独りごち暴君は港におもむき船に乗り込むと戦地にとんぼ返りする。船の中では暴君も少しは寝られるであろう。
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