足の悪い旦那さんと猫の奥さん
つづり
第1話 梅雨と野いちご
雨の日は、膝の内側が痛む。
だから起きた時、膝が痛いと、今日は雨だと気がつく。
曇天の雲が空を覆っていた。濃い灰色、しとしとと降る雨、あじさいの上のカエルは空を見上げている。縁側のすりガラスの窓を、妻が開けていた。
雨の日は動きづらいので嫌いだ、膝の内側が嫌悪感に追い打ちをかける。
生まれつき膝が弱く、足取りも悪いので、遠足は最後尾だった。追いかけられないとわかってからかってくる子供もいた。余計に出かけるのが嫌いになった。
けれど仕事はせずに生きられるわけがない。家族もいるのだ。
だから村の役所で働いている。もし今日が休みでなければ、雨の泥濘む道を歩いて
役所で働いていただろう。
妻は猫だった。化け猫の女房をかかえていた。
茶色い耳をよくぴくぴくと動かす。音を逃さないように。鼻もひくひくと動かす。
香りを捕まえるかのように。目が少し良くない。色の識別が難しいようだ。ただ他の感覚がずばぬけているから、生活に困らなかった。
「旦那さん、ぼんやりとして、今日はなにかしないんですか?」
「休日だから休んでいるよ」
「ぼーとしてるようにしか見えませんけどね」
妻はくすくすと笑った。猫耳が揺れる。
「雨の日は気分が冴えないんだ。わかっているだろ」
「まあ、気が合う。私も苦手ですの、こう、冷たい床に体をぺたーとつけたくなりますよ」
「人間の姿ではやるなよ」
妻は小さくうなずいた。細めた瞳が、猫っぽく、人間の姿をしているはずなのにと不思議になった。
「膝の痛みはどうですか?」
「まあ、普通だ」
普通によくない。
そこまで言わずとも、妻はわかっているような顔をする。
「早く、梅雨があければいいですね、夏になれば動きやすくなるでしょ」
「暑いのは苦手なんだ」
「ほんと、嫌いなもの、多い人」
唇をとがらせ、妻は軽く睨んでくる。
気ままなところもある妻は出かけるのが好きだ。
濡れるのが嫌で雨の日は自分と同じく苦手なようだが。
「そういえばなんですけど、砂糖をもらってしまったんです」
「砂糖を」
最近手に入りやすくなったが、以前だったら高級品ともいえる調味料だった。
「でも、煮るものなくて、うち。甘いものは好きだけど……しばらく封印ですね」
ほんのり残念さを隠しきれず、苦笑いする妻。耳が折れている。感情が本当に耳に出る妻だ。なぐさめのひとつでもかけるべきなんだろうか、いや多分そうだろう。
「……そうか」
柔らかな言葉をかけなかった。そのかわりに。
あることを、思いついてしまった。
昼食を食べたあと、家の裏手にある森に来ていた。
森と言っても密の高い森ではない。
もともと、金持ちの家の庭があったらしいのだが、その庭が荒れ果てた結果がこの森なのだという。ただこの話は酒宴の席で酔っ払った長老の与太話なので、どこまで信用に足るのか……。
膝の内側は静かな痛みを感じる。木の葉落ちてぬかるみやすい森の中で、膝が弱い男が歩くのは、ちょっとした馬鹿な行為だろう。だが、この時期は「アレ」がある。
行かなければいけない。
雨が苦手で、濡れやすくなるこの時期の森には近づかない妻は、知らないのだろう。「野いちご」の存在を。
それを採りにきた。
子供の頃、他の子供らと遊べなかった。少なくとも体を動かす遊びができなかった。
足がうまく動かず、走るのも苦手で、どうしても相手より遅れてしまう。かけっこもできない子供をいじめるやつがでるのは……必然だった。
「やーい、でくのぼうー」
耳の奥で今でも、あのからかいの声が聞こえてくる。
だから足取りが確実に悪くなる森の中で、いじめてきた子供らがいなくなるのを、息をひそめて待っていた。その時、野いちごの存在を知ったのだ。
お腹がすくと、こっそりと食べていた、赤く、もしくは黒い実。
ほんのり苦いし、柔らかくて、指を汚しまくったが、心のなぐさめだった。
大人になってから、随分と関わることはなかったが、存在をわすれたわけでなかった。今日、妻が言った一言で……また採りにいくことにしたのだ。
……野いちごは群生するので、森をふらついていたら、見つかった。
わさわさと生えている。
やれやれと肩をすくめ、一歩、足を進めた時、ずるりとすべった。情けないほどに勢いよく転んだ。傘は転がり、雨が当たる。冷たい……地面も空気も……目を見開くほどに。
ゆっくりと起き上がるが、土で胸も足も、頭に泥がはねている。ここまで来たけれど、帰ったほうが良いかもしれないと思った。それは確信的だった。まちがいないと思った。
「……」
男は自分の体をあらためて見直すと、転がった傘を手にとった。
そして野いちごのもとへと急いだ。濡れてしまったのなら、急いで用件を果たそう。
きっと妻は呆れるかもしれないが。普段の自分だって呆れてしまうかもしれないが。
彼女がこれで喜んでくれたら、十分だ。
野いちごは保存がきかない。だからジャムにして保存食にしたほうがいいと聞いた。だから甘い物好きで、砂糖を手に入れた妻に、たくさん、たくさん、贈りたい。
内側がよごれてない袋に、優しく野いちごを入れる。
袋はすぐにいっぱいになるだろう。猫の妻はどんな顔をするのだろう。
想像するだけで、笑みがこぼれた。
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