第4話 みどりのいし
「ここは式を展開すれば一発でしょ?」
「どうやって展開するのかわかんない」
「まずはカッコを外す」
「うん、外す」
「あーあーあー、そのまま外してどうすんの。カッコの外にあるヤツをカッコの中に全部かけるの」
「えーと……こう?」
「違う、マイナスついてるでしょ」
「それ先に言ってよ」
「当たり前でしょ」
その『当たり前』がわかんないから聞いてんのに。お母さんの説明は『わかる子』用なんだ。これで進学塾の講師やってるんだから、よくクビにならないよなって思う。まあ、あたしができの悪い生徒なだけなんだけど。
お母さんは「数をこなしてないからよ」って軽く言う。友達に言っても「たくさん過去問解いてれば、パターンがわかって来るよ」って言ってたから、やっぱりあたしの勉強時間が絶対的に少ないんだろうとは思う。
でも高校へ行くメリットがいまいちピンと来ないから、勉強にも熱が入らない。
その点、お父さんはおおらか。
「別に高校なんて絶対行かなきゃならないものでもないよ。ただ、行っておくといろいろ楽しい」
お父さんがそう言うと本当になんだか楽しそうに感じるから、行こうかなって思っちゃう。
だけど高校へ行くためには受験勉強というものが必須なわけで。
「
「あーもうお母さんうるさい」
「あんたが教えてって言ったんじゃないの」
しかもいちいちド正論だからマジムカつく。
「お母さん出勤時間だから、あとよろしくね」
バタバタと出て行くのを視界の端で見送る。一体何をよろしく頼まれたのかわからない。
土曜日のお母さんはいつもこうやって朝からせわしなく職場へ向かう。つまりそれは土曜日でも朝から塾で勉強してる子たちがいるってこと。そんな連中と勝負するんだもんな。いや、絶対志望校は違うはずだから勝負しないか。
「あーあ、あたしお母さんの子なのに、なんでこんなに頭悪いんだろう」
「そりゃ半分お父さんの血が入ってるからだろ」
自称犯人ののんびりした声が横から割り込んでくるけど、あたしに言わせれば大学で先生やってるお父さんだってお母さんと同類だ。むしろ上位互換。
「土曜日まで朝から勉強なんて、人間として間違ってる。翠、ちょっとお父さんに付き合わないか?」
自転車を漕ぐこと二十分。海岸に来たということは、すなわち「ヒスイ拾い」をするということだ。
お父さんはその道のスペシャリストだから、見ればそれが本物のヒスイかどうかすぐにわかる。鑑定士と一緒にヒスイ拾いをするようなものだ。
「白っぽくて角ばってるやつを探すんだよ」
「わかった」
受験生と大学の先生がこんなところで石拾い。変なの。
「ヒスイって造山帯でしか産出されないんだよ。プレート同士がぎゅうぎゅう押し合って、岩が圧力に負けて変成しちゃうんだ。その中にできる。糸魚川はフォッサマグナの西縁にあるからね」
「なんかそんな事言ってるとほんとに先生みたい」
「ほんとに先生なんだけど」
お父さんはお母さんと違って先生っぽくない。大学の先生ってみんなこんな感じなのかな。それともお父さんだけなのかな。
「ヒスイは高貴な石でね、中国では
お父さんの講義が始まった。だけど勉強っぽくないから聞いてて楽しい。
「仁・義・礼・智・信の五つの徳を備えた特別な石と言われていてね、知恵や人徳を与えてくれると信じられてきたんだよ」
「あ、これヒスイ?」
白っぽくて緑っぽい石を渡すと、お日様にかざしたり目を細めて見たりしていたお父さんが「残念でした」と笑った。うーん、なかなか難しい。
「翠が生まれたとき、お母さん喜んでねぇ。五月生まれだから五月の誕生石にちなんだ名前にしようって。『エメラルド?』って聞いたら『ヒスイはどう?』って」
「でも翠じゃん」
「ヒスイって漢字で書いた時のスイの部分が翠っていう字だからね」
知らなかった。
「五つの徳がこの子に備わるようにってね」
ここまで言って、お父さんがあたしをまっすぐ見た。
「本当はお母さんだって翠の前では『先生』より『お母さん』でいたいんだよ」
でも。
でもじゃないか。あたしがお母さんを先生として使ってただけか。
「あ、これヒスイじゃない?」
「どれ?」
お父さんの掌に乗せると「あー、重いね」と口角を上げた。
さっきより緑が濃い。アイスが溶けちゃったクリームソーダみたいな色。美味しそう。
しばらくこねくり回して見ていたお父さんが、「ビンゴ」と声を上げた。
「よし、獲物も見つけたし、お昼になる前に帰ろう」
「クリームソーダ飲みたい」
「いいねぇ、お母さんには内緒だよ」
夜ベッドにひっくり返って、拾ったヒスイを眺めながらお父さんの言葉を思い出した。
「翠がどんな道に進んでも、お父さんとお母さんは翠の意思を尊重するよ」
みどりのいし。
座布団三枚あげれば良かった。
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