第257話 こんな未来があれば良かった(兄妹。思い出に浸る兄)

「俺から、父さんたちに言ってやろうか」


 あの日。そう言ってやれたら良かった。

 もう何度も、思ったことだ。

「ありがとうございましたー」

「ありがとうございました!」

 かろんかろんとドアベルが軽やかに鳴る。

 喫茶店から外へ出ると、もうまちは夕暮れの気配に染まっていた。

 しばらく歩くと、河原に出る。

 少々大きめの河原には、ジョギングをしている人もいれば、犬の散歩をしている人もいる。

 部活帰りなのだろう。制服やジャージ姿の子たちもちらほら見かけた。

 風が渡ると、水と草の匂いがした。

 背の高い草が揺れ、水面に波が立つ。

 水面には夕焼けの色が映っていた。

「……」

 あの喫茶店は癒しだ。

 先代の頃から通っているけれど、ちょっと古めかしくて、落ち着いていて、だけど気づまりが無い。

 話していても、本を読んでいても、ボーッとしていても、何をしていても良い雰囲気が安心する。

 代替わりしても、その空気は変わらない。

 橙花ちゃんが来てからは優しい明るさが増して、ますます居心地が好くなった。

 けれど、たまに。

 楽し気に話す兄妹二人を見ていると、胸の奥がきゅうっと詰まることがある。

 私にも、妹が居た。

 歳の離れた、素直な、大人しい子だった。

 我儘も言わない、はにかみ屋の妹。

 私の後ろをちょこちょことよくついて来ていた。

 可愛かった。可愛がっていた、と思う。

 けれど。

 両親の決定に、あの子が初めて「嫌だ」と言った日。

 私は……俺は、あの子の味方になってやれなかった。

 両親と同じように俺も吃驚して戸惑って、何と言ってやればいいかわからなかった。

 頭ごなしに否定され、泣いている妹に、俺は何も言えなかった。

 ただ「大丈夫か」としか。

 妹はすぐに泣き止んで、困った顔で笑いながら「大丈夫」と言った。

『ごめんね、お兄ちゃん』

 でも、大丈夫。

 そう言って笑って、妹は自分の部屋へと引っ込んだ。

 大丈夫なんかじゃないだろう、と思ったけど、口には出来ず。

 俺はただ、その後ろ姿を見送った。

 ……明日には、全部元通りになるだろうと無理矢理楽観視した。

 次の日の夕焼けは、見事に朱くて美しかった。

 強烈な油絵みたいに。

 妹に知らせてやろうと思ったけれど、妹はもうこの世に居なかった。


「……」

 目の前の夕焼けは、あの日のものより薄い。

 淡い桃色と黄色が、空を優しく彩っている。

 柔らかな、水彩画のようだ。

「明日さ、昼からだったら行けるんじゃない」

「じゃあ明日のお昼に」

 きゃらきゃらと少女たちが楽し気に笑いながら、私の横を通り過ぎて行った。

 河原で和む人たちは、不思議とみんな、倖せそうに見える。

「見てみて、あの夕陽、綺麗じゃない?」

「写真撮ろっ」

 別の少女たちも、楽しそうに笑い合っている。


 ……大丈夫。


 そう言って笑ったあの笑顔とは、まったく違う顔。


「……佳乃子かのこ

 俺は、お前のあんな笑顔は見たことが無い。

 もし。

 もし、あのとき、俺が、お前の味方が出来ていたならば。

『お兄ちゃん!』

 そうしたら、こんな未来も、あり得たのだろうか。

「──……」

 私は、首を横へ振り、ため息を吐いた。

 言っても詮無いことだ。

 それでも。

 私は思うだろう。

 夕焼けの中、妹を思い出すたびに。

 ああしていたら、今ごろは。

 そんなことを、何度でも。

 この何十年思ったことを、きっと懲りずに繰り返す。


 END.


 こちらの紳士(https://kakuyomu.jp/works/16816452220371917465/episodes/16817139556206383533)の。

 若い時は、咄嗟にいい言葉が出なかったりは当たり前だなあと思います。

 いや、年取っても、苦手なものは苦手だけど。

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