第189話 悲しみチョコレート(愛猫を亡くしたお姉さんと)


 愛猫が、虹の橋のふもとに旅立った。

 可愛い猫さんだった。

 私にとっては、可愛い弟であり、しっかり者の兄だった。

 真っ黒な、天鵞絨のような毛並み。理知的な横顔に、光る金の

 病気になっても、ずっと私のことを心配していた。優しい子だった。

 最後の最期、どんなにしんどくても、お皿を洗う私の後ろへやってきては、その姿をじっと見守ってくれるようないい子だったのに。

「……」

 まちを歩いていても、気持ちは暗い。

 猫だから、犬のように散歩をしていたわけではなかった。

 それでも。

 あの子を思って歩いたまちは、ただただ私に懐かしさと悲しみを呼び起こさせた。

 あの子のために温かな毛布を買った雑貨屋さん。

 あの子とそっくりな猫さんが看板娘の薬屋さん。

 ……犬の散歩をしている人を見てすらも、涙が出そうになった。

 私の前を歩くわんこさんと飼い主さんは、きっとこれから家に帰るのだ。飼い主さんを見上げるわんこさんの瞳。あの子と一緒。わんこさんを見る飼い主さんの眼差しも、私と一緒。

 彼らには、あの倖せがある。ただただお互いを、無条件に好きだと想い合っている相手と過ごす、そんな眼差しを交換し合う、温かな倖せ。

 それを思うと、羨ましくて、懐かしくて、もう息が出来ないほど苦しくなる。

 どうか、お倖せに。私たちの分まで。そう願いながらも、胸の奥から涙がせり上がって来る。

 これでは駄目だ、とデパートに入った。

 デパートの催事は、チョコレート特集だった。

 少しは気が紛れるかと思ったけれど。

「ご試食、どうぞ」

 渡されたにゃんこ型のチョコレート。

 こちらを見る人懐こい姿が、私を出迎えてくれたあの子とよく似ていて。

「──……っ」

「お、お客様っ?」

 涙が零れた。

 いけない、店員さんを困らせてしまう。

 わかっているのに、後から、後から涙が出て来た。

「すみません、すみません。最近、愛猫を……亡くした、ばかりで」

『おかえり』

 そう言っているみたいに鳴いてくれたあの子の声を、もう聞くことは無い。

「こんなんじゃ、ダメってわかって、るんですけど……。立ち直らなきゃって、わかってるんですけど、ねぇ……」

「……いいんじゃないでしょうか」

 店員さんは、柔らかな声で言った。「え?」と私はそちらを見た。

「いいんじゃないでしょうか。悲しんでる、ままでも」

 店員さんが、優しく微笑む。

「だって、それだけ愛してたんですから。仕方ないです」

「……この悲しみを持ち続けても、いいんでしょうか」

 こんなこと聞いて、見ず知らずの人に何をしているのだろうと思ったけれど、つるりと言葉が出てしまった。

「いいと思います。……そのうち、悲しみと共存しながらも、ごはんが美味しく食べれたり、楽しいと全力で笑えたりするようになると思います。それでも、捨てたくなければ、ずっと持ち続けていいんだって、私は思いますよ」

 店員さんは、優しく微笑んだままそう言ってくれた。

 私の悲しみを肯定してくれた。

「……ありがとう、ございます」

 私は、試食のチョコレートを大事そうに食べた。ほろ苦く甘い。それは、薄い膜を通してしか全てを感じられないような今の状態でも、確かに美味しかった。

「いつか、このチョコレートをもっとちゃんと味わいたいです」

「いつでも、お待ちしております」

 数年後。例え、この悲しみを持ったままでも。


 私は、それを約束するように、試食と同じ猫さんのチョコレートを買った。


 END.



 こちら(https://kakuyomu.jp/works/16816452220371917465/episodes/16816927861839034873)と同じところのチョコレートです。数年後のこのチョコレートもきっとお姉さんは食べているのではないかなと。悲しみと共存しながらでも、美味しいと思っていたらいいなあ。

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