「どこにもいないよ、お母さんがいるんだよ」

「どこにもいないよ、お母さんがいるんだよ」

「お母さん? そっか、お父さんはいないんだったわね、じゃあまたね」

「いや、ちょっと待って。なんか、お母さんの声が急に聞こえなくなってきたから」

「ん?」

「なんかさ、音がだんだん聞こえないんだよ」

「へ? なんで?」

電話の相手はいぶかしんだ。てっきり近く――とは言っても、声掛けできる程度の距離――に親族がいると思っていた。

「ちょっと、待って? ちょっとだけ、ね」

女はそういうと、急に通話が途切れた。

しばらくして女は、森の中で誰かを見つけた。女は慌てて声をかける。

「お母さん? ここで何をしているの?」

「何方さん? ここで何をしているの?」

男には、どこに連れていかれたのかは分からない。寝室でいきなり黒い物に覆われて気づけば夜の山道に取り残されていた。わけがわからない。

とにかく、闇に向かって大声で聞いてみたのだが、やはり誰もこの場所にはいないのか教えてくれない。すると女に出くわした。

とりあえず、少し話をすることにした。

「君は?」

「えっ、あっ…お母さんじゃない…ねえ、私はなにされたの?」

女は戸惑い、怯えつつ後ずさる。

「えっとね、私はどうやらこの森に連れてこられたみたいだよ」

男は理由もなく攫われたいきさつを語った。ついさっきまでベッドで寝ていた。

「連れてこられたって、どこに?」

女も同じ境遇だ。深夜残業して母親に迎えに来てもらった。そしてつづら折りの先にあるドライブインの駐車場へ向かう途中ではぐれた。X市仲尾台は中腹の住宅地だ遭難するような山奥ではない。

「知らないよ。だから、出口を見つけたら教えてよ。これってドッキリか?」

男は言うのだ。きっとテレビ東都のロケか何かだろう。視聴者をリアル脱出ゲームに巻き込むサプライズだ。

「そんなことって、あるの?」

女は半信半疑だが男は「とりあえず知り合いか誰かいないのか。君は地元の人か」と尋ねた。

しかし相手はうわの空だ。誰かと電話で喋っているようだ。

「ここら辺にいるよっ、だから、私の声をおじさんの携帯から聞いてみて」

女はそう言うと、ちょこんと座り、目の前の男を見た。

「おじさん、見つからないの?」

目つきが憤っている。自分ばかり楽をするな。

「ああ、どこにも、この男にはY県の土地勘しかないぞ」

「じゃあ、ちょっと見てくるよ」

女はそういうと森の中へと消えていった。

男はまったく信じる気がしない。あいつもテレビ東都のグルじゃないのか。真っ暗闇で立ち尽くす。とまれ下手に体力を消耗するより朝を待とう。携帯を枕元に置いてきた。長い夜になりそうだ。

そして、しばらくして女が戻ってきた。

「ここにね、いると思うよ。私のお父さんだよ」

と、女がそういうと男は、目を疑った。

目の前に、他の初老の男が座っていたから、

当然であった。どう見ても、老人と女は親子だ。しかも、目の前にはこの二人が座っている。さっきまで娘の方は立って、自分の後ろにいた、

ぼうっと青白い逆光を浴びている。

男は、その二人の姿を見て動揺していた。本当なら、《《ここで見つけてくれてもいいのに》、そう言おうようとしたが、できなかった。

『お前の父親もだ』

そんな声がしたからだ。用水路の点検に出かけたまま十年が経つ。

もし、ここに、本当に男の父がいるのなら、ここで彼女が自分の親と一緒に帰るか否かという、賭けがある。

男の視線が、一点に集中した。

彼女が、手を伸ばした。

男は、彼女の手を見ずに、顔を見た。

本当に、これほど美しい女性を、これっぽっちも気づかなかった。彼女の手を見ても、なんの感情も起こらない。

男は、ふと気がついた。

彼女は、自身の手を見るが、それはおかしくない。彼女の手は美しいものだが、彼女が生きているこの森に来たことで、彼女の手はとても美しいものだと気が付く。


「助けてくれ」『今助けてやるぞ』《もう助からない》【がんばれ!】(やめるんだ!お前まで危険に)<最後の最後まで諦めるな>

老若男女の叫びが渦巻く。男はかぶりを振る。月のない夜にぼうっと白骨の群れが映えている。針葉樹林の遺骸が林立している。

まるで、そう、荼毘に付されたゾンビ集団。


男は、彼女が、手を差し伸べているのは願望の裏返しで、彼女の腕に触れたかったからだと、確信した。結婚していても遅すぎる年齢だ。夜中に独り歩きする女。しかも親族が迎えに来るという。邪な考えが浮かんで当然だ。

男は、そう考えた。

理由はどうあれ自分は新月に遭難した。不幸中の幸いか地元民に出会った。しかし、これは欲求不満の産物かもしれない。

実体であれば彼女は、手を出し、手を出さなければ、彼女はここにいない。

実体のない腕を物理的に把握することはできないからだ。


男は、そのことを考えていた。

枯れ木の傍に一本の案内表示が立っている。

『ここは危険です・高台はこの上です』

しかし、男はそのことに気が付かず、それどころか彼女の手に触った。そして、彼女を見る。つまりそれは不随意運動という名の命令である。

しばらくして、女が男を呼んだ。

すると、彼女は男の姿を見て、その瞳を覗き込み、男の姿を借りて、今度は男視点から彼女を見るという、不思議な状況の中、姿が変わり、男が彼女を見たのだ。

『あたしってかわいい。よく言われるけど、本当だわ』

目の前の女の、その美しさを見て、男は思う。

この人は、あの素晴らしい容姿で、見目のよい容姿で、こんなに美人な女性と結婚しようとしている。

これほど嬉しいことはない。

これほど幸せなことはない。

この世に、美しいものは存在しない。

唯一無二を見た者はこの世に存在しなくなる。

古今東西ありがちな妖女伝説だ。

だから、男は、あの女を一目見てから逃げると決めている。


そして、彼女はその彼女の手を見る。

彼女は、それを見る。

彼女はもっと、彼女を見て、彼女を見て、彼女を見るということを考えていた。

そして、それを思うと、彼女は、自分の目をそっと閉じる。

そんな彼女に対して、男はいつも思う。

それほど嬉しいことはない。

それほど幸せなことはない。

だから男は彼女に…



ブルーシートをめくるなり医師は顔をしかめる。警官がボロボロになった着衣を改め「身分証はありませんね。全部流されちゃってます」と被りをふる。

「いや、だいたいわかりますよ」

ニット帽の男が首を突っ込む。

「あんたは?」

「温暖化対策統括本部の者です。呼ばれてきました。これはY県の方ですね」、とグーグルマップを示す。仲尾台から尾根を隔てた隣県である。

「何でこんな場所に?」

訝しむ警官に専門家は「温暖化の犠牲者ですよ」


幽霊の森という現象がある。温暖化の影響により増水に若木が浸かるとそこで成長をやめてしまう。木々が根を張って土砂の流出を食い止めてくれてる。それが減れば浸食がすすみ、土砂崩れや洪水も起きやすくなる。肥沃な土が流出すれば植物も減る。

そんなことが世界中の緑化面積を狭めている。

森林は炭素の貯蔵タンクであると概念されており損なわれることで温室効果ガスが増える悪循環を形成する。昨夏、大地震がY県を洗い流した。男は被災者であろう。それが鉄砲水に紛れていてもおかしくない。

専門家は地形図をたどった。

「だいたいね…新月は大潮。そういう基礎知識も世間では薄らいでいる。このままじゃ地球は…」

「あんたも排出量に気をつけろよ」

警官は煙たそうにもう一つのブルーシートに向かった。回転灯が明滅している。

「もう…大丈夫です…お母さんが迎えに来るから」

女はストレッチャーから身を起こした。

「しかし、念のために精密検査を…」

救急隊員の手を女は振り払った。

「いいの…予約が入ってるから」

そういってじいっと警官ごしに見つめた。







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新月の夜 水原麻以 @maimizuhara

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