蛍雪時代

水原麻以

蛍雪は夏に降る

暑い、暑い。眼鏡をかけて、キーを叩いていると、汗で、眼鏡がずり落ちてくる。

男は、心の傷が癒えぬ間に、こじつけた教訓を毎晩綴っていた。


≪言葉で説明できない何かに言及するとき、非合理な存在を考えてしまうのは短絡だろう。

例えば、目の前にいる人物の考えていることが何となく分かってしまう、というとき、

ちょっとした仕種などの、経験を脳が処理した結果として、勘としか言い様のないものとして出てくるのだろう。

何故か胸がキュンとなるとか、過程が複雑なだけで、自分でもどうしてそう感じるのか説明できないから、

とりあえず『気分』という曖昧な言い方をしているだけで、何もそこに神秘的な力や運命的な何かがはたらいている訳ではないし、感情は、合理的なものではない、ということにはならない。

情報処理機構としての私と、世界との関係。

あるいは、私が世界から与えられている情報をどのようにして処理しているから、今、こういう「感情」をもってしまうのか…≫



現政権が出版の自由を解禁した事は、新たなビジネスチャンスだった。男は、うずく自己顕示欲を燃料にして、行商する事、三十連敗。

やっと、面会に応じてくれた編集者は、段ボール二箱分に込めた想いを、たった三行に要約してしまった。


川面に原稿が吹き散らされていく。彼は、空き箱を欄干に叩きつけた。鼻水を啜り、星空を睨む。

「開けない夜は無いって? うるせぇ」

かげろうのような運命論より努力の勝利を信じたかった。それでも、報われない男は、生まれの不幸を嘆きまくった。



この世の中は狭くて、生半可なことでは回らない。

彼はどこにも居ない、世界から見られない存在を想像できるときの、自分が抱いた感情だって、きっと、もっと、大きい。

「それでもこの気持ちは、変わらない、自分らしさでもあって、きっと自分の心を支えるものなんだ……」と心の底で願う。


彼の生来の孤独が、彼女を作った。それは間違いない。




男は、原稿を持って、駅まで急いで帰る。いつものすれ違い。傷心の思い違い。今日は彼女が先に男を見つけた。彼は、思わず「どうも」と会釈をした。

彼女はしおらしく小さな手を握る。「ありがとう、楽しいわ」と言った。

貴方は生まれの不幸を嘆くのが趣味なの、と彼女は言う。「人の不幸は楽じゃないから」と、男は答えた。

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