納豆ご飯とレトルト味噌汁
編網のに
納豆ご飯とレトルト味噌汁
もしかしてこのままの調子で生きていくと、僕が人生で食べる食事の三分の一くらいは、この組み合わせになるんじゃないだろうか。
ノートパソコンの前に並べた白米、納豆のパック、湯気の立つ味噌汁に手を合わせている最中、ふとそんなことを思った。
9時きっかり、ノートパソコンから教授の声が聞こえはじめる。大学の教員はとても時間に律儀だ。僕は自分のカメラとマイクがオフになっていることを再確認してから、味噌汁のお椀を手に取った。
大学三年生の春、ということになるはずなのだが、まるでその実感がわかない。まだ二年生の途中なような気がする。去年の前期は完全にオンライン授業だったからだろうか。その頃は、まさか来年の今頃もこうしてオンライン授業が続いているなどとは思ってもみなかった。
平日の朝のルーティーンはこの一年で完全に固定化してしまっていた。朝8時50分にアラームが鳴る。5分ほどベッドの中で粘ってから、ようやく起きるとパソコンを起動し、その間に冷凍ご飯をレンチンして、鍋でお湯を沸かす。お湯をレトルト味噌汁に注いだり、箸を並べたり、ご飯をもったりして、準備が整う頃にちょうどよく教授が9時を報せる仕組みになっている。
確かに、楽だけどさぁ。
納豆をかき混ぜながらつぶやく言葉に返事はない。納豆の粒と粒の間は、ねばつく無数の糸でつながっている。それはそれで厄介だと思うけれど、どこにも糸が繋がっていないのだって困ったことだと思うのだ。
憂鬱な妄想が朝から僕を襲う。もしかしたらこういう日々が永遠に続いて、引きこもりがちな僕は、友達も少ない恋人もいない残念な若者から、いつしか残念なおっさんと化し、毎日朝は納豆ご飯とレトルト味噌汁を食べながら、ただのんべんだらりと生きて死んでいくのではないだろうか。
こうなってくるとこれはもはや大学の講義など悠長に聞いている場合ではない。そうして僕は冒頭の思想(というほど大した話でもないのだけれど)にたどり着いたわけである。
物心ついたころから、朝ごはんには納豆をチョイスしていた。根っからの米派だったので、母親に、パンかご飯か、と尋ねられるとほぼ確実にご飯と答えた。そのようにして10年育てられたわけであるから、一人暮らしを始めても当然、朝は納豆ご飯である。変わったのは、実家にいるころはたまに母が手抜きをしたい時だけだったレトルトの味噌汁をほぼ毎日使うようになったことと、一緒に付いていたほうれん草のお浸しやら卵焼きやらは自分では作らないという事だった。
このまま一人で生きていくと仮定した場合、僕は現状の食生活に満足してしまっているため、朝は納豆ご飯とレトルト味噌汁が生涯続いていくことになる。社会人になり収入が増えれば、米が5キロ1300円のわけのわからない銘柄ではなくちゃんとしたコシヒカリになったり、何かしら副菜が付くくらいはあるかもしれないが、基本形に変化があるとは思えない。
なんなら最近は昼ご飯すらこのセットで済ませてしまうこともあるくらいで、この頻度が上がってくると、人生の半分納豆を食べて過ごしていることになりかねない。我ながら残念な人間である。
ズゾゾッと、あまり上品とは言えない音を立てながら納豆ご飯を掻き込む。しかし、僕がいくら派手に納豆をすすろうが、マイクがミュートになっている以上は誰にも届くことはない。一人暮らしには少し広すぎた部屋に、その汚い音は寂しく響いた。
食器を片付けてもまだ授業は続いている。開始から30分は経っているしいまさら授業を聞いてもしかたないと、机の上に放置していた読みかけの小説を手に取る。
読書が趣味です。そんなことをいう機会がほとんどないし、実際言ってみたことも数えるほどしかない。大学生相手に言っても微妙な反応になってしまうし、そもそも趣味といっていいのか自信がない。
読むのは相当早いと思う。しかし、それだけ。表現の美しさに涙が止まらないような繊細な感覚を持ち合わせてはいないようだったし、書く方にいたっては最後に褒められた記憶は中学生まで遡る必要がある。なんとなく、苦痛ではないし、お金がすごくかかるわけでもないし、人に迷惑をかけるわけでもないから読み続けているという感じだった。
数ページめくったところで、急に「小テスト」という単語が耳に飛び込んできて、慌てて本を置き、ノートパソコンに意識を向ける。
「解答時間は5分とします、それでは問題を送信いたしますので解答してください」
教授がそう言うと、オンライン授業ソフトの画面に五択の小テストが数問表示された。危ないところだった。まるで集中していなくとも、人間というのは案外他人の声を認識しているものなんだな、と思う。
アップロードされた授業のレジュメを漁って、なんとか時間内に解答を終えると、なんだかそれだけでどっと疲れて座椅子の背もたれに自堕落に寄りかかり、天井を見上げる。
「いいのかなぁ、ずっとこんなんで」
いやいや、良くない。そう思ったからこそ、こうやって拙い文章を書き起こしているのだ。
「ツクシの書いた小説、読んでみたいけどね」
はるか遠い記憶の片隅、そう言って笑った少女を思い出す。
「やだよ、才能ないし」
「やってみなきゃわからんし、ていうかツクシは頭いいしできるでしょ。それに変わってるから、きっと変わった小説できて面白いよ」
その時はなんて返事をしたんだっけ。もう忘れてしまった。多分、中学生の僕には、その気持ちをうまく言葉にすることができなかったのだと思うし、できたとしても恥ずかしくて、苦しくて言えなかっただろう。
才能があるかどうかは分からない。やってみなければわからないのは、確かにその通りだ。でも多分、おそらく世界の大半の人がそうであるように、僕には才能がない可能性の方が高い。
やってみなければわからない。それはつまり、書かないでいれば、才能があるかどうか分からないままでいられるという事でもある。素質がなくても、夢を見続けていることができる。だから僕は、文章を書くことから逃げ続けた。
しかし、その間に彼女は進み続けていた。僕の携帯の写真アプリを開いて、『栞』と名付けられたアルバムを開くと、そこにはたった二枚だけ、写真が入っている。
一枚には、制服を着た中学生の男女が写っている。男子の方は、かっこつけようとしていたのか、いけ好かない表情でポケットに手を突っ込んでそっぽを向いている。15歳の僕だ。そしてその隣には、友人たちとの別れで泣いたせいか、赤く腫れぼったい目で、それでもとびきりの笑顔でピースを作る女の子。二人が写真を取ったのは、それが最初だったし、おそらく最後になるだろう。
二枚目は、新聞記事の切り抜きを撮影したものだ。
記事には蛍光ペンでラインが引かれていて、そこにはこう書かれている。
「都内の高校生文芸コンクールの結果が10月末に発表された。洸陽学園2年生の寺本詩織さんが、最優秀賞に選ばれた。」
記事に付いていた写真は白黒で見づらいが、一枚目の頃より少し大人びているようだった。
この目で直接彼女を見たのは、中学生の卒業式の日が最後だ。連絡先も知らないし、もちろん会ったこともない。偶然すれ違うという奇跡も起こるはずがなかった。そもそも僕らは物理的に隔てられていたのだ。
僕は彼女に何も伝えないまま、卒業式の次の日に、母の実家がある奈良に引っ越した。東京と奈良は約500キロも離れているのだ。伝えたところでどうしようもないほどの距離だし、そもそも僕らはたまたま隣の席で、たまたま同じ本を読んでいただけの仲だったのだ。
ぼんやりと思い出をたどっているうちに、一限の時間が終わりを迎えていた。パソコンを閉じて寝転がり、今日の予定を確認する。
午後は実習だから、大学に行かなくてはならない。外に出るということは、着替えなくてはならないし、寝ぐせも直す必要がある。体も心も重くなってきて、う―っ、と獣のような声を上げることしかできない。
実習が終わると、バイトが夜10時まで。なかなかハードな一日である。なんとか身体を起こして、閉じたばかりのノートパソコンを開く。今日中に提出のレポートの存在を思い出したのである。きっとこれを書いていたら午後の実習前にちゃんとした料理を作る暇はないだろう。
昼も納豆と味噌汁でいいか。
こうして、僕の人生における納豆ご飯とレトルト味噌汁の占める割合は、日に日に高まっていくのであった。
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