きになる、あなた

水原麻以

天使のささやき

こんな経験はないだろうか。

コンビニの帰り道、出勤途中、あるいは校舎の廊下で誰かが心にささやきかける。

"右へ進みなさい。さもなくば恐ろしい災害が待ち受けている"

いきなり、こんな宣告を受けたらギョッとする。それが余裕のなさから来る心の表現であるならまだいい。

特に後ろ向きな気持ちでもない時にお節介な助言が降ってくるのだ。

そして、漠然とした不安を否定するかのように力強いお告げが降ってくる。

「いいえ。左側です。間違いなくバラ色の人生が開けます」

傘を持たないまま土砂降りに遭遇して生きる気力を奪われた状況ならともかく、透き通った青空の下でさして重要でない選択肢が地球の運命を賭けた岐路に化ける。

それで十字路の手前で立ち止まったままどちらに曲がるべきか深刻に考えてしまう。

もっとも、どちらを選ぼうが世界情勢に変化はないのだが。

僕はものの数秒もしないうちに一歩踏み出す。右に行こうが左に行こうが人生という一本道から逃げることは出来ないのだから。

多いときは日に十回は二択問題をこなした。その時々の決断に重篤な結果はない。幸か不幸か僕は勉強も運動も平均的にこなし、偏差値もそこそこの公立高校に合格できた。

    

冬休みの受験セミナーに通う必要もなかったし、徹夜勉強もせずに済んだ。その端々で選択の神様が口を挟んできたけど別にどうってことはなかった。

携帯アプリに合格通知が届いた瞬間にどうでもよくなって忘れてしまった。

それからしばらくして、一学期の授業が始まるころ例のお告げが復活した。新入生獲得を狙って体育会系と文化部が廊下や体育館裏で勧誘合戦を繰り広げていた。

この学校では部活動の参加が義務付けられていていずれにしてもどこかに属さなきゃいけない。勉学は平均点でもコミュニケーション能力が壊滅的だった僕は出来ることなら日陰のマイナーな所に入りたった。

出来れば廃部寸前の部長が部員を兼ねているクラブ。部室どころか予算なんてつけて貰えないから活動は名ばかりで顔を出さなくてもいい。

そんなところに入っちまえば、野球部や柔道部なんかの露骨な勧誘から逃れることができる。その日も僕は周囲にひと気を感じていた。

柱の陰、記念植樹の向こう。確かに感じる。マークされている。体育会系の上級生に前後左右から挟み撃ちされたあげく、無理矢理に見学と称して球拾いをさせされ、なし崩し的に入部届を書かされたって話も聞く。

昼休みが終わりかけて教室に戻ろうとしていた矢先、お告げが僕を助けてくれた。

”そのまま廊下を走りなさい”

    

えっ、と驚く暇はない。次の瞬間、僕は校舎に飛び込んでいた。後ろからガマガエルを踏みつぶしたような茶色い悲鳴がした。

「おい、お前。サッカーしたいんだろ?」

「いや、俺は、その」

「サッカーしたいよな?」

「いや。俺は書道部に仮にゅう、ブギャアっ」

「ぞん゛な゛ごどよ゛り゛ザッ゛ガァアアしようぜ!!!」

可哀想な一年生男子は無理矢理にアウェーへ引きずられていった。きっと筆より重い物を持った経験がない彼にとって地獄の三年間は耐え難いものとなるだろう。

僕がほっと胸をなでおろしていると、肩を叩かれた。

「ねぇ、あなた」

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