サウンドスコープ

春埜天

サウンドエフェクト 「門出」

SE1 退職届

 退職届を叩きつけた音は軽かった。


 昼休憩に百均で買った真っ白な封筒。その中に入った、たった一枚の紙切れ。

 人生の二十五年分といっても過言ではないは、当然25グラムにも満たない。


 気の抜けた音で、ようやくの鳴海湊音なるみみなとの頭は冷えた。


 ――やっちまった。


 気づいた時にはもう遅い。

 目の前の化け物は、退職届には目もくれず言い放つ。


「君みたいな損切りができない社員。こっちから願い下げよ」


 上擦ったオネエ声だ。


 嫌悪感の塊はムチムチした筋肉質の体に、奇抜な色の組み合わせを纏っている。ピンクのシャツに白のパンツ、青のネクタイ。流行り廃れたマネージャー巻のカーディガンにいたっては黄色だ。


 統一性のないコントラストを、湊音は忌々しげに睨んだ。

 ゴールデン街に生息していそうな性別不詳の怪物は、『上司と部下』という関係が切れた今、湊音の不快指数をあげる相手でしかなかった。


「明日から来なくていいわ」


 眉筋一つ動かすこともなく、シッシッと追い払う動作をする。上司から見れば、湊音は犬同然だ。そんなこと、とうの昔に湊音は知っていた。

 何か言い返してやろうと思ったが、口をつく言葉はない。

 何を言っても『負け犬の遠吠え』になってしまう気がしたからだ。


 ミス、服装、言動、生い立ち、何に対しても細かな揚げ足をとる人。結局最後の最後まで、湊音の神経を逆撫でした。


 湊音は促されるまま、整った上司の私室を出た。

 扉を閉めた背中に、五人しかいない同僚から、冷たい視線が集まる。一国の主に逆らうやつは村八分と、相場は決まっていた。

 居心地の悪さを打ち消すように、黙々と宛がわれた机を片づけ始める。


 そんな目で見なくても、こんな会社さっさと出て行ってやるよ。

 決して口には出さなかったが、湊音は苦々しく吐き捨てた。


 シュレッダーにかけるため、乱雑に置かれた紙の束を手にする。退職のきっかけになったオーディションの選考書類だ。

 志望動機には応募者の数だけ、真剣な思いが綴られている。



 ――私は幼い頃からアイドルになりたいと思っていました。



 湊音が働いていたのは観音原かんのんばら芸能事務所。多くのアイドルグループをプロデュースしている。

 内定をもらった時は、芸能業界でも知名度が高い、大手プロダクションに就職できたことを喜んだ。


 担当していた部署はオーディションの選考や、SNSでのスカウトをメインとする仕事だった。

 不合格通知を送る作業に心苦しい思いもしたが、入社一年目の冬には罪悪感にも慣れた。むしろ、合格したアイドルたちが華々しくデビューする姿に、誇らしさを感じていた。その気持ちは今も変わらない。


 仕事にやりがいも感じていた。給料にも不満はなかった。

 湊音の正義感が邪魔をしただけだった。



 知っているか。町でスカウトなんて古いんだぜ。今時はSNSのダイレクトメールを送るんだ。

 堅実な製造業に就いた友人に、意気揚々と話していた時は知らなかった。


 知ってるか。オーディションもスカウトも、ほとんどコネクションだったんだぜ。

 今なら、昨日の自分に意気揚々と話せる。



 入社四年目の初夏、湊音はカラクリを知ることになった。オーディションとは名ばかりで、上司のお気に入りをデビューさせるためのお膳立てだったという事実に。

 今まで携わったオーディションが全てかどうかはわからない。

 だが、一度でもあった不正に目を背けることも、加担することも、湊音にはできなかった。


 どうせ落とすなら、最初からオーディションなんて体を、装わなければ良かったのに。

 大きなバツが書かれた履歴書。一番下の大きな枠。丸っこい女らしい字で志望動機が綴られている。



 テレビの中で歌って踊るアイドルに憧れました。

 私を笑顔にしてくれたアイドルみたいに、私も誰かを笑顔にできるアイドルになりたいです。そして目標はグループで武道館に立つことです。

 聴いてくれる人に感動を届けられるようなアイドルになりたいです。



 丁寧に書かれた文字に、書いた女の子のひたむきさが伝わってきた。彼女の気持ちを汲み取れば汲み取るほど、罪悪感が湊音の体に染み込んでいく。

 嫌な記憶に蓋をするように、一枚ずつシュレッダーにかけた。


 罪悪感を抱えながら残り三十年働くことと、衝動的に仕事を辞めること。天秤にかけて、湊音は後者を選んだ。


「お世話になりました」


 新しい門出を祝福するのは、バリバリと紙が砕かれる音だけだった。





 元職場から最寄り駅までの距離は、私鉄で乗り換えなしの四十五分だ。車窓から覗く緑をぼうと眺める。


 衝動的に辞めちゃったけど、俺これからどうすんだ――


 冷静になればなるほど、軽率な自分を叱りたくなる感情と、辞職を肯定する感情がせめぎ合う。


 転職サイトでも開こうかと過ったが、スマホに伸ばす手を止めた。今日くらいは労働という言葉から、離れたかった。

 このまま思考を続ければ――なぜ、人は働くのか――といった、哲学的な部分まで飛んで行ってしまう。


 何も手につかず、結局車窓を眺めるだけだった。ほんの半年前は裸に剥かれていた樹木も青々と茂り、真っ青な空が広がる。

 青のネクタイがぼんやりと浮かび、慌てて存在を頭から追い出した。元職場を飛び出してから、ずっとこんな調子が続いている。


 落ち着きを取り戻すため、静かに息を吐いた。

 ふと甘い香りがする。やわらかい花の香りだ。


 消えてしまいそうな匂いを追うように、目線を横に向けた。隣には女の子が座っている。

 女子大生だろうか。キャンバストートを膝にのせている。栗色の前髪に隠れた表情は見えない。

 

 この服、どこかで見たことがあるな。

 少し時期外れにも感じる、桜柄が散りばめられた薄桃のワンピースだ。


 最近の流行か?

 ごく最近。昨日、今日レベルの既視感に、湊音は首を捻った。

 答えがでてこないのがもどかしい。一度引っ掛かりを覚えると、とことん気になってくる。


 視線に気づいたのだろう。勢いよくあがった目とかち合う。

 間髪入れず、湊音は顔を逸らした。じっと見つめていたら、不審がられるに決まっている。

 見てただけで痴漢にはならないだろうが、通報でもされたらどうしようか。


 釈明の言葉を告げる前に、彼女から声をかけてきた。


「あの……」

「へっ、なっ?」


 通報されるのかと覚悟を決めたが、彼女の表情に嫌悪感は見受けられない。湊音の予想と異なり、無邪気な笑顔を向けた。


「観音原芸能事務所の人……ですよね?」

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