異世界で狼男の嫁になりました

城間盛平

扉を開けるとそこは異世界でした

どこか遠い世界に行ってしまいたい。雨宮なずなは自暴自棄になっていた。今日、五年付き合っていた彼に振られた。大事な話があるといわれ、ついにプロポーズかと思いいそいそと会いに行ったその時の自分をひっぱたいてやりたい。好きなひとができたので別れてほしいといわれ頭が真っ白になり、待ち合わせ場所のレストランからどうやって帰ったのか覚えていなかった。気づけばトボトボと見知らぬ道を歩いていた。早く家に帰らなければと思うのだが、思考がまとまらずただただ歩き続けた。なずなは振られた彼に心底惚れていたわけではなかった。彼はブランドで身を固めた見栄っ張りで、自身を棚に上げて、他人を見下すような性格だった。なずなは今年二十八歳になる。なずなはどうしても早く結婚して、暖かい家庭を持ちたかったのだ。なずなは天涯孤独だった。中学生の時、両親を事故で亡くした。当初は親戚である叔母に預けられたが、打ち解けられずうまくいかなかった。なずなは高校は学生寮がついている所を選び、大学はアパートに一人暮らしをし、現在は会社員をしている。なずなが小さい頃、当たり前のように持っていた暖かな家族、それを強く欲していた。突然、なずなはハタとある事に気がついた。見た事もない道の横の壁に不釣り合いなドアがあったのだ。そのドアは古風なオーク素材でできていて、彫刻も細かな植物があしらわれていた。そして、そのドアからは暖かい光が漏れていた。なずなは住居から漏れる光に強い憧れを抱いていた。家から漏れる光は家族が先に帰っている証だからだ。なずなは好奇心に抗えず、その奇妙なドアのノブを掴んだ、ギギッと木のきしむ音と共に、ゆっくりとドアが開く。なずなはドアの中に足を一歩踏み込んだ。暗がりの道から、まばゆい光の場所に入ったため、なずなは眩しくて目をギュッと強く閉じた。


「キャア!マーサ、成功よ!」


突然若い女性の声になずなは驚いた。自分は他人の家に無断で上がりこんでしまったのだろうか。室内の光になずなの目がやっと慣れて、ようやく辺りを見回す事ができた。室内を見て、なずなは驚きの声を上げた。まるで物語に出でくるヨーロッパのお姫さまの部屋のようだったからだ。なずなの前には一人の女性が立っていた。その女性は、この部屋に似つかわしい豪奢なドレスを着ていた。そして彼女の瞳は美しいブルーで、髪は豊かなブロンドだったのだ。なずなは焦った、自分は中世ヨーロッパの世界にタイムスリップしてしまったのだろうか。だがすぐに思い直す、なずなはドレスの女性の言葉が分かったのだ、だとすればこの女性は日本語を話したという事になる。なずなが驚きのあまり呆然と立っていると、なずなのすぐ横からも声がした。


「ようございましたね、クリスティーナお嬢さま」


ドレスの女性の他にも人がいる事に初めて気づいたなずなは、キャッと小さな声を上げた。なずなの横には小柄な老婆がいた。ふくよかで柔和な老婆だ。その老婆に見覚えがあって、思わずなずなは叫んでしまった。


「フミおばあちゃん!?」


その小柄な老婆は、なずなが小さい時に近所に住んでいた老婆にそっくりだったのだ。なずなはフミおばあちゃんの実の孫ではないが、両親が共働きだったため、よくフミおばあちゃんと潔おじいちゃんの家に預けられ、とても可愛がってもらったのだ。老婆は目をパチパチさせ、なずなの大声に驚いたようだが、やがて目を細め、優しく言った。


「あなたさまの世界で私はフミというのですね?この世界でのわたくしはマーサと申します。どうかマーサとお呼びくださいまし」


どうやらこのマーサという老婆は、フミの事も承知しているようだ。なずなは訳がわからず目を白黒させていると、ドレスの女性が話しかけてきた。


「ねぇ、なずな会えて嬉しいわ。私はクリスティーナ。この世界のあなたよ」


ドレスの女性、クリスティーナはおかしな事を言った。この世界のなずなとはどういう意味だろうか。なずなはいぶかしげに、この青い瞳でブロンドのクリスティーナをジロジロと見つめた。そしてある事に気づき、声にならない悲鳴を上げた。クリスティーナは、なずなにそっくりなのだ。クリスティーナが黒髪のかつらをつけ、黒いカラーコンタクトをつけたら、間違いなくなずなとそっくりになるだろう。驚きすぎて声も出ないなずなをおいてきぼりにしながら、クリスティーナは話を続ける。


「この世界に同じ人間が二人いられる時間は限られているの。なので手短かに言うわね。なずなにお願いがあるの、しばらくの間だけ私と入れ替わってくれない?」


なずなは、ええっ!と大声を上げた。何とも信じがたい状況だが、どうやらなずなが今いる世界は、なずなの住んでいた世界ではなく、別の世界らしい。そして、この世界のなずなことクリスティーナは、なずなの世界に行きたくて、なずなと入れ替わってほしいと言うのだ。なずなはやはり何と答えていいのかわからず呆然としていると、クリスティーナは悲しそうに微笑みながら話を続けた。


「私ね、もうすぐ結婚するの。結婚したら、もう私には自由が無いわ。だから、少しの間だけでいいの、なずな」


なずなは思った、クリスティーナが羨ましいと。なずなは早く結婚したかったのに彼に振られてしまった。だが目の前にいる、なずなとそっくりなクリスティーナは、もうすぐ結婚するのだ。なずなはフラれたショックもあり、入れ替わりを受け入れてしまった。クリスティーナは大喜びでなずなに抱きついた。中々自分に抱きつかれる経験はないなとなずなは冷静に考えていた。そうと決まればと、クリスティーナはなずなと衣服を交換するという。心得たようにマーサがクリスティーナのドレスを脱がしていく。つられてなずなも桜色のワンピースを脱いだ。なずなは、ぐええっと潰れたカエルのような声を上げながらきついコルセットの締めつけに耐えた。ドレスのスカートにボリュームをもたせるパニエもつけて、ドレスにそでを通す。


「これが私?」


なずなはほうけたように鏡にうつる自分を見つめた。ライトグリーンのツヤやかなドレスはシルクだ。胸元や袖口にはフリルがふんだんに使われて、ため息がでるような美しさだった。女性なら誰もが一度は憧れる、お姫さまのドレスだ。となりのクリスティーナもなずなのワンピースが気に入ったようで、嬉しそうに鏡の前でクルクルと回っていた。クリスティーナはなずなの持ち物も貸して欲しいと言う。なずなの世界で必要な、身分証明のための運転免許証や、スマートフォン、家の鍵などだ。そこで夢心地だったなずなが、途端に現実的になった。いくらクリスティーナがなずなとそっくりでも、彼女はブロンドの青い瞳の異世界人なのだ。なずなのフリをして生活できるとは到底思えない。慌てて問いつめるなずなに、クリスティーナはカラカラと笑った。髪と瞳の問題は、魔法薬を使えば解決するという、そしてなずなの世界の仕事

や生活に関しては、何年も前から観察していたから大丈夫だというのだ。心配が尽きないなずなだったが、一度受けた約束をたがえるわけにはいかずとりあえず納得した。クリスティーナはなずなのパンプスをはいて、なずなのカバンを肩にかけ、なずなが入って来たドアに向かった。そしてなずなとマーサを見ながら言った。


「マーサ、なずなの事頼んだわよ」

「かしこまりましたクリスティーナお嬢さま。お気をつけて行ってらっしゃいませ」

「なずな、後の事はマーサに聞いてね。そうそう、この世界で練習すれば魔法が使えるようになるわよ。じゃあねマーサ、なずな行って来るわね」


クリスティーナは、そう慌ただしく言いながらドアを閉めた。ドアは忽然と消えてしまった。なずなは呆然としたまま立ちつくしていた。その沈黙を破ったのはマーサだ。マーサは穏やかな声でなずなに言った。


「さぁさぁ、なずなお嬢さま、こちらへお座りください。今紅茶を運んでまいります」


そう言ってマーサはなずなをテーブルの横の椅子に座らせた。テーブルも椅子も木製の、細かな細工がほどこされたものだった。なずなはほうっと、無意識につめていた息をはいた。あまりの怒涛の展開に頭がついていけない。なずなは気を落ち着けて、冷静に今までに起きた事柄を整理しようとした。なずなは彼にフラれて自暴自棄になり、あてどなく知らない夜道を歩いていたら、不思議なドアを見つけ、開けてみたらここに来ていたのだ。ここにはフミおばあちゃんにそっくりなマーサという老婆と、なずな自身にそっくりなクリスティーナがいた。クリスティーナは、ここはなずなの住んでいる世界とは違う、異世界だと言った。クリスティーナはもうすぐ結婚するため、自由な時間が欲しくて、なずなとしばらくの間入れ替わって欲しいとお願いされた。期間は一ヶ月くらいとの事。なずなはフラれたショックで明日仕事にも行きたくなかったから、しばらく傷心を癒すために入れ替わってもいいかという気持ちになり、承諾してしまった。そしてクリスティーナは最後に聞きずてならない事を言っていた。この世界では魔法が使える。なずなは胸の奥がカァッと熱くなるのがわかった。なずなはワクワクしているのだ。小さい頃テレビのアニメを観て、魔法使いに憧れた。自分も魔法使いになりたいと、一生懸命アニメの主人公が唱える魔法の呪文を覚えたものだ。なずなが夢想にふけっているうちに、マーサが紅茶のポットとティーセット、スコーンを乗せたワゴンを押してやってきた。マーサはなずなのために、紅茶の茶葉を蒸らし、丁寧に淹れてくれた。なずなの鼻腔に紅茶の華やかな香りが広がる。


「アールグレイでございます。もう夜も遅うございますのでミルクもお入れいたしましょうか?」


マーサの問いになずなはうなずく。ミルクもちゃんと温めてくれたようだ。なずなはティーカップの乗ったソーサーを受け取ると、ティーカップを持ち香りを嗅いだ。ベルガモットの香りが心をリラクッスさせてくれる。紅茶を一口飲む。美味しい。なずなはコーヒー党で、紅茶はあまり飲まないが、マーサの淹れてくれた紅茶は驚くほど美味しかった。すすめられたスコーンも食べてみる。これもとびきり美味しかった。外はサクサクで中はしっとりしていて、そえられたブルーベリージャムの甘酸っぱさがあいまって最高だ。そこで初めてなずなは、自分がお腹が空いている事に気がついた。彼に別れを切り出され、レストランの食事をほとんど残してしまったからだ。なずなはマーサが用意した三つのスコーンをペロリとたいらげた。マーサは嬉しそうにほほえんで言った。


「このマーサの手作りスコーンはクリスティーナお嬢さまの大好物なのです。きっとなずなお嬢さまにも気に入っていただけると思っておりました」


マーサはなずなに紅茶のおかわりを淹れてくれながら、何から話しましょうかとなずなに問いかけてくれた。なずなは目下一番気になっている質問をした。


「あの、私がこの世界に来たのは魔法のチカラなんですか?」

「さようでございます。この世界の人間は皆一つだけ魔法を使えるのです。クリスティーナお嬢さまは今まで行った事のある場所にドアを作る事ができる空間魔法です。わたくしは異世界に干渉する魔法です。クリスティーナお嬢さまとわたくしの魔法を合わせて、なずなお嬢さまをこの世界に呼び寄せたのです」


なずなは、はやる気持ちをおさえてマーサに続けて聞いた。


「あ、あの私も魔法って使えるようになりますか?」

「はい、もちろんでございます」

「ど、どうやったら、できるんですか?」


マーサはクスクス笑ってから答えた。


「はい。魔法を発動させるには、イメージが大切でございます。ゆっくり深呼吸をして、心をリラクッスさせます。そして念じるのです。扉よ開け、と」


なずなはマーサの言った通り、深呼吸をして、なずなを異世界に導いたドアを思い浮かべ、扉よ開け。と強く念じた。だがドアは現れなかった。落ち込むなずなに、マーサは優しく諭した。練習すればきっと使えるようになると。気を取り直して、なずなは次の質問をする。


「じゃあ私の知ってるフミおばあちゃんと、マーサさんも、私とクリスティーナも同一人物という事なんですか?」


なずなの質問にマーサは少し考えてから話し出す。


「同一人物というと語弊があるかもしれません。この世界も独立していて、なずなお嬢さまの世界も独立しています。ですが全くの偶然か、わたくしの魔法は、なずなお嬢さまの世界に干渉できるものでした」


実際に見てもらった方が早いと、マーサはなずなの前で魔法を発動してくれた。なずなの目の前に、まあるい穴のようなものが現れ、なずながその穴を覗くと、驚いた事にネオン輝く街の景色が広がっていた。まるで高いビルの窓から下を見ているような感覚だった。なずながじっと穴の中を見ていると、夜景だった景色は、どんどん近づいてきて、一人の女性を映し出した。クリスティーナだ。クリスティーナは嬉しそうにスキップをしながら夜道を歩いていた。なずなのマンションがわからないのではないかと心配したが、クリスティーナはちゃんと駅まで戻り、電車に乗って、なずなのマンションがある最寄駅で降りたのだ。どうしてクリスティーナはなずなのマンションの場所がわかるのだろうと不思議に思っていると、表情に出でいたようで、マーサが説明してくれた。


「クリスティーナお嬢さまはお小さい頃は活発な女の子でした。ですがある事をキッカケに変わってしまわれたのです」


なずなはハッとした。クリスティーナがふさぎ込んだ出来事に思いいたったからだ。なずなの思いつめた表情を見たマーサは小さくうなずくと、話を続けた。


「さようでございます。クリスティーナお嬢さまのご両親が事故で亡くなったのです」


なずなはギュッと目をつむった。やはりこの世界でも両親はいないのだ。


「身寄りが無くなったクリスティーナお嬢さまは、叔母上のメグノマリヤさまに引き取られました。メグノマリヤさまはクリスティーナお嬢さまの母上、実のお姉さまを大層毛嫌いしていて、クリスティーナお嬢さまにも辛くあたりました」


なずなはハァッと息を吐いた。やはりこの世界でも叔母はなずなの事を嫌っていたのだ。なずなは最初、潔おじいちゃんとフミおばあちゃんの好意で、彼らの家に引き取られるはずだった。なずなも可愛がってくれるおじいちゃんとおばあちゃんの所に行きたかったが、叔母の秋恵あきえは他人に迷惑をかけるなんてと言い、強引になずなを引き取った。なずなの中学生の三年間はまさに地獄のような日々だった。秋恵は、自身の娘二人はとても可愛がり大切にしていた。二人は美味しいご飯を作ってもらえたが、なずなのご飯は冷めた残りもの。娘二人はお稽古事を習わせてもらっていたが、なずなはそんな事は許されず、家の掃除や買い物など召使いのように働かされていた。その暮らしに嫌気がさして、なずなは高校にあがるとともに叔母の家を出たのだ。もの思いにふけっていたなずなはハッと意識をマーサの話に戻す。


「クリスティーナお嬢さまはメグノマリヤさまのお屋敷に来てからはかごの鳥のような暮らしをしておりました。外に出ることも、自由に過ごす事も許されませんでした。そこでわたくしはクリスティーナお嬢さまの気晴らしになればと、この異世界のクリスティーナお嬢さまを見せて差し上げたのです。わたくしの魔法は、何の役にも立たないものでしたが、クリスティーナお嬢さまは、なずなお嬢さまにいつも言葉をかけていらっしゃいました。なずな、頑張って。私も頑張るから。と、いつもなずなお嬢さまの事を見てらしたんですよ」


なずなは鼻の奥がツンッとして、目から涙が溢れてきた。泣き出したなずなにマーサはびっくりして訳をたずねた。なずなは鼻をすすりながら答えた。


「急に泣き出してごめんなさい。私両親が死んでしまった時、とても悲しくって、自分はひとりぼっちなんだってずっと思ってたの。だけどクリスティーナがずっと側にいてくれたんだと思ったら、私嬉しくって」


マーサは驚いたようになずなを見て、そして顔をクシャッとゆがめ、涙を浮かべながら言った。


「やはりなずなお嬢さまは、クリスティーナお嬢さまと同じとてもお優しいお方です」


マーサの言葉に、なずなは恥ずかしくなり、照れ隠しに冷めかけた紅茶を飲んだ。マーサは話を続ける。


「これはクリスティーナお嬢さまが、なずなお嬢さまに心配をかけまいと、黙っているように仰せつかっていたのですが、クリスティーナお嬢さまは魔物の花嫁になるのです」


ブフォッ!なずなは驚きのあまり口から紅茶を吹き出した。



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