私はきっと恋をしている。
ぱん
私はきっと恋をしている。
ああ、私はきっと恋をしている。
グラウンドに響く声援。舞い踊る砂埃。心地よいバットの打撃音。
お揃いのユニフォーム、刈り揃えた坊主頭では遠目にはあまり見分けがつかないけれど、私は知っている。あいにくの曇り空でも1イニング終了ごとにこちらを振り返り、笑顔を向けるその少年の眩しさは、霞むことのない輝きだ。
「まあ、それでも、叶えざるべき恋なのだろうけれど」
窓枠まで寄せた椅子に座り、頬杖をついて愛想笑いをする大人になってしまった自分では、彼に見合うことはない。むしろ若い彼の希望ある将来に自分を残したくない思いの方が強い。
「それこそ、私のように、なってしまうからね」
遠い過去の記憶を脳裏に滑らせ、軽くため息を吐く。
――先生は言っていた。
恋は憧れであり、希望であり、かつ絶望である、と。
誰しも異性、同性関わらず、憧れを抱いたことが一度はあると思う。その人のようになりたい、あなたがいるから頑張れると思う希望や、逆にあの人のようにはできない、なれないと絶望を抱いたり。
とはいえ、無感情でなければ相応に恋と定義されてしまうような言葉ではあるけれど。
「…………」
私があの日、ついにできなかったことを平然とやってのけたからというのもある。
だから少年へと向けてしまうこの意識は、先生の言う恋なのだろうと勝手に解釈している。
職員室の壁掛け時計は、もうすぐ一五時を差す。
昼過ぎから始まった試合も、もう最終イニングだ。得点板は、1-1の同点。この回、彼のチームが攻撃で、文字通り一点でも取れば、勝ちが確定する裏回になった。
「ああ……いや」
でも、期待しているわけじゃない。
負けろとは思わなくとも、どうにか引き分けぐらいになってくれないかなとさえ思っている。
ただ、彼がバッターボックスに立つのを見た瞬間、胸が騒がしくなっていた。
フォームは完璧。真剣な眼差しは、ピッチャーの投球に集中している。
ああ。まるでサヨナラホームランでも打ちそうな勢いじゃない。
1点取ればいい。先頭打者となった彼はよくて出塁し、アウトを取られることなく、バッターボックスまで帰ってくる方が堅実だ。
とはいえ、野球は一人でこなすスポーツじゃない。信頼できる仲間の力があってこそ、その一点は約束されるもの。出塁したとて、仲間がスリーアウトに取られればこの試合は終わり。
「……強引に取りつけた私との約束も、そこにかかってるなんてね」
まるでドラマのような展開だ。
自ら点を挙げるなら、ホームランの他ない。先頭打者ゆえに彼の他、出塁者はない。確率の低いホームランに打って出るのは無鉄砲だ。でも、仲間に託して試合に負けてしまうのを考えるなら、堅実な方法よりは前のめりに博打する方がよほどかっこいい。
何より、彼は言っていた。
『先生、今度の試合絶対に勝つからさ』
屈託のない笑みを浮かべ、親指を突きたてて、自ら勝利を呼び込むと確信したその発言に、若いっていいな、とこの時ばかりは憧れてしまった。
負けた時は前言を取り消すことはできない。後悔に苛まれようと、結果は残り続ける。自分にも、相手にも。最悪を先に想定しがちな堅実な大人になった私では、ここまでの無謀な約束は取りつけられない。
でも、だからこそ。
「――……あ」
考えてみれば、やはり青春の一ページを自分に賭けられるのにあまり悪い気がしない。
あの日、私は口にできなかったから。言い縋ることもできなかったから。
見栄っ張りな過去の私には、彼のように失敗を恐れず立ち向かうことはできなかったから。
――キィン、と空に抜けるような甲高い金属バットの音がした。
あまりにも清々しいその音色の数秒後、続いて湧きおこる黄色い歓声に私まで椅子から立ち上がっていた。
『――ねえ、先生』
進路相談のために二人きりになった教室で、呼びかけられた彼の声がこだまする。
第一希望の大学一本で提出された希望表を目の前に、真剣に見つめる彼の瞳が忘れられない。
今さらになって頬が熱くなる。
『俺と付き合ってよ、幸せにするから』
大言実行とばかりに、彼の打球はグラウンドのフェンスに直撃していた。
あまりにも綺麗な曲線を描いてフェンスへと食い込んだその一打は、少年の想いを如実に物語っている。
「……嘘、でしょ?」
ホームベースを一歩、踏みしめて帰ってきた彼の視線は、私に向いていた。
グラウンドから遠く、職員室の窓から微妙な笑みを浮かべる私に、彼はまたしても親指を突き立て、約束を念押すように笑顔を重ねる。
ああ、私はきっと恋をしている。しているのだろう。
崩れ落ちるように、放り出された椅子へと腰を落とす私は呆けたように天井を見上げた。
頬に手をやる。脈打つ胸に酸素を取り込む。
試合終了の声と、賑わう歓声が追い打ちをかけるように耳朶を打つ。
「…………はぁ」
そう、ですか。
頬に触れた手を額に当て、嘆息を吐く。
肩をなでるように切りそろえた髪が流れ、椅子の上を滑るようにして背中を浮かす。
まあ、子供の約束。冗談でしょ、と一言くれてやれば終わるような口約束だろう。
恋は憧れで――と、脳裏をよぎる先生は臆病な私の背を叩く。
でも先生、教育者として現実を教えるべきじゃないだろうか。でもそうなれば、彼の希望は潰えて絶望へと変わってしまう可能性が高いな。意を決した高校三年の春先から失恋を書き込む青春など、なんて残酷なのだろう。それもその相手が私だ。彼の将来から自分を消すどころか、過去に大きな傷を残してしまいかねない事態に発展してしまうなど、どう足掻こうと収拾がつかない。
急かすように校舎に響く足音が、職員室まで届く。
もう時間はなかった。
「……っ」
喉が鳴る。
大して熱くもないのに、首筋に滲む汗が気持ち悪い。
もうため息もでなかった。崩れていた姿勢は正され、よもや仕事をこなしていたとばかりにデスクへと椅子ごと戻り、何事もなかったように深呼吸で整える。
完璧だ。完璧な取り繕いが完成した。
でも、そんなことをしてどうなろうか。
彼に対して、自分がどうあるべきなのかを――よもや、答えを用意するのが先決ではないのか。
覚悟を決めろ。
「――先生っ!」
逡巡もつかの間、職員室の扉を叩く彼の声があった。
息を切らして半開きの扉の前で立つ彼の視線が突き刺さる。期待に満ちたその瞳に、私は果たして彼が納得する答えを口にできるのか。
「先生、あの」
いや、するしかないのだろう。
アラサーとなってまで、こんなにも緊張に胸を震わせることがあるなんて知らなかった。
彼の言葉を遮るように、私は言った。
「お疲れさま、
振り返る私の顔は、ちゃんと笑顔を保てているのだろうか。わからない。
ただ頬が熱い。喉が渇く。
それでも、息を吸った。
「この前の返答だけど――」
私はきっと恋をしている。 ぱん @hazuki_pun
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