カミュの鎖

大地 慧

一章 はじまりの冬

冬盛り、朝

 アパートの階段を下りたら、目の前は小さな山だ。右を見ると、ちょっと遠くのほうに山。左を見ても、ちょっと遠くに山。

 そして僕はいまから、右の山のふもとにある学校へ自転車を走らせるところだ。

 冬は僕が気づかない間にどんどん加速していたみたいで、足先が凍ってしまうんじゃないかというくらい寒かった。それをはねのけるように、僕は一生懸命自転車を漕いだ。

 僕はいつも、友達と一緒に通学している。今日もそれは例外じゃなくて、その友達の家に迎えに行く。前後を確認して、ぎりぎり二台の車がすれ違って通れそうなほどの狭い道を横切って、住宅街へと続くさらに小さい道に入った。

 スピードを落とすために漕ぐのをやめたら、途端に、また寒くなってきた。短くなった制服のズボンの裾からいっぱいに冷気を含んだ空気が入ってくる。でも、これはさっきのとは違って、何となく心地いい寒さだ。

 西山は僕が来るのを家の前で待っていた。西山の、遅ぇよ、から、僕の一日は始まる。いつものセリフだ。僕が約束の時間に遅れていても、遅れていなくても西山は絶対にこう言う。

 そして合流した僕らは、学校ではやってはいけないと言われているにもかかわらず、自転車で並進しながら、コンクリートの上の凍った水たまりに気を付けながら、基本的には生活道路を、時々田んぼのあぜ道を漕いで学校へ向かうのだ。

 僕の学校はたぶん、少し特殊で、というか特徴があって、校舎へ行くには百メートルくらいある緩い坂道を登らないといけない。その坂道の真ん中くらいに駐車場と駐輪場があって、自転車通学のすべての生徒はその駐輪場に停めないといけないことになっている。ここで注意しないといけないのは、外見は全くもってヤクザの、学校で一番厳しい先生がそこであいさつ活動をしていることだ。といっても、あいさつ活動などというのはたぶん建前で、本当は、生徒がちゃんとヘルメットをかぶっているかとか、身だしなみはちゃんとしているかとか、そういうことをチェックしている。

 ちなみに、その先生は僕の部活の顧問だった。「だった」というのは、僕はもう受験生で、秋に引退したからだ。西山もおなじテニス部だったから、この顧問の怖さは身をもって知っている。僕も西山も、朝に駐輪場に入るときが一日で一番緊張する瞬間だ。

 ──おはよう。

 低く濁った、威圧感のある声だ。僕たちは少しの失礼もないように、おはようございます、といかにも好青年なふうに挨拶して横を通り過ぎる。咎められるようなことがあれば、特に西山は大変だ。西山は部活には毎回きちんと参加していたものの、態度が悪かったり、やる気が無いといわれたりして顧問からはあまり良い印象は持たれていなかったと思う。実際西山は、ラケットをスイングするフォームが何となく気怠そうに見えたし、顧問にそういう印象を持たれるのは仕方なかったんだと思う。

 それでも西山が、部活に毎回参加していたのは、友達が多いとはいえない西山にとって、僕は一緒に通学してくれる希少な奴だったっていうことと、無断で休めば顧問のところに行って、わざわざ休んだ理由を説明しないといけないから。この二つが半分ずつだと思う。

 クラスごとに自転車を止める場所は違うから、僕は西山としばし別れて、自分のクラスの自転車置き場に向かった。ちょうど何人かクラスメートがいて、そのなかに佐藤と藤村さんがいた。佐藤は小学校の頃からよく遊んでいて、家も近く、とても仲のいい奴だ。藤村さんは、愛嬌があって、快活で、クラスでも人気がある。

 そしてこれは誰にも言ってないけど、僕は実は、藤村さんのことが、気になっているというか、な言葉で言うんなら、好きだ。

 僕は藤村さんにあいさつして、次に佐藤に適当に声をかけて、奥のほうに停めに行った西山と合流して、一緒にそれぞれの教室へ向かった。

 僕たちは気付けばいつのまにか受験生と言われていて、数か月後には高校生になるらしい。クラスではちゃんと勉強する者と、勉強はそこそこにして手を抜いている者、あるいは推薦入試で既に進路が決まったやつもいる。みんな、着々と未来へ進んでいる。僕は、この中学校は好きだから、卒業したくないと思うけど、時間はそれをゆるしてくれない。

 しかも僕は、父の転勤があるという理由で、高校からは隣の県の、お母さんの実家があるところに引っ越すことになっている。だから、小学校からずっと一緒に遊んできた佐藤とか、西山は中学からの仲だけど、そういう仲のいいやつらと同じ高校に行く可能性は、僕が受かるか受からないかという受験の結果にかかわらずゼロだ。

 僕が引っ越す予定の隣の県は、中国地方の中心地だから、「僕は高校からシティボーイになるんだぞ」なんていって、みんなを「いなかっぺ」だなんて言ってからかって、おどけていたりするけど、僕は別にシティボーイになりたいわけではない。そもそも、それがどんなものかすら、よくわかっていない。

 ただ、この学校のたくさんの友達と、高校でも今と全然変わらないような生活を送りたい。毎日バカみたいな話をして、勉強はほどほどにして、誰かの家に集まったり、公園に行ったりしたい。

 塾の奴らは別だが。

 数学の小プリントが早く終わったので窓を眺めながらそんなことを思っていたら、だんだん雲行きが怪しくなってきた。できればみんな、永遠にプリントを解き終わらないでほしい。この数学の授業が終わらないでほしいなんて願ってみる。なぜかというと、僕は今日、塾に行きたくないからだ。これは今日に限った話ではないのだけれど。

 ──松本君、終わったんなら小林さんに教えてあげて。

 佐野先生がいつにもまして目聡く、暇そうな僕を発見して、面倒な仕事を押し付けてきた。小林は藤村さんと仲が良くて、こいつもまた快活で、普通に会話する分には楽しいのだが、何より頭が悪いので、勉強を教えるとなれば別だ。どこから説明してやればいいのかわからないし、たちが悪いのは、「あぁ!わかったわ!」などと言っておきながらてんで見当はずれな回答をたたき出すところだ。

 ──おっ、優等生、ここで詰まってるんよね。どうやったらいいん。

 まず僕は、問題の考え方を示して、そこからどういうふうに展開していけばいいのかを説明した。これだけでは、小林は全くわからないだろうと僕は思っていたが、驚くべきことに、小林は小林で最近はちゃんと勉強をしているようで、その説明だけで問題を解くことができた。肩透かしを食らった僕に、解答を書き終えペンを置いた小林が小さい声で何か言ってきた。

 ──今日放課後時間ある?

 なにごとだろう、と思ったが、とりあえず、塾に行くまで少しなら時間があると伝えた。なんなら、塾には少し遅れてもいいとも言った。そうしたら小林は、放課後教室に残ってて、と言って、再びペンを持って、なにごとも無かったかのように次の問題の解説を求めてきた。

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