特別編 もう一つの序章

 オレは一七年間の人生で、一人の人間を殺している。

 もっとも、世間的に見ればただの病死だ。

 けど、オレが殺したようなものだった。


 オレが少女——雨弥(あまね)唯依(ゆい)と出会ったのは、小学校一年生のとき。

 たまたま席が前後で、何がきっかけだったかすぐに仲良くなった。

 大した理由はなかったと思う。

 たしかに雨弥は無愛想で、誰に対しても敬語で話し、そのくせに失礼なことばかり言う子供だったが、不思議とオレは、嫌な感じはしなかった。

 ……ある日、『自分は重い心臓の病気を患っていて、いつ死んでしまうかわからない』と、雨弥に告げられる。

 当時の年齢は七歳。

 両親や祖父母は健在で、『死』というものが身近ではなかったオレは、いまいち事の重大さを理解することができなかった。

 だとしても、歳を重ねれば知識はつく。

 あれほど頻繁に体調を崩して休んでいれば、嫌でも知らざるを得ない。

 次第に、雨弥がどのような苦しみを背負って生きているのかを知ったオレは、彼女のふとした笑顔を見るたびに、いたたまれない気持ちになった。

 ——彼女は中学校に行けなかった。

『発作』が起こったらしい。かなり危ない状態だったらしく、緊急手術をするまでに至った。

 幸い手術は成功し、命に別状はなかったが、次にまた発作が起これば、今度こそ命が危ないらしく。学校になんて行けるわけがなかった。

 それでもオレは、毎日のように雨弥に会いに行った。

 理由なんて、単純だった。

 結局は、雨弥のことが好きだったんだと思う。

でないと、それから五年間、日に日に弱っていく彼女に会いにいくなんて、できやしないだろう。

 そうして。

 オレだけが高校生となって、一年が経った頃——。

 海を見に行きたい、と雨弥は言い出した。

 テレビでしか見たことがないから、一度でいいから本物を見てみたい、と。

 オレは答えに迷った。正直言って、雨弥の願いならなんでも叶えてやりたいが、病人に遠出させるのが、よくないことはさすがにわかっている。

 実際、雨弥の発作はいつ起こってもおかしくはなく、外出自体が厳禁にもほどがあった。

 でも結局、オレは雨弥を海に連れていくことに決める。

 彼女の方から願い事をするなんて、初めてだったからだ。

 だから、病院から一番近かった、なんてことのない臨海地帯に連れていった。

 その、殺風景な海を見て——。

 今まで見た中で一番綺麗な景色だった、と彼女は呟いた。

 正直言って、何を大袈裟な、と思った。

 けど同時に、それすら美しいと思えるほど、彼女の中で『外の世界』は魅力的なのだと悟ってしまった。

 だから——、

 次はもっともっと綺麗な海を見ようぜ、と言った。

 そうだね、と彼女も言った。

 その約束をきっと果たそうと——オレは心に決めた。

 ……そしてオレは神様に願った。

 雨弥と……一番大切な人とずっと一緒にいたい、と。

 何かしらの宗教に入信しているわけではなかったけれど。

 名も姿も知れぬ神様に向けて、奇跡を祈った。

 …………でも、そんなハッピーエンドは起こりうるはずもなくて。


 ——二度目の発作は、突然だった。

 浜辺から病院に帰る途中、雨弥の体調は急変した。

 オレは何が何だかわからず、慌てふためくことしかできずに。

 いや、きっと気づいていた。ただ、それを認めたくなかっただけなのだろう。

 雨弥がかなりの無理をして、海を見に行ったということを。

 手術はこれ以上ないっていうほど、成功したそうだ。

 雨弥はなんとか一命をとりとめた。

 だけど、その大成功に終わった手術でさえ、ほんのわずかな時間しか、彼女に残すことはできなかった。

 余命三ヶ月。

 テレビのドキュメンタリーでしか聞いたことのなかった現実がそこにはあった。

 その現実を、雨弥の母親とともにオレは聞かされた。

 彼女の父親はすでに他界しており、彼女は母親と二人で暮らしていた。もっとも、ここ数年を雨弥は病院で過ごしていたから、何年も前の話ではあったが……。

 オレは何度も何度も、雨弥の母親に謝った。

 地に額を擦り付けて、大の男が泣きながら謝った。

 彼女は何も言わず、ただ静かに雨弥の寝顔を見つめるだけだった。

 ……やがて手術が終わって二日後。雨弥が目を覚ました。

 よく寝た、なんて言葉を発して、真夜中に起きたそうだ。

 オレはなるべく、いつも通りに振る舞った。

 雨弥だって、さすがに子供じゃない。

 余命宣告だって、当然聞かされているだろう。

 雰囲気で察してはいたが、お互い何も言わなかった。


 そして迎えた、とある日の夕暮れ——。

 代わり映えのしない病室で、いつも通りのゆったりとした時を、オレと雨弥は過ごしていた。

 数ヶ月という、短いようで意外に長い時間。オレは彼女に何をしてあげられただろう。

 結局、もっともっと綺麗な海には連れて行ってやれなかった。


 ごめんな、とオレは謝った。

 いいよ、と雨弥は答えた。


 翌日。

 ——雨弥の心臓は止まった。


 命日より一年が経ち、雨弥の家に行った。

 雨弥の母親は、用件を聞くと、静かにオレを家にあげてくれた。

 彼女は、以前に見た時より、いっそう老けた気がする。

 ……本当の気持ちで言えば、彼女とは会いたくない。顔を合わせたくなかった。なに甘えたことを言っているんだ、と言われれば返す言葉もないが、それでも怖かった。

 でも、罪から逃げてはいけないと思ったから……。

 そっと、雨弥の遺影の前に座る。

 線香の先で彼女は、彼女を知る人間しかわからないほどの、小さな笑みを浮かべていた。久しぶりに見た雨弥の顔は、よりいっそう美しく見えた。

「あなたに、渡したいものがあるの」 

 ふと背後から、意を決したような声が聞こえた。振り返って、恐る恐る彼女と目を合わせる。

 その瞳に、怒りの感情は見えなかった。

 どこまでも——澄んだ目だった。

「あなたが連れ出したから悪い、というわけじゃないことはわかっているわ」

 雨弥が二度目の発作で倒れたあの日から、言葉を交わすどころか、顔すらまともに合わせなかった彼女が、オレの目をまっすぐと見つめて語りかけてくる。

「あなたは一〇年以上、ずっと唯依によくしてくれていたし、最終的に病院を抜け出すと決断したのは、きっとあの子自身なんだって。だから、私はあなたを——恨んでないわ」

 言葉を頭の中で咀嚼するのに、数秒の時間を要した。

 タイミングを計ったかのように、彼女は机の上に置かれていた一通の封筒を手に取ると、オレの横に腰を下ろす。

「唯依の遺書よ。病室の机の引き出しに入ってたの。あなた宛てのだったから、ずっと渡そうと思っていたんだけど、あなたに会いに行く勇気がなかったのよ。いい大人なのにね」

 口に手を当て、自重気味に笑う彼女。

 そっと差し出された封筒の宛名には、たしかにオレの名前が記されていた。何も言葉にできないまま、オレは便箋を読むために封に手をかける。

 ……自分の心臓の鼓動の音が聞こえるような気がした。

 雨弥にあげたいとさえ思っていたオレの心臓は、派手に高鳴っている。

 手紙の内容はシンプルだった。


『 私の大切な人へ



 手紙なんて柄じゃないから簡潔に。

 私は死んでしまうけれど、貴方には私の分まで幸せになってほしい。その未来を信じてる。

 あと、私のママは寂しがり屋だから、たまには会いに行ってくれると、嬉しいかも。私までいなくなったら、可哀想だから。


 ずっと傍にいてくれて、ありがとね。永遠にお慕いしています。

 私は、貴方に出会えて幸せでした。






 P.S.


 生まれ変わったら、また私に逢いに来て。


雨弥唯依 』


 ツンツンと尖った、お世辞にも綺麗とは言えない文字で、雨弥の想いが短く綴られてあった。

 最後の文字辺りには、涙が滲んでいた。

「あま、ね……」

 かすれた声しか、出せない。

 オレは……ずっと必死に未来を語っていた。

 休みがちだった雨弥は、少ししか学校生活を送ったことがないから。

 体調がよくなったら、また一緒に学校に行こう、と。

 楽しいことをいっぱいしよう、と。

 刻一刻と彼女の体を蝕んでいる病から、目を背けて。

 だけを語っていた。

 でも、雨弥は違う。

 彼女はとっくに死を受け入れていて。

 自分が助からないことを知っていて。

 なお、オレの前では笑い続けていた。

 笑って、死んでいった。

「唯依は、本当に君のことが好きだったのね」

 雨弥の母親は、優しげな、そしてどこか笑うような声で告げた。

「小学校に入学した頃の唯依は、その年ですっかりやさぐれてたわ。体が弱いから外に出られずに、友達と遊ぶことすら知らなくて。あの子の世界はずっと、病院の寂しい個室で完結してたの」

 それは過去だった。

 想像するだけでしかなかった、雨弥の暗い過去。

「私は不安だった。あの子はこのままなんの楽しみもなく、いつ唐突に終わるとも知れない人生を一人で歩き続けるんじゃないか、って恐れてた。でもね——」

 変わったのよ、と彼女は言った。

「あなたと話すようになってからは——笑うようになったの。唯依も私と一緒で少し感情表現が苦手だったけど、それでもちょっとずつ、笑うようになった。親の私でもどうしようもなかったのに、あっさりと君が変えてくれた。本当に……嬉しかったわ」

 彼女は笑っていた。泣き笑いだった。

「唯依の言う通り、あなたには幸せに生きてほしい。それが——それだけが私の願いよ」

 ……この人は、強い。

 自分の娘が亡くなって、その死因に関わった男の幸せを願う。

 どうしてそこまで透明なことを願えるのだろうか。

「わかってます。唯依さんからもらった言葉は、絶対に忘れません。せいいっぱい、生きます。だから…………だから、もし挫けそうな時は、またここに来てもいいですか?」

 自然と口からこぼれ出た言葉だった。

 オレは、弱い。どれだけの想いを受け取っても、へこたれることは多いだろう。きっと雨弥のことが尾を引いて、また落ち込むだろう。

 だからこそ、雨弥のことを笑って話せるほど強くなれるまでは、またここへ——。

 ……いつのまにか滲んでいた涙のせいで視界が揺れている。

 揺らめく世界の中で、雨弥とそっくりの女性は微笑んだ。

「ええ、いつでも待ってるわ」

「——ありがとう、ございます」

 短く告げ、オレは再び頭を下げた。

 深く、深く。

 どのみち、溢れ出る涙で……前が見えない。

 こちらこそありがとうね、と言った彼女の声は、やはりどこまでも澄んでいた。

 沈みかけた夕日が部屋を照らす中、オレは嗚咽を漏らし続けた……。


 ——みっともなく、泣いて泣き叫んで泣き喚いて、泣き止んだ後。

 思い出話でもしましょうか、と言った雨弥の母親は、スイッチが入ったのか雨弥とのことを根掘り葉掘り尋ねてきた。まずは思い出を笑って語れるようにという彼女なりの気遣いであり、けじめの一つでもあったのだろう。

 ちゃっかり夕飯までいただいてしまったオレが雨弥の家を後にしたのは、午後八時を回った頃だった。

 ……帰り道を一歩一歩、踏みしめるように歩く。

『君は十分、強い子よ』

 別れ際に言われた台詞が、オレの頭をぐるぐると回る。

「…………頑張らねえとな」

 この世界からいなくなってしまった彼女に、そう誓ったのだから。

 誰にともなく呟き、赤信号をギリギリで渡り切る。

 夜とは言いつつもまだ午後八時過ぎ。繁華街の交差点脇はまだまだ賑わっている。

 ————と、甲高い女性の悲鳴が響き渡った。

 女性だけじゃない。野太い声だろうがなんだろうが、いくつもの人間の恐怖の声が響き渡る。当然オレの目も、自然と声がする方向に吸い寄せられ……見た。

 円状に逃げ惑う人々の中心に立ち尽くす、男。

 黒いパーカーを目深にかぶっており、性別は体格からわかるが、顔はよく窺えない。その手には……鋭利なナイフが握り締められていた。

 心臓が、跳ね上がる。さっさと逃げろ。体が、そう警告している。

 でもオレはその場から動けなかった。ナイフを持った明らかに様子のおかしい男よりも、その近くで、腰が抜けたのか尻餅をついている女の子から目が離せなかった。

 今時ではあまり見かけない、セーラー服の少女。

 ————。

 ……嘘、だろ? …………・雨弥・?

 その少女は、その顔は、あまりにも雨弥にそっくりすぎた。

 永遠にも思える思考のよそで、ナイフの男は少女に詰め寄る。二人のすぐ近くには、誰もいない。仮にいたとしても、警察でもない限り立ち向かおうとは思わないだろう。

 オレも、いくらどうあがいたところで二人の接触を止められる距離じゃない。

 ……そもそも立ち向かうことなんてできるのか? 

あんな危なそうな奴に? 喧嘩すらまともにしたことのないオレが? オレは————、

「やめろ!」 

 気づけば、叫んでいた。

 だって、あの少女には、傷ついてほしくないから。

「その子に近づくんじゃねえ!」

 ピタリ、と。

 ナイフを振りかざした男の動きが止まる。奴の顔がぐりっとこっちを睨みつけてきた。焦点の定まらない開き切った瞳は、明らかに正気じゃないことを嫌でもわからせてくる。

「んだよぉ……テメェ」

 ボソボソと喋る男の言葉が、辛うじて聞こえた。ようやく意識が少女から逸れたみたいだ。

「その子から、離れろって言ってんだよ! 聞こえねえのか!」

 それでも、煽るように叫ぶ。

「俺にぃ、指図すんじゃねえよぉ!」

 ついに激情した男は、ズンズンとこちらに駆け寄ってくる。

 ——やるしかねえ。

 オレは地面をしっかりと踏みしめた。

 生まれて初めて、本気で拳を握る。握りしめる。

「——ッ‼︎」

 ゴキィ! という鈍い音が響く。感覚が麻痺しているのか、振り抜いた拳に痛みは感じない。そして当たりどころがよかったらしく、ナイフの男は大きくノックバックして倒れた。

 やりゃあ、なんとかなるもんだな……。

 自分がやったことに自分で驚いていると、再び観衆の誰かが痛烈な悲鳴を上げる。

 視線は……オレに向いていた。

「……っ?」

 どうしたんだよ、と口に出そうとして。

 がぽっ、という声にならない呻き声が、自分の喉から溢れた。

「う、ひぃ!」

 ナイフの男は地面に落ちていた・血塗れの・ナイフを見て情けない声を上げると、フラフラとした足取りながら逃げ去っていく。

 それを傍目に捉えつつ、さっきから違和感のあった腹に手をやる。

 ……………………べっとりとした赤い液体で、手が染まった。

 状況を理解したと同時、急激に感覚が蘇る。

 ……熱い、熱い熱い熱い熱すぎる。なんだよ、これ。痛え! 痛えよ‼︎

 いよいよ足に力が入らなくなり、オレは地面に突っ伏す。熱い。やられた。どうして、クソ!

 パタパタという足音が微かに聞こえる。顔をわずかに上げると、件の少女がオレのそばまで寄ってきていた。震えていて、顔は見るからに青かったが、怪我をせずに済んだみたいだ。

 雨弥にそっくりの、鋭くて、でもとても優しい瞳の、女の子。

「あなた、なんで……」

 少女の声は、雨弥よりは少し高い声だった。

「似て……んだよ。オレ…………好きな人…な」

 まともに言葉を喋れない。けど、理由くらいは話してやりたかった。

 ……結局は自己満足だが。

「それ、だけで……? ばかじゃないかしら、あなた」

 ひでぇ。でも……そうだな。確かに馬鹿だけどさ、口が、体が、勝手に動いてたんだよ。

 もう少しくらい喋れると思っていたが、急速に意識が遠ざかっていくのを感じる。

 霞む視線の先で、今にも泣きだしそうな表情の少女を見て、悪いことをしたなと思う。この子はきっとオレが死んだら、多少なりとも責任を感じるんだろうな、と。

「ごめ……な。あま、ね」

 だから謝ろうと思ったが、当然名前なんか知らないから、つい雨弥と呼んでしまう。

 少女は一瞬だけキョトンとしたが、言葉の意味を理解したのか、

「……誰よ、それ。私にはチカという名前があるのだけど」

 思わずと言った感じで苦笑する少女。意図してなんかいなかったが、泣かれるよりは、きっとこっちの方がいいだろう。

 ……なんだか、目を開けていることさえ、疲れてきた。終わりってやつか。

『もし生まれ変わったら、また私に逢いに来て。』

 最期に想うのは、やっぱり最愛の女性(ひと)のこと。

 雨弥と交わした約束。大切な、絶対に忘れないと誓った約束。

 ああ、そうだ。今度こそ絶対だ。






 ——生まれ変わっても、必ずまた逢いに行くから。





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